和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

地震雷火事大仏。

2008-06-25 | 地震
岡本綺堂と地震。
岡本経一氏は書いております。
「大正十二年九月一日の関東大震災で東京の大半は壊滅した。麹町区元園町に住んでいた岡本家もその厄に遭うて、家屋資材蔵書の一切を失った。綺堂はかぞえの五十二歳の時である。」(光文社「鎧櫃の血」の解説)

おもしろいのは、旺文社文庫の「綺堂むかし語り」。
その三章「身辺雑記」というのが、震災にまつわる雑記をおさめており、興味深いのでした。たとえば、三章のはじまりは「人形の趣味」。これは大正9年に書かれた雑記なのでした。そこからすこし引用を重ねます。

「・・・人形に限らず、わたしもすべて玩具のたぐいが子供のときから大好きで、縁日などへゆくと択り取りの二銭八厘の玩具をむやみに買いあつめて来たものでした。・・・そんな関係から、原稿などをかく場合にも、机の上に人形をならべるという習慣が自然に付きはじめたので、別に深い理窟があるわけでもなかったのです。・・・今ではそんなことをしません。しかし何かしら人形を控えていないと、なんだか極まりが付かないようで、どうも落ちついた気分になれません。小説をかく場合でもそうです。脚本にしろ、小説にしろ、なにかの原稿を書いていて、ひどく行き詰まったような場合には、棚から手あたり次第に人形をおろして来て、机の上に一面にならべます。自分の書いている原稿紙の上にまでごたごたと陳列します。そうすると、不思議にどうにかこうにか『窮すれば通ず』というようなことになりますから、どうしてもお人形さんに対して敬意を表さなければならないことになるのです。旅行をする場合でも、出先きで仕事をすると判っている時にはかならず相当の人形を鞄に入れて同道して行きます。」

さて、そのあとにも、いろいろと書かれているのですが、この文の最後には、追記がありました。そこも引用しておきましょう。

「・・それら幾百の人形は大正十二年九月一日を名残りに私と長い別れを告げてしまった。かれらは焼けて砕けて、もとの土に帰ったのである。九月八日、焼け跡の灰かきに行った人たちが、わずかに五つ六つの焦げた人形を掘り出して来てくれた。
   わびしさや袖の焦げたる秋の雛     」


旺文社文庫では、この後の文が「震災の記」でした。
そういえば、そこにも人形にまつわる記述があります。

「第一回の震動がようやく鎮まった。ほっと一息ついて、わたしはともかくも内へ引っ返してみると、家内には何の被害もないらしかった。掛時計の針も止まらないで、十二時五分を指していた。二度のゆり返しを恐れながら、急いで二階へあがって窺うと、棚いっぱいに飾ってある人形はみな無事であるらしかったが、ただ一つ博多人形の夜叉王がうつ向きに倒れて、その首が悼(いた)ましく砕けて落ちているのがわたしの心を寂しくさせた。
と思う間もなしに、第二回の烈震がまた起こったので、わたしは転げるように階子をかけ降りて再び門柱に取り縋った。それがやむと、少しの間を置いて更に第三第四の震動がくり返された。・・・」


ここで、話題をかえたいのですが、
田山花袋著「東京震災記」という古本を買ったのですが、最初に何枚かの写真が載せてあるのでした。そこに「頭の落ちた上野公園の大佛」という写真があり、ちょっと見にくいのですが、なるほど、首から上が前に転がっている写真です。

私が読んだ記録では、ほかに
慶安二年(1649)6月21日に武蔵国を中心とする大地震にも、
上野寛永寺の大仏の首が落ちたという記述があるそうであります。


さてっと、ここからなら「地震雷火事大仏」という噺に、
つながりそうです。

え~。江戸時代には、三大大仏といわれる大仏があったそうですなあ。
東大寺の大仏は教科書にも写真が載って有名です。それに鎌倉の大仏。
あとひとつはなにかといいますと、昔、京の大仏というのがあったそうです。
豊臣秀吉が何でも奈良の大仏にならって作らせたそうです。
その京の大仏は、鎌倉の大仏と違って、経緯がわりかし辿れるのでした。
1595年。大仏殿完成し、高さ19mの木製の金漆塗座像の大仏が安置される。
1596年。激震で、開眼供養前の大仏が倒壊。
1598年。秀吉死亡。その年。大仏がないままに大仏殿で開眼供養。
1602年。出火により大仏殿焼失。
1612年。徳川家康の協力で、大仏殿と銅製の大仏完成。
1614年。梵鐘も完成。
1662年。地震で大仏がわずかに破損し、木造で作り直される。
このとき出た銅は、寛永通宝に使われる。
1798年。雷が大仏殿に落ちて、本堂、桜門と共に大仏も焼失。
二度と再建されず。江戸時代の三大大仏である。京の大仏が
これで姿を消すことになりました。

(以上は、ネットで調べました)


それじゃ、奈良の大仏は、どういう災害にみまわれたのか?
気になるのは、大仏の首でした。

「造立されてから約100年の間に200回を超える地震があり、855年5月仏頭が重みで自然落下し、その後も、二度兵火に襲われ、現在の大仏は胴体が鎌倉時代、両手が桃山時代、少し面長になった首から上の頭部が江戸時代に再鋳造されている」のだそうです。気になる大仏の頭はというと、

「平安時代の大仏の頭が傾き、855年地震で転がり落ち、861年に修理」
「1180年12月28日。四万の軍勢により奈良町の民家に放火。
その時、大仏殿の天井裏に避難した老若男女1000人と共に大仏も頭と手が焼け落ちる」
この再建にあたって、奥州平泉の藤原秀ヒラから5000両。源頼朝から1000両の砂金の寄付。1195年3月落慶供養。その際に、数万の軍勢を率いた頼朝も黄金1000両を寄進して、北条政子と共に参列。

「1567年10月。兵火で、又も大仏殿が焼失。大仏の頭部が焼け落ちる。」
外護者織田信長の死などで中断し、再興は進まず、奈良東部の領主山田道安が私財を持って・・大仏の頭を木で造り、銅版を張っての仮修理、大仏殿も仮建設。1610年大仏殿が暴風雨で吹っ飛び、大仏は銅版の頭のまま風雨にさらされて露座。」
そして1691年(元禄4年)に大仏またも完成。翌年大仏開眼供養。・・・・



え~と。京の大仏。奈良の大仏。ときました。
鎌倉の大仏は、鎌倉時代より津波で大仏殿が流されたおかげもあって、露座のままに現在まで首がつながっているのでした。現在は緑青錆(ろくしょうさび)に覆われ見栄えはよくないのですが。それに酸性雨の影響も心配の種はつきないのですけれど、地震雷火事津波に耐えて、その姿を700年以上に渡って伝えているのでした。ということで、機会があったら、改めて見てみたいと思うこの頃です。

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