産経新聞4月24日(水)の「正論」欄。
ありがたく、読めてよかった(笑)。
たとえば、私など、ブログを更新していると、
ブログの、書き方にちっとも進歩がない(笑)。
それでも、これはという文章と出会うと、
それに対し、感応力というような手ごたえが、
だんだん、ついているような気がするのでした。
はい。普段はそのまま右から左へと流れて消えて
しまう感銘ではありますが、それが手の内に残る。
さてっと、4月24日のコラム「正論」欄は、
長谷川三千子さんでした。読めてよかった。
どれほど、自分は味読できるか心配なので、
適宜引用しながら、文を反芻しておきます。
はじまりは
「本年3月21日付の朝日新聞朝刊に
『「改元」を考える』と銘打った、
なかなか野心的な社説が載っていました。
世の中は、『平成最後』だの『平成30年間』
だのと騒いでいるが、『でも、ちょっと
立ち止まって考えてみたい。「平成」といた元号
による時の区切りに、どんな意味があるのだろうか。
そもそも時とはいったい何なのか』ー--
この社説はそう問いかけています。
たしかに、元号というものの意義を
根本から考えてみるのに、今は
またとない機会だと言えるでしょう。」
こう切り出して文章をはじめる長谷川三千子さんは、
つぎに、中世の哲学者アウグスティヌスを登場させ、
「実際、これは今なお哲学者たちを悩ませている難問なのです」
と、指摘してから、おもむろに、こう書いておりました。
「ただし、これが難問になってしまうのは、
この問いをなにか抽象的に自分とかけ離れたところで
問おうとするときです。われわれは、
いつでも時を体験しながら生きている。
その体験を見つめることの中からしか、
『時とは何なのか』の答えは得られないのです。
たとえば、われわれは
現に元号による時の区切りをもっている。
そこにはどういう時の体験のかたちがあるのか、
と見つめ直すところから、われわれなりの
答えをさぐるほかありません。」
こうして、長谷川さんは、
抽象的で、自分とかけ離れ、答えがでない難問に、
「われわれは、現に元号による時の区切りをもっている」
と空論から、脚下へと視点を落としてゆきます。
そして、アウグスティヌスのキリスト教信者の時間と
対比し、こうはじめるのでした。
「わが国の神話では、
神が時を創造するなどということはありません。
『古事記』に描かれる神々は、
次々と時のうちに登場してくる。
いや、むしろ新たなる時そのものを体現して
登場してくると言った方がよいかもしれません。」
このあとに、古事記からの引用と丸山真男を
登場させて、それからおもむろに、結論をかたりはじめます。
最後の方は、ていねいに全文を引用しておきます。
「このように古くから引き継がれてきた時の体験の
かたちが最もくっきりと表れ出るのがお正月です。
大みそかに大掃除がすんだ後、除夜の鐘を聞きながら、
われわれは去りゆく年の後ろ姿をしみじみと見つめます。
そして夜が明けて元旦になると、口々に
『明けましておめでとう』と挨拶しあう。
いったい何がめでたいのか、
と改めて尋ねられたら、
誰でも困ってしまうでしょう。
合格だの優勝だのといった、
何か特別のことがあるわけではありません。
単に時の目盛りが前年12月31日から
1月1日に動いただけのことです。
しかし、まさにその動くということ。
時が進むということ。
一口に言えば、新しさを送り届けてくれる
時の力そのものを寿いで、われわれは
『明けましておめでとう』と挨拶しあうのです。」
いよいよ、コラムの最後の6段目にはいります。
「元旦に、宮中三殿(賢所、皇霊殿、神殿)では、
天皇陛下と皇太子殿下が歳旦祭(さいたんさい)を営まれます。
これは、皇祖皇宗に旧年の神恩への感謝をささげ、
新年の国家隆盛と国民の安寧を祈られる重要な祭祀です。
そして、全国各地の神社でも、同じく歳旦祭が営まれる。
つまりこのように、毎年新しい年がめぐり来るたびに、
われわれは『古事記』の昔からの【時の体験のかたち】を、
国を挙げて生き生きと再現しているわけなのです。
毎年のお正月、かくも多くの人々が神社にお参りし、
皇室の一般参賀に訪れるのも、偶然のことではありません。
表立って意識してはいなくとも
われわれは身心の奥深くで古来の時のかたちを生きている。
そしてそのことがあればこそ、
元号という時の区切りが意味を持ち、
改元ということに意義があるのです。
改元の日、われわれは元旦と同様、
ただ晴れ晴れと『おめでとうございます』と言えばよい。
それこそがわれわれの『時とは何か』への答えなのです。」
はい。こういう文を読むために、
私はブログを更新しているのだ、
そう、思える感銘がありました。
ありがたく、読めてよかった(笑)。
たとえば、私など、ブログを更新していると、
ブログの、書き方にちっとも進歩がない(笑)。
それでも、これはという文章と出会うと、
それに対し、感応力というような手ごたえが、
だんだん、ついているような気がするのでした。
はい。普段はそのまま右から左へと流れて消えて
しまう感銘ではありますが、それが手の内に残る。
さてっと、4月24日のコラム「正論」欄は、
長谷川三千子さんでした。読めてよかった。
どれほど、自分は味読できるか心配なので、
適宜引用しながら、文を反芻しておきます。
はじまりは
「本年3月21日付の朝日新聞朝刊に
『「改元」を考える』と銘打った、
なかなか野心的な社説が載っていました。
世の中は、『平成最後』だの『平成30年間』
だのと騒いでいるが、『でも、ちょっと
立ち止まって考えてみたい。「平成」といた元号
による時の区切りに、どんな意味があるのだろうか。
そもそも時とはいったい何なのか』ー--
この社説はそう問いかけています。
たしかに、元号というものの意義を
根本から考えてみるのに、今は
またとない機会だと言えるでしょう。」
こう切り出して文章をはじめる長谷川三千子さんは、
つぎに、中世の哲学者アウグスティヌスを登場させ、
「実際、これは今なお哲学者たちを悩ませている難問なのです」
と、指摘してから、おもむろに、こう書いておりました。
「ただし、これが難問になってしまうのは、
この問いをなにか抽象的に自分とかけ離れたところで
問おうとするときです。われわれは、
いつでも時を体験しながら生きている。
その体験を見つめることの中からしか、
『時とは何なのか』の答えは得られないのです。
たとえば、われわれは
現に元号による時の区切りをもっている。
そこにはどういう時の体験のかたちがあるのか、
と見つめ直すところから、われわれなりの
答えをさぐるほかありません。」
こうして、長谷川さんは、
抽象的で、自分とかけ離れ、答えがでない難問に、
「われわれは、現に元号による時の区切りをもっている」
と空論から、脚下へと視点を落としてゆきます。
そして、アウグスティヌスのキリスト教信者の時間と
対比し、こうはじめるのでした。
「わが国の神話では、
神が時を創造するなどということはありません。
『古事記』に描かれる神々は、
次々と時のうちに登場してくる。
いや、むしろ新たなる時そのものを体現して
登場してくると言った方がよいかもしれません。」
このあとに、古事記からの引用と丸山真男を
登場させて、それからおもむろに、結論をかたりはじめます。
最後の方は、ていねいに全文を引用しておきます。
「このように古くから引き継がれてきた時の体験の
かたちが最もくっきりと表れ出るのがお正月です。
大みそかに大掃除がすんだ後、除夜の鐘を聞きながら、
われわれは去りゆく年の後ろ姿をしみじみと見つめます。
そして夜が明けて元旦になると、口々に
『明けましておめでとう』と挨拶しあう。
いったい何がめでたいのか、
と改めて尋ねられたら、
誰でも困ってしまうでしょう。
合格だの優勝だのといった、
何か特別のことがあるわけではありません。
単に時の目盛りが前年12月31日から
1月1日に動いただけのことです。
しかし、まさにその動くということ。
時が進むということ。
一口に言えば、新しさを送り届けてくれる
時の力そのものを寿いで、われわれは
『明けましておめでとう』と挨拶しあうのです。」
いよいよ、コラムの最後の6段目にはいります。
「元旦に、宮中三殿(賢所、皇霊殿、神殿)では、
天皇陛下と皇太子殿下が歳旦祭(さいたんさい)を営まれます。
これは、皇祖皇宗に旧年の神恩への感謝をささげ、
新年の国家隆盛と国民の安寧を祈られる重要な祭祀です。
そして、全国各地の神社でも、同じく歳旦祭が営まれる。
つまりこのように、毎年新しい年がめぐり来るたびに、
われわれは『古事記』の昔からの【時の体験のかたち】を、
国を挙げて生き生きと再現しているわけなのです。
毎年のお正月、かくも多くの人々が神社にお参りし、
皇室の一般参賀に訪れるのも、偶然のことではありません。
表立って意識してはいなくとも
われわれは身心の奥深くで古来の時のかたちを生きている。
そしてそのことがあればこそ、
元号という時の区切りが意味を持ち、
改元ということに意義があるのです。
改元の日、われわれは元旦と同様、
ただ晴れ晴れと『おめでとうございます』と言えばよい。
それこそがわれわれの『時とは何か』への答えなのです。」
はい。こういう文を読むために、
私はブログを更新しているのだ、
そう、思える感銘がありました。