和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

懐かしい人。

2011-09-29 | 前書・後書。
ドナルド・キーン氏の近況は、気になります。
9月20日の産経新聞文化欄に、
11日、氏が岩手県平泉町の中尊寺で講演したことが載っておりました。
どんなことが語られたのだろうという、その興味は、
そういえば、司馬遼太郎氏のエッセイを読むときの気分に似てる。
ということで、司馬さんとキーンさんとの対談集「日本人と日本文化」・「世界のなかの日本」のまえがき・あとがきを開いてみます。
「世界のなかの日本」のあとがきで司馬さんが「懐しさ」と題してキーン氏のことを語っております。そこでキーン氏の言葉を引用しているのですが、その箇所は

「私(ドナルド・キーン)は日本の詩歌で最高のものは、和歌でもなく、連歌、俳句、新体詩でもなく、謡曲だと思っている。謡曲は、日本語の機能を存分に発揮した詩である。」

そして司馬さんは「あとがき」の最後をこうしめくくっておりました。

「会っていながら、その場ですでに懐しさをおぼえてしまうという私の気持が、この本を読んだ読者には十分にわかってもらえるような気がする。」

私は、「日本人と日本文化」のほうが好きな本なので、ちょっと、わからなかったのですが、それはそれとして、「懐しい」という言葉について。三浦浩編「レクイエム司馬遼太郎」(講談社)にドナルド・キーン氏の文が掲載されておりました。そこに「懐かしい人」という言葉がつかわれている箇所がありますので、ちょっと、そこも引用。

「井上ひさしさんと私のことを、『会っている最中ですでに懐かしい人』とおっしゃってくださったそうですが、司馬さんはいつもそんなふうに、柔らかくて、温かくて、しかもユニークな表現で人を評しました。それがじつにいい日本語なのです。現在の人だけでなく明治時代の人物、たとえば正岡子規についても、やさしく、ほかの人が使わないような表現で語っていました。」


うん。謡曲と正岡子規。
どちらも、読もうとしてまだ読んでないなあ。
ああそうそう。
中尊寺でのドナルド・キーン氏の講演のことが
すこし、新聞記事で紹介されておりましたので、
そこを最後に引用。


「・・・私(キーン氏のこと)は今年1月、相当な病気にかかり、最期までどれだけ年があるか分からないので、どういうことをしようかといろいろ考えました。私の最近の本『日本人の戦争』に入っていますが、そこに高見順さんが書いた日記を引用してあります。戦争が大変なころに高見さんが上野駅に行ったんですね。(疎開のため列車を待つ)大勢の人がいて皆、静かに並んでいて騒いでいる人はいなかった。あるいは我先にと乗ろうとしている人もいなかった。高見さんは『私はこうした人々と共に行き、共に死にたいと思った』と書いていますが、私も同じ結論に達しました。
私の生涯は日本と密接な関係にあり、初めて中尊寺に参詣してから現在まで、日本のことを考えない日はおそらく一度もありませんでした。・・・」


ちなみに、段ボール箱から『日本人の戦争』を出してきたのですが、パラパラと見るだけじゃ、上野駅のその場面が見つけられませんでした。まあ、今日はここまで。
コメント (2)
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