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和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

今西錦司でなければ。

2021-01-15 | 京都
私の京都の最初の案内本は、
「梅棹忠夫の京都案内」(角川選書・昭和62年)でした。

こんど、入江敦彦著「読む京都」(本の雑誌社・2018年)を
ひらくと、梅棹忠夫氏と並んで今西錦司氏が登場している。
うん。これなら今西錦司を読み始められるかもしれない。
そう思える箇所がありました。ちょこっと引用。

「・・・三人目の今西錦司。
梅棹忠夫のお師匠さん。生態学者、文化人類学者として
数々の金字塔的研究を打ち立ててきた学者だが、
わたしの知る限りでは京都についての著作はない。
・・・・・

けれど、やはりここは今西でなければならぬ。
なぜならば京都語が森羅万象に敬語で接するように、
彼にはいわば学問対等意識めいた感覚があったからだ。
命題を探る手段として今西錦司という知性は自然科学にも
社会科学にも人文科学にも均等に接することができた。
学問の世界でかくも京都人的であれたのは、
すんごいことである。

京の老舗は格式が高いほど、名代の改良改善に余念がないものだが、
変化を恐れず、自らの説に固執することなく学問する姿勢もまた
見事に京都人の作法と一致する。
『今西錦司全集』(講談社)の後半、十から十三あたりは
学術的だと敬遠せずに読んでみる価値は大あり。
はっきりいって杉本秀太郎よりも読みやすいと思うし。」
(p198~199)

そのすこし前に、入江氏は「梅棹忠夫の京都案内」をとりあげ、
こう記すのでした。こちらも引用。

「・・白眉は、それこそ京言葉についての省察。
たとえば京都人が誰に向かっても、それが年下や身内、ときには
敵や犬猫にさえ敬語表現を使うのは無階層的、市民対等意識という
基本原則があるからではないかとする推論には感動した。
ああ、この都市の言葉はそんなふうに考えていけばいいのか
という指針にもなった。」(p198)

はい。今西錦司を、わたしは読めずにおりました。
京言葉からの視点でなら、読み始められるかもしれない。
さっそく、今西錦司全集の指摘されている巻を古本注文。

今西錦司を、今年読み始められますように。
そんな、思いをこめて、本を注文しました。




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