梅棹忠夫編「日本文明77の鍵」(創元社)。
これを古本で購入(300円)。
カバー帯つき。しかもきれい。
帯には
「あなたは、『不可解なニッポン』を
外国人に、どう説明しますか。」
とあります。
1988年5月第1版第1刷。それで買った古本は、
1992年10月第1版第8刷。
ちなみに、2005年には
文春新書で「日本文明77の鍵」が出ております。
それはそうと、
ちょっと引用。『大阪』の箇所はこうはじまります。
「江戸時代の日本を代表する大都市は、
江戸・京都・大阪の三つであった。人口でいえば、
江戸は100万以上、大阪・京都はともに40‐50万程度・・
当時、人びとは、この三都市を『三都』とよんだ。
日本には、都が三つもあったようないいぶりである。
それほど、この三都市は、他を圧した存在であった。
このうち、江戸は幕府の所在地として政治の中心であり、
京都は朝廷があり伝統的な文化都市であったのに対して、
大阪は経済活動によって特色づけられていた。
そのため『天下の台所』という異名さえあった。」
こうはじまる、3頁ほどの紹介文。
あと、三都ということで、ここも引用しておきます。
「俗に『大江戸八百八町』、『京都八百八寺』、
『大阪八百八橋』という。
江戸は都市の規模のおおきさが印象的であり、
京都は寺院のおおさが特徴、
大阪は橋の数だというわけ・・・・」
これが、『大阪』の項目。
それじゃ、『京都』はどうか?
「・・・京都に都がおかれたのは、794年であるが、
その後、東京に遷都されるまで1000年以上首都として
存在しつづけた。あたらしい都は平安京とよばれ
・・・このあたらしい都をつくる計画は、従来とは
まったくちがう条件でおこなわれた。それは本来国が
やるべき仕事に、民間の資金と能力を導入する方法で、
現代日本の都市再開発計画や工業地域開発にとりいれ
られている第三セクター方式にちかいものがあった。
・・・現地豪族は企業家的性格がつよく、
広大な私有地をもつとともに、はやくから養蚕、絹織物
などの殖産振興によって豊かな財力をもっていた。
新京建設計画に協力し、その豪族は政府財源を導入することで、
自領の開発をさらにおおきくすすめるという、
経済的利益を期待していたようである。
新京は、選地から遷都まで約1年という速さでつくられた。
そして、空前の規模をもつ都の建設であったにもかかわらず、
労役民の動員数や資材量など、工事の経過をしめす記録のないことも、
工事のおおくが民間の手でおこなわれたことをしめしているようだ。
また、民間との合同計画であったため、
平安京の建設は柔軟性があり実利的である。
たとえば宮殿は建設にながい期間をかけ、その間、
事務や儀式は既存の建物を利用しながらおこなっている。
町の部分では、低湿地だった右京部分をしいて利用せず、
高燥は左京を中心に、南部や東の山麓部に居住区を
ひろげていったことにそれがうかがえる。
このように京都はその当初から、人工的である一方、
都市として、民間人による、自律的発達のうごきを
内包していたのである。・・・」
へ~。こんなことが書いてあったのかあ。
この本は英文訳でもあるので、
案外に、これを読んだ外国人の方が、
日本のことをよく知っている。ということがおきる。
日本に住んでいる癖して、ボーッとしてるんじゃないよ。
と、5歳児に言われそうな気がします(笑)。
これを古本で購入(300円)。
カバー帯つき。しかもきれい。
帯には
「あなたは、『不可解なニッポン』を
外国人に、どう説明しますか。」
とあります。
1988年5月第1版第1刷。それで買った古本は、
1992年10月第1版第8刷。
ちなみに、2005年には
文春新書で「日本文明77の鍵」が出ております。
それはそうと、
ちょっと引用。『大阪』の箇所はこうはじまります。
「江戸時代の日本を代表する大都市は、
江戸・京都・大阪の三つであった。人口でいえば、
江戸は100万以上、大阪・京都はともに40‐50万程度・・
当時、人びとは、この三都市を『三都』とよんだ。
日本には、都が三つもあったようないいぶりである。
それほど、この三都市は、他を圧した存在であった。
このうち、江戸は幕府の所在地として政治の中心であり、
京都は朝廷があり伝統的な文化都市であったのに対して、
大阪は経済活動によって特色づけられていた。
そのため『天下の台所』という異名さえあった。」
こうはじまる、3頁ほどの紹介文。
あと、三都ということで、ここも引用しておきます。
「俗に『大江戸八百八町』、『京都八百八寺』、
『大阪八百八橋』という。
江戸は都市の規模のおおきさが印象的であり、
京都は寺院のおおさが特徴、
大阪は橋の数だというわけ・・・・」
これが、『大阪』の項目。
それじゃ、『京都』はどうか?
「・・・京都に都がおかれたのは、794年であるが、
その後、東京に遷都されるまで1000年以上首都として
存在しつづけた。あたらしい都は平安京とよばれ
・・・このあたらしい都をつくる計画は、従来とは
まったくちがう条件でおこなわれた。それは本来国が
やるべき仕事に、民間の資金と能力を導入する方法で、
現代日本の都市再開発計画や工業地域開発にとりいれ
られている第三セクター方式にちかいものがあった。
・・・現地豪族は企業家的性格がつよく、
広大な私有地をもつとともに、はやくから養蚕、絹織物
などの殖産振興によって豊かな財力をもっていた。
新京建設計画に協力し、その豪族は政府財源を導入することで、
自領の開発をさらにおおきくすすめるという、
経済的利益を期待していたようである。
新京は、選地から遷都まで約1年という速さでつくられた。
そして、空前の規模をもつ都の建設であったにもかかわらず、
労役民の動員数や資材量など、工事の経過をしめす記録のないことも、
工事のおおくが民間の手でおこなわれたことをしめしているようだ。
また、民間との合同計画であったため、
平安京の建設は柔軟性があり実利的である。
たとえば宮殿は建設にながい期間をかけ、その間、
事務や儀式は既存の建物を利用しながらおこなっている。
町の部分では、低湿地だった右京部分をしいて利用せず、
高燥は左京を中心に、南部や東の山麓部に居住区を
ひろげていったことにそれがうかがえる。
このように京都はその当初から、人工的である一方、
都市として、民間人による、自律的発達のうごきを
内包していたのである。・・・」
へ~。こんなことが書いてあったのかあ。
この本は英文訳でもあるので、
案外に、これを読んだ外国人の方が、
日本のことをよく知っている。ということがおきる。
日本に住んでいる癖して、ボーッとしてるんじゃないよ。
と、5歳児に言われそうな気がします(笑)。