検索しているうちに、BK1に掲載されている書評のなかの
谷沢永一著「いつ、何を読むか」(KKベストセラーズ)の書評を読んでみました。
うん。自分で書いたのに、すっかり忘れております(笑)。
あらためて、まず本を書棚にさがして、ひらいてみました。
気になったのは、安東次男氏の本をとりあげている箇所(p222~223)。そこにこうあります。
「ただし残念ながら、俳諧表現の陰影を解き明かすのに成功した注釈は少ない。私は教職にある時数年かけて七部集を講じ、近世期以来の夥しい注解を比較対照したが、そのほとんどは些事に拘わる近世学問に共通する通弊のため、題材に選ばれた事象の故事来歴と出典の考証に傾き、句から句への移りに込められた連想の感得力に乏しいのが常である。」
「俳句の評釈として読むに足るのは、柳田国男『俳諧評釈』(昭和22年、のち全集17)中村幸彦『宗因独吟俳諧百韻評釈』(平成元年)『此ほとり一夜四歌仙評釈』(昭和55年、のち著作集9)ぐらいであろう。」
「芭蕉の発句の評釈では、安東次男が『定本 芭蕉』(筑摩叢書)を書いており、加藤楸邨の『芭蕉全句』上下(昭和53年)山本健吉の『芭蕉全発句』上下(昭和49年、のち全集6)も解りやすいであろう。また知られていないけれど、柴田宵曲が島田青峰の代作として書いた『芭蕉名句評釈』(昭和9年)が秀逸である。・・・」
そういえば、山本健吉著「芭蕉全発句」は最近文庫になっていたなあ。
谷沢永一氏の本の、この箇所は、安東次男著『定本風狂始末芭蕉連句評釈』をとりあげた中にある言葉なのでした。
うん。まず、安東次男氏の本から読み始めようと思って挫折しておりました。
まず、柳田国男と中村幸彦から読めば、すんなり本丸へとたどりつけそうな気がしてきました。
自分で書いた書評を、すっかり忘れてしまって、
あとで読み返して教えられることは、ちょくちょく。
というか、書くとすぐに忘れるタイプなので、
あらためて、
書評を書いて終わりじゃないのだと、
思い知ります。よい読者になる難しさ。
谷沢永一著「いつ、何を読むか」(KKベストセラーズ)の書評を読んでみました。
うん。自分で書いたのに、すっかり忘れております(笑)。
あらためて、まず本を書棚にさがして、ひらいてみました。
気になったのは、安東次男氏の本をとりあげている箇所(p222~223)。そこにこうあります。
「ただし残念ながら、俳諧表現の陰影を解き明かすのに成功した注釈は少ない。私は教職にある時数年かけて七部集を講じ、近世期以来の夥しい注解を比較対照したが、そのほとんどは些事に拘わる近世学問に共通する通弊のため、題材に選ばれた事象の故事来歴と出典の考証に傾き、句から句への移りに込められた連想の感得力に乏しいのが常である。」
「俳句の評釈として読むに足るのは、柳田国男『俳諧評釈』(昭和22年、のち全集17)中村幸彦『宗因独吟俳諧百韻評釈』(平成元年)『此ほとり一夜四歌仙評釈』(昭和55年、のち著作集9)ぐらいであろう。」
「芭蕉の発句の評釈では、安東次男が『定本 芭蕉』(筑摩叢書)を書いており、加藤楸邨の『芭蕉全句』上下(昭和53年)山本健吉の『芭蕉全発句』上下(昭和49年、のち全集6)も解りやすいであろう。また知られていないけれど、柴田宵曲が島田青峰の代作として書いた『芭蕉名句評釈』(昭和9年)が秀逸である。・・・」
そういえば、山本健吉著「芭蕉全発句」は最近文庫になっていたなあ。
谷沢永一氏の本の、この箇所は、安東次男著『定本風狂始末芭蕉連句評釈』をとりあげた中にある言葉なのでした。
うん。まず、安東次男氏の本から読み始めようと思って挫折しておりました。
まず、柳田国男と中村幸彦から読めば、すんなり本丸へとたどりつけそうな気がしてきました。
自分で書いた書評を、すっかり忘れてしまって、
あとで読み返して教えられることは、ちょくちょく。
というか、書くとすぐに忘れるタイプなので、
あらためて、
書評を書いて終わりじゃないのだと、
思い知ります。よい読者になる難しさ。