和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

ユリのメシベ。

2013-06-12 | 地域
今日は雨が降ったりやんだり。
もう一週間ほど前に、
めづらしく、ユリの花を一束いただき。
いくつかの花瓶に挿して楽しみました。
黄色いユリの花。
その黄色が、そろそろ散ります。
ユリの花は、花弁とオシベが散る。
メシベがそのまま茎に残っている。
その姿が面白い。
そうだ、葉桜というのもある。
ユリの葉のみを花瓶にさしたままに。
メシベは、残っていると滑稽なので、
切りました。

うっとうしい一日。
路地の枇杷の実が目につきます。

さてっと、
漱石の俳句に

 髪に真珠肌あらはなる涼しさよ

これは、明治40年6月28日「西洋女優の絵端書に」とあります。


加藤郁乎編「荷風俳句集」(岩波文庫)が出ました。
とりあえず最初の方をパラリとひらくと、
明治35(1902)年に

 肌ぬぎのむすめうつくし心太(ところてん)


ということで、うっとうしさを忘れます(笑)。
そうそう、荷風俳句には数ページ前に、

 葉桜や茶屋の娘のとつぎたる

というのもあって、あらためて、
花瓶のユリの葉を見たりします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

目隠しされた状態で。

2013-06-11 | 短文紹介
日経の古新聞をもらってくる。
その5月16日の読書欄が印象深い。
社会学者・竹内洋氏がとりあげていた一冊は
平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」(藤原書店)でした。
書評の最後は、こうしめくくられておりました。

「・・本書も明晰かつ流麗な文格を感じる。
さらばこそ浩瀚(こうかん)な書があっという間に読めてしまう。読後、時勢に流されない、真の自由主義者がいたことに、勇気づけられ、心地よい余韻がひろがる。第一級の評伝である。」

その書評欄には、
作家・石川英輔氏による
野口武彦著「慶喜のカリスマ」(講談社)の書評もあります。
そこからも引用。

「幕末の日本社会は、教科書に書いてあるほど単純ではなかったことがはっきりわかった。時局に影響を与え得た人物がきわめて多いばかりか、各人の力関係や利害関係が恐ろしく複雑で、政治と軍事の状況がめまぐるしく変化し続けるからだ。しかも、通信が発達していなかったから、広い範囲で同時進行しているさまざまなことを誰も把握できなかったはずだ。」
「その彼(注:慶喜)とても、ほとんど目隠しされた状態で事態を判断し行動しなくてはならなかったのである。・・・その後の歴史の推移をいくらか知っている私が考えても、あの時点で指すべき最善手が何であったのか見当もつかない。・・」

この書評には、「ほとんど目隠しされた状態で事態を判断し行動しなくてはならなかった」とありました。そういえば、
竹山道雄著「ビルマの竪琴」を私は読んでいないのですが、
「竹山道雄と昭和の時代」には、「ビルマの竪琴」からの引用も含まれております。
そこから孫引き。

「・・この頑固なものに対しては、どこからどうとりついて説いていいか、分りませんでした。中には、本当にここで死ぬまで戦おうと決心している人もたしかにいました。しかし、そうではなくて、もっと別な行動に出た方が正しいのではないか、と疑っている人もいるにちがいないと思われました。しかし、そういうことはいいだせないのです。なぜいいだせないかというと、それは大勢にひきずられる弱さということもあるのですが、何より、いったい今どういうことになっているのか事情が分らない。判断のしようがない。たとえ自分が分別あることを主張したくても、はっきりした根拠をたてにくい。それで、威勢のいい無謀な議論の方が勝つ――、こういう無理からぬところもあるようでした。(第三話三)」
(p213)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あのころは。

2013-06-10 | 短文紹介
平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」(藤原書店)の
第18章「東大駒場学派の人びと」を読む。

思い浮かんでいたのは、
池上彰著「学び続ける力」(講談社現代新書)のこの箇所。

「1991年、文部省(当時)が、大学設置基準の大綱化を実施したことで、従来型の一般教養科目が激減します。・・その結果、多くの大学で一般教養コースが解体され、専門科目が増える一方、教養科目は激減しました。
ところが、これ以降、大学卒業生を受け入れる企業の側から、『専門知識は持っていても、一般常識に欠ける学生が増えた』との不満が出るようになります。これにオウム真理教事件が追い打ちをかけました。常識で考えてありえない奇妙な教えを信じる学生が続出。
・・東工大の卒業生にも関与した人物がいます。これをきっかけに、やはり一般教養必要だ、ということになったのです。・・どうも日本の教育は試行錯誤が多すぎます。・・実は東工大には一般教養を重視するという伝統があります。・・・」(p45~47)

ここでは、池上氏が東工大で教えるキッカケから話がはじまっていて、その大学をふまえて語られております。
さて、「竹山道雄と昭和の時代」の第18章です。
そこに、
「教養学部という名称は旧制高等学校の教養主義とは切っても切れない観念である。」(p447)とあります。うん。一般教養とは違う『教養学部』を、ご自身を通じて語っておられます。

「竹山道雄と一番親しかった人々は、手元に残された手紙類を整理してみると、旧制一高の最後の生徒で新制東大の駒場に新設された後期課程へ進んだ面々である。一高で一年を過ごし、その伝統的な教養主義を奉じる気概ある若者が、授業内容は一高よりもはるかに上質である教養学部教養学科で鍛えられたということは稀なことであったのだ。・・・そしてその間に日本の軍部、ヒトラーのドイツ、共産主義のロシア、毛沢東の中国を批判してぶれない竹山道雄を身近で見てきたのである。それでいながら私たちは『時流に反して』意見を述べるその人が日本言論史の中で占めるべき位置をきちんと世間に説き明かさずに今日にいたってしまった。遅きに失したかとあやぶまれるが、しかし書かねばならない。そこには世間が一旦は忘れてもなお後世に残るなにかがあるとひそかに信じている。」(p461)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さうでがす。

2013-06-08 | 詩歌
柳田国男の「山の人生」を読む。
以前に読んだのは、たしか小林秀雄のエッセイに触発されてでした。
あの時、いったい何を読んでいたのだろうと、思うのでしたが、
それでは、今回何を読んだのかと聞かれると、困るなあ。

「天明年間に貉(むじな)が鎌倉建長寺の御使僧に化けたという話」の箇所も興味深かった。その章は「十二 大和尚に化けて廻国せし狸の事」にあるのですが、その章の最後は、

「神隠しの少年の後日譚、彼らの宗教的行動が、近世の新道説に若干の影響を与えたのは怪しむに足らぬ。上古以来の民間の信仰においては、神隠しはまた一つの肝要なる霊界との交通方法であって、我々の無窮に対する考え方は、終始この手続きを通して進化して来たものであった。書物からの学問がようやく盛んなるにつれて、この方面は不当に馬鹿にせられた。そうして何がゆえに今なお我々の村の生活に、こんな風習が遺っていたのかを、説明することすらもできなくなろうとしている。それが自分のこの書物を書いてみたくなった理由である。」


これ以降が、何か面白くなってゆくようだったのですが、
さて、何を読んだのか、その裾野をウロついたような気分が残ります。
ということで、「山の人生」の最後の2行ばかりを引用。

「たとえば稚(おさな)くして山に紛れ入った姉弟が、その頃の紋様ある四つ身の衣を着て、ふと親の家に還って来たようなものである。これを笑うがごとき心なき人々は、少なくとも自分たちの同志者の中にはいない。」


ああ、そういえば、読んでいる途中、
夏目漱石の俳諧詩が思い浮かびました。
ということで、その引用。

   童謡

 源兵衛が 練馬村から
 大根を  馬の背につけ
 御歳暮に 持て来てくれた
 
 源兵衛が 手拭でもて
 股引の  埃をはたき
 臺どこに 腰をおろしてる

 源兵衛が 烟草をふかす
 遠慮なく 臭いのをふかす
 すぱすぱと 平気でふかす

 源兵衛に どうだと聞いたら
 そうでがす 相変らずで
 この年も 寒いと言つた
 
 源兵衛が 烟草のむまに
 源兵衛の 馬が垣根の
 白と赤の 山茶花を食つた

 源兵衛の 烟草あ臭いが
 源兵衛は 好きなぢぢいだ
 源兵衛の 馬は悪馬だ

    ( 明治38年1月1日「ホトトギス」)

ついでに、もう一箇所引用。

  無題
 
無人島の天子とならば涼しかろ  漱石
獨り裸で据風呂を焚く      同
いづくより流れよりけんうつろ船 虚子
大き過ぎたる靴の片足      漱石
提灯のやうな鬼灯谷に生え    虚子
河童の岡へ上る夕暮       漱石

  ( 明治37年7月、於虚子庵 ) 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私もです。

2013-06-07 | 短文紹介
歴史通7月号を買いました。
まず読んだのが、
出久根達郎・渡邊徳子(三月書房代表取締役)の
対談「活字の底力」。
たのしかった。

最後の方にこうあります。

渡邊】 ・・三月書房の事務所には、いまだにパソコンを置いてないんです。もちろんホームページもメールアドレスもありますが、自宅で管理しています。経済的な問題もありますが、事務所にパソコンを置いてしまうと、時間を奪われてしまう気がする。無くてもそれほど不便とは思いませんし、どうも脳味噌の使っている部分が違う気がして気持ちが悪い。・・・買ってくださった方が大切にしたいと思ってくださる本をつくりたいという思いは変わりません。(p29)


本の函についても、なるほど。


出久根】 ・・ある有名出版社の函入り本はどれだけ振っても函から出てこないんですよ、ギチギチで(笑)。
渡邊】 ・・・私はピッタリおさめるのではなく、函見本より実際は奥行きと束を1ミリ広げるよう指示します。


最後にここも引用しておかなきゃ。

渡邊】 ・・私は逆に村上春樹さんの作品が苦手です。読んでも内容が入ってきません。あくまで趣味の問題ですけれど・・・。
出久根】 私もです。私の年で読むと全然面白くない(笑)。傑作とは絶対思えない。でも、それを若い連中に言ったら絶句していました。
渡邊】 ハルキストと呼ばれる若者たちの顔を見ているとなにか共通性を感じます。とても本好きには見えない(笑)。個人的感覚ですが、私たちが見てきた本や小説が好きな方々とは明らかに違う人種が集まっているように見えておもしろい(笑)。


う~ん。小説は読まない私ですが、こう語っていただくとホッとするなあ(笑)。
安心しすぎて、それじゃ読んでみようか、などと思ったりする(笑)。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自縄自縛である。

2013-06-06 | 短文紹介
平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」(藤原書店)を買うことに、
もうすこし待てば、古本屋にでるのかなあ。と思うのでありますが、
今年の3月頃に出た新刊を注文。
それにしても、産経新聞の正論欄での平川氏の文を読めるのは、
現在を知る鋤と鍬をいただけるような鮮やかさを、その都度、感じさせていただけるのでした。まるで、魅力の講義を聞いているような気分。
ということもあって、少し高いのですが
なあに、名講義を聞きにでかけると思えば
これは安いかもしれないと、新刊を買うことに。

さてっと、藤原書店の2013年3月号「機」に
平川氏の文が載っておりました。
そこから、最後を引用。

「文章を書くとは選ぶことである。
選ぶからこそめりはりもつく。
人生も選ぶことである。
『(東京の)有名な府立中学といえば、一中、三中、四中、五中、六中などであった』と私が書いたら、慎重な人から、『そんな書き方をすれば府立二中の関係者の反感を買いますよ』と注意された。その種の気配りを良しとお感じの方も多いであろう。しかしそのような風潮に気兼ねするかぎり、戦前の日本のエリート校であった旧制第一高等学校の教授であった人を語ることは難しくなってしまうのではないか。世の一部の人の反感を過度におそれるならば、当り障りのないことしか書けなくなってしまう。それでは自縄自縛である。私は『竹山道雄と昭和の時代』を率直にありしがままに書きたいと思っていただけに、そのような注意を受けたことに逆に驚き、不安を覚えたのであった。・・・・角を矯めて牛を殺してはならない。エリート教育を受けたからといって、十中八九、人は大した人物とはならない。しかし十人に一人でも偉才を生めばそれで良いのである。私はそう信じている。」


さてっと、買ったからには読むぞ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私はテレビを見ながら。

2013-06-05 | 短文紹介
まだ、柳田国男の「遠野物語」を読んでる途中なのですが、
今度読んで、こんな箇所があるのを知りました。

八十四に
「佐々木氏の祖父は七十ばかりにて三四年前に亡くなりし人なり。この人の青年の頃といへば、嘉永の頃なるべきか。海岸の地には西洋人あまた来住してありき。釜石にも山田にも西洋館あり。船越の半島の突端にも西洋人の住みしことあり。耶蘇教は蜜々に行はれ、遠野郷にてもこれを奉じて磔(はりつけ)になりたる者あり。浜に行きたる人の話に、異人はよく抱き合ひては嘗(な)め合う者なりなどいふことを、今でも話にする老人あり。・・・」

2010年9月1日の当ブログに、
そういえば、こういう書きこみをしておりました。

「徳岡孝夫著「お礼まいり」(清流出版)に
昭和30年代を振り返った、徳岡氏の文があります。
ひと味もふた味も違うのでした。そこを引用。まあ一箇所のみ。


昭和35年、徳岡氏はフルブライト留学生としてアメリカへ。翌年サンフランシスコから船で帰国します。出発と同じ横浜の大桟橋が終着点でした。
そこで帰ってきて船を降りる時のことが語られております。


「私たちのそばに一人、桟橋に向かって懸命に手を振る若い西洋人の女がいた。見ると桟橋側にも彼女に向かって手を振っている男がいる。何か叫んでいる。・・・・
船はゆっくり接岸した。荷物の少ない私は、さっさと入国手続きと通関を済ませ、一年ぶりに横浜の土を踏んだ。一番だろうと思ったら、そうではなかった。税関を出たところに、さっきの女がいた。出迎えた男と抱き合っている。・・・・
小さい輪を作って、それを見物している数人の日本人がいる。服装から見て、ヒマな沖仲仕らしい。半径二メートルほどの綺麗な円を作って、男たちは延々と続く西洋人のキスを眺めている。誰もニヤニヤ笑っていない。オッサンたちの中には腕組みしているのがいる。何か話し合いながら見ているのもいる。男女は、見られているのを全く気にしない。ちょっと離れては抱き合うのを繰り返している。抱き合えばシッカリ接吻する。二人もマジメだが、眺める側もマジメである。犬の交尾を眺める人間か。人間の交尾を見る犬の群れか。冷やかし半分に見ている者は一人もいない。
『見い、よくやるのう』『おお、またやりおるわ』『映画の実演みたいじゃ』『西洋人は、こうやらんと気が済まんのじゃろ』そう話し合っているのが聞こえるようである。・・・
私は顔から火が出た。真昼の抱擁・接吻と純粋な傍観の見物人。寸分のイヤラシサもないから、私はかえって恥ずかしかった。・・・・
西洋史家・会田雄次(1916~97年)の『アーロン収容所』が、全裸で日本兵捕虜の前に出て羞じない英女兵を描いたのは、この大接吻の翌年である。」(p49~50)


私はテレビを見ながら、ひょっとすると『おお、またやりおるわ』とつぶやいていたりすることがあるような気がしてきました。」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

狩の作法。

2013-06-04 | 短文紹介
柳田國男の「後狩詞記」。
その「狩の作法」の最初の方に、

「この時なほ大に注意すべきはハヒジシにあり。ハヒジシ(這ひ猪)とは負傷せる猪が怒りて人犬に当らんがために、伏して仮死状をなし居るをいふ。この考へなくして近よりたるときは、猪は矢のごとく飛びかかり、牡猪なるときは牙にて股をゑぐり、牝猪なれば牙なきゆゑ肘とな頸となく咬(くは)へて粉砕せんとするなり。」

そして、「狩の作法」の最後はというと、

「幼犬もし猪罠にかかりたるときは、ただちに罠を切り解くべからず。罠の杭をたわめ罠を弛めて、犬をして自らこれを噛み切るの習慣を養はしむるを肝要とす。」


ああ、そうそう。遠野物語をめくっていると、
今回は、注に興味を惹かれました。たとえば、その中に、
「星谷といふ地名も諸国にあり星を祭りし所なり。」
というのが、ある。
私の中学校時代、校長先生は、星谷悌二先生でした。
うん。
「星を祭りし所なり」ですか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩のわかれ。

2013-06-03 | 詩歌
「新編柳田國男集」(筑摩書房)。その第一巻解説は岡谷公二氏。
解説のはじまりは

「柳田國男が二十代の前半、すぐれた新体詩人だったことはよく知られている。しかし後年の彼は、自分の新体詩を嫌悪し、周囲の強いすすめにもかかわらず、『定本柳田國男集』に新体詩を収録するのを、断固として許さなかった。それゆえ読者は、その存在を知りながら、これまでまとまった形で彼の新体詩を読むことができなかったのである。」

その新体詩が、「新編柳田國男集」の第一巻には収録されております。
そこから、一箇所引用。

  はかなきわかれ

 恋のねがひぞはてもなき、
 ただ一目とは思ひしが
 君があたりに居りそめて
 十日もすでに過にけり、
 今はかひなし別れむと
 いかなる事か障(さは)りけん、
 影だに君が見えざりき、

 さらばこのまま別れてん、
 過し日ごろのうれしさも
 今のわかれの苦しさも
 唯ひと言も告げかねて
 なきてや我は旅立たん、
 たえぬねがひを抱きつつ、

 我が恋やむは何時ならん、
 ・・・・・・・・・


うん。まさに、この別れから、民俗学の方へと踏みこむ始まりの唄に聞えてきたりします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

古本の虫干し。

2013-06-02 | 本棚並べ
雑誌「WILL」7月号に
坂崎重盛・岡崎武志対談「粋人はどこへ消えたのか」が掲載されていて、司会の花田紀凱も加わって、新刊の坂崎重盛著「粋人粋筆探訪」(芸術新聞社)を楽しく語っております。
それが、あんまり楽しそうなので、購入することに。

新刊をパラパラとめくると、あれれ、安藤鶴夫著「落語鑑賞」もきちんと紹介されてる。
そこには、こうあります。

「苦楽社版『落語鑑賞』の刊行は昭和24年だから、敗戦後間もない。物資不足の時代に、よくぞ、こんな贅沢な仕事をしてくれました!自慢ですが、実は、この苦楽社版のかなり保存状態のいい『落語鑑賞』を持っているのです。・・・・この本を入手できたときは、心から(ああ、生きていて本当によかったなあ)と、感じたものでした。」(p110~111)

その装丁画も、ちゃんとありました。
その下に「これぞ『苦楽』の連載が単行本として刊行された安藤鶴夫『落語鑑賞』のカバー。この『落語鑑賞』は後に何度も他社から復刊されるが、この最初の苦楽社版が木村荘八の装丁画によって最高の造本。本文表紙から見返し、扉、後見返し、裏表紙が、寄席の入口から下足、中の様子、楽屋出口という流れで描かれている。木村荘八のなんともうれしい企みだ。」(p109)

ああ、そうなのか、最近古本で購入した苦楽社の「落語鑑賞」には、もとはカバーがついていたのだ。そうだったんだ。まあ、私が買ったのは安い値段なのでしかたない(私が買ったのは、おまけに静岡管理部・移動図書の印つき)。カバーがついていたと、新刊で教えられるとは思いもしなかったのでした。


「粋人粋筆探訪」の「まえがき」は
ついつい引用したくなります。

「・・・万年床をぐるっと囲むように立つ本棚を見やると、高校生のころに手に入れた本や、オトナになってから少々懐に痛い思いをさせて獲得した本の背文字を認めることができる。それらをボーッと眺めていると、本そのものは昔の姿のままに本棚に納まっているのに、それを買い求めたその店は、とっくになくなってしまっているということも珍しくない、ということに気づく。思えば、本は火にも水にも弱い、紙でできているのに意外と長寿で、それを所有する本人よりも何倍も長生きしたりする。
ぼくも、地を這う蟻のように、せっせと自分の部屋に運び込んだ愛しの雑本類を残したまま、早晩、この世を去るだろう。しかも、ご多聞にもれず(?)集まってしまった本のほとんどは、きちんと読んでないし、ザッと目を通したとしても、その内容は、われながら面白いくらいに忘れている。
そんな古本買いや雑本遊びをしていると、いつともなく本の群れが生じ、やがて、あるテーマが浮かび上がってくる。本たちが示し合わせて、ぼくに囁きかけるのだ。・・・」


今日は午後から晴天。なにやら古本の虫干しをしているような気分になりました。


追記  古本購入
    太田書店(静岡市葵区)
    苦楽社「落語鑑賞」
    2625円+送料300=2925円なり

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

震災後6日目。

2013-06-01 | 他生の縁
岡康道・小田嶋隆対談「いつだって僕たちは途上にいる」(講談社)に
こんな箇所があったのでした。

小田嶋】 東日本大震災とその後の災害で一番怖かった瞬間はいつかといえば、俺の場合は、アメリカ軍が逃げた情報を聞いたときだった。
岡】 逃げたね。80キロ圏外。震災後6日目にね。
小田嶋】 あれだけの装備と知識と力と肉体を持った人たちに逃げられたら、俺たち、やっぱりもう終わりだな、って背筋がゾッとした。

東日本大震災から2年を過ぎると、こういう「背筋がゾッとした」感覚も、私はすっかりとわすれてしまっております。

そして、ドナルド・キーン氏が、ほかならぬ、日本国籍を取得したいと申し出るニュースが流れた時の何とも言えない心持も忘れています。

瀬戸内寂聴、ドナルド・キーン対談「日本を信じる」(中央公論新社)に

キーン】 私はニューヨークにいました。あちらのテレビでも24時間、日本の震災のことを報道していて、いつもはあまりテレビを見ないんですが、あのときばかりはずっとテレビから目が離せませんでした。・・・被災した人々はどうしただろう、今、どんな気持ちでいるかと考えると眠れませんでした。・・・日本人になると決めた私の気持ちを表現するなら、第二次大戦中に作家で詩人の高見順が日記に書いた思いと重なるでしょう。
戦時下でいちばん情勢が厳しいときに、当時、鎌倉に住んでいた高見順さんは、アメリカ軍が鎌倉を攻撃するという噂を耳にします。心配して、自分のお母さんを田舎へ帰したいと大船まで見送った後、妻を連れて東京大空襲の跡を見に上野駅に行くのです。しかし着いてみると群衆があふれ、大変な混雑となっていました。みんな、安全なところに逃げたいという同じ気持ちにかられて。高見さんが驚いたのは、誰もが静かに整然と並んで汽車の順番を待っていたことです。待つのは当然だというように。我先にと列を乱す人はいない。その光景を目にして、『私はこうした人々とともに生き、ともに死にたいと思った』と日記に書くんです。
私も同じ気持を抱くようになりました。むしろ、どうしてもっと早く日本国籍を取ることを考えなかったのか、自分でも不思議に思ったくらいです。・・・」(p13~18)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする