詩は、分かったようで分からないところがありますよね。
わからないようで、いつか分かったりするかも知れない。
すぐ飽きっぽい私ですから、詩を読んでいても、
すぐ興味が他にうつります。けれども不思議に、
またその詩人を読んでみたいと思うこともある。
そんなときのために、安い古本で詩集があると、
まあ、とりあえず、買っておくことがあります。
こうして『井上靖全詩集』(新潮社・昭和54年)を買いました。
古本函入り400円。ありがたいことに月報のような冊子つきです。
この『井上靖全詩集』は、昭和58年に新潮文庫に入っています。
うん。詩集には文庫がよく似合う。手軽で、惜しげなく読める。
私がぐうぜん安く買えた、函入り全詩集は昭和55年二刷でした。
はい。函入り詩集に、はさまっていた冊子に4名の方々が書いて
おりました。その二番目に竹中郁の文がありました。
のちに新潮文庫になった『井上靖全詩集』には、
残念ながら、この冊子の文までは載っていない。
はい。400円分の引用をさせていただきます。
竹中郁『詩の塔』と題して文のはじまりも印象的です。
「井上靖さんが関西の水に馴れ親しんだ年月は、相当ながい。
しかも、若い頃だった。吸収力の旺んな年ごろだった。
井上さんの骨太な歴史小説、たとえば『天平の甍』とか
『風濤』とかからは、伊豆山脈を朝夕みつづけてきた人の息吹をかんじる。
それと呼応して書かれたかのように、その詩をみると、
これは関西の水に浸ったからだと思えるふしがある。
繊細な感情の揺れをさりげない抑揚のうちにすらりと出してみせてある。
読者に向って、お汲みなさい、お汲みなさいと、玉のごとき水を向けてある。
これは京阪の文化風土が古くから持ちつづけているテンペラメントだ。 」
はい。こうはじまっているのですが、
私には『京阪の文化風土が古くから持ちつづけている』という
テンペラメントからしてもう分からなくなる。
それは京阪の人たちにごく普通のことなのかなあ、と思ったり。
うん。このあとに『きりん』の話になったりするのですが、
エイヤア。ばっさりカットして、竹中さんの短文の最後の方
雑誌『きりん』への言及がふたたび出てきます。
「・・どうしても忘れられないのだ。わたくしと会うたびに、
白石欣也や宗次恭子はどうしたでしょうねと、かれらの純粋無垢の貴さ、
美しさにうたれた三十年前を呼び出すように問いかけられる。
三十数年前の経験がよほど気に入っているのだ。
この子供だった二人だけではなく、ほかにも心に喰い入った
小詩人たちはみな成人して、井上文学を読んでいるにちがいないが、
このような関係は何と呼べばいいのだろう。・・・ 」
はい。やはり全文を引用しなくちゃいけないと思いながら。
ここまで(笑)。そう400円分はここまで。
ほかにも書きたいことがあるけれど、
それは、次回のブログにいたします。
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