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和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

声をかけられなければ。

2020-05-24 | 前書・後書。
「幸田露伴の世界」(思文閣出版・2009年)は
井波律子と井上章一の共編となっておりました。

「まえがき」が、井波律子。
「あとがき」は、井上章一。

この共同研究の「あとがき」の最後に、こうありました。

「研究会では、幹事役をおおせつかった。
しかし、私の司会は、全体を拡散する方向にしか、
はたらなかったと思う。・・・・・露伴論をかわしあい、
たがいにすこしずつかしこくなれた二年半が、今はなつかしい。
この機会をあたえてくれた井波律子氏に、
感謝の気持ちをそえて、筆をおく。」

はい。「あとがき」のはじまりを引用(笑)。

「研究会のはじまる前は、露伴の書いたものなど、
ほとんど読んだことがなかった。つきあえば、あじわいぶかい
人なんだろうなという予感が、なかったわけではない。いつかは、
目をとおしてみたいという心がまえも、どこかでいだいていた。

だが、露伴の書いたものには、漢籍や古典のうんちくが、
ちりばめられている。和漢の教養にくらい私などが、
たやすく読めはしないだろう。そんな先入観もあり、
ながらく敬遠しつづけてきた。
井波さんから声をかけられなければ、
そのままほったらかしつづけていたと思う。

とはいえ、私が露伴の研究会でとりあげたのは、
『頼朝』という史伝である。史学史的な興味でえらんだのだが、
・・・この本は、少年むきの読みものとして、書かれていた。
和漢籍の博引傍証は、ほかの本とくらべれば、
ひかえ目になっている。これならば、無学な私でも
とっつきやすかろうという判断も、私をこの本にむかわせた。

読んで思ったが、露伴のこころざしは意外に新しい。・・・
私だけが、そう感じたわけではない。・・・・

明治以後の、東京における知識や考え方を、うかがう。
いわゆる時代精神のありようを、つかみとる。そのためにも、
うってつけの人であろうと、今は考えだしている。・・・・」


はい。この「幸田露伴の世界」に、井上章一さんは、
「『平家』と京都に背をむけて」という題で書いており、
その文は、わたしを惹きつけました(笑)。
ちょっと長くなりそうなので、今回はさわり、
次回に、その内容を書いてみます。
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田舎の功徳。

2020-05-02 | 前書・後書。
発売中の月刊Hanada6月号。
その最後に、平川祐弘の「一比較研究者の自伝」があり、
連載23回目をむかえておりました。

この回だけを、読んで私は満腹(笑)。
いろいろ思います。たとえば、これがドラマだとすると、
そこに、一言セリフがある通行人Aが登場しておりました。
そのAが、ここでは佐伯彰一氏。
23回目では、一回しか登場しませんので、その箇所を引用(笑)。

「助手の分際(ぶんざい)でこうしたことを平気で書く私は
『大助手』と呼ばれてしまった。しかし一旦学内で
『大助手』と呼ばれるともう出世できない、とは
佐伯彰一氏のうがった観察で、氏は英語の非常勤講師として
毎週駒場の外国語談話室に寄ると、フランス語の若い教師連が
いつも平川の悪口を言っている。大学院担当という肩書も
癇にさわるらしい。学問はあるようだがああ悪口を言われては
平川は東大に残れまいと思った、というのである。」(p356)


はい。佐伯彰一氏の登場場面は、これだけでした(笑)。
ちなみに、

佐伯彰一氏は、1922年生まれ。
平川祐弘氏は、1931年生まれ。

気になったので、佐伯彰一氏の本を一冊注文。
古本で200円+送料340円=540円でした。
ネット古本屋(愛知県名古屋市)から購入。書名は
佐伯彰一著「神道のこころ」(教文選書・1989年)

はい。こんな箇所がありました。
「正直に言って、余りにまともにキリスト教的な作品は、
ぼくにはどうにも親しめず、にが手である。
ダンテの『神曲』、ミルトンの『失楽園』など、
どうにか頑張って通読してみても、その堂々たる
結構、偉容には、大いに気押されながらも、
わが心身に沁みいるような感動は、
とても得られなかった、と打ち明けざるを得ない。」
(p70~71)

ちなみに、平川祐弘氏はダンテの『神曲』を訳しております。
もどって、平川氏の連載に、ちょい役で登場した佐伯彰一氏。

略歴に「大正11年生れ。富山県の立山山麓、古くからの信仰を
守りつづけてきた神職の家系の出。・・・」とあります。
うん。気になる。

届いた古本の最後の文は「お正月の思い出」でした。
はじまりは

「60数年のわが生涯、ふり返ってみると、いろんな土地で、
正月を迎えてきた。・・・やはり一番深く心に残っているのは、
わがふるさと立山村(町)の正月である。

子供のころは、気づかなかったけれど、山深いわが村落(芦峅寺)
の正月の迎え方には、かなり独特なものがあった。
立山信仰ということが、生活の中にしみ込んでいたせいに違いないが、
宿坊の子供たちは、大晦日の晩に、開山堂にお籠りをした。
明朝のお参りの準備など手伝うのだ・・・・・
大火鉢に山もりの炭火がカンカンと燃えさかっていた様子など、
今でもありありと目に浮かぶ。それに、一仕事片づいた後に
出されたお夜食というのが、おいしかった。炊きたてのご飯に、
缶づめのかつおをまぜ合わせたお握りだったが、ふうふう
いいながら、大きいのをいくつもたいらげずにいられなかった。

一たん帰宅して、早朝に起き出すと、
まず井戸の若水をくんで、神棚にそなえる。
そしてすぐ神社にかけつけて、ご奉仕をする。

お参りにくる人たちにお神酒をついだり、年餅を渡したりする。
その一家の人の数だけ渡すというきまりで、わが村落の人々は、
元旦のお雑煮に必ずこの年餅をいれて、まずこれから頂く。
つまり、神様から一つ年を頂くというしきたりであった。


・・・・ぼく自身、
富士市の高校に入り、また東京の大学に進むころには、
ふるさとのしきたりなど、何だか古ぼけた、田舎くさいものに
感じられて、とかく敬遠気味だった。いやむしろはっきりと、
そうしたルーツは切り捨てようと努めたようだ。
夏祭りのおみこしもかつがなかったし、
お正月も大方、東京ですごすようになった。

大学進学に際して、英文科といった、山家育ちの少年には、
まるで無縁、不向きという外ない選択をしたというのも、
高校時代の恩師老田三郎先生の影響があったとはいえ、
何より古くさいわがルーツを断ち切るという
気持ちが底で働いたせいに違いない。

一体、日本人には、何かというと、都ぶりを重んじて、
地方田舎を軽んじ、小馬鹿にする傾きが強かった。

  ・・・・・・・・・・・」

はい。あとは4ページの文の最後を引用。

「そこで、田舎育ちの功徳を言わずにいられない。
一見華やかで、根のない近代化、現代化が、一体どこまで
本当にわれわれを支え、力づけてくれるのか。
長い尺度で、日本文化をふり返り、見直すとき、
われわれを根底から培い、育ててくれる田舎という
土壌の強みと恩恵を思わずにいられない。」


せっかくなので、この本の『はしがき』の
はじまりの言葉を、ここにもってきて置いてみます。

「神道について語ることは、難しい。
じつに難しいけれど、何とか語りたい。語られずにいられない。

いや、わが国の文化、文学、さらには歴史の動きさえ、
神道をぬきにしてはとらえ難いのではないか。
神道を棚上げにした日本文化論、文学論の何という空しさ、味気なさ・・・・」


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「索引」の夜明け。

2020-04-22 | 前書・後書。
中国のネット上では、自国に不利な情報を流せば、
すぐにでも、削除されるという情報があります。

はい。それが、検閲社会ならば、
じゃ、日本は、検索社会である。
として、いいのじゃないか。索引ができる社会へと
向かっているのじゃないか。

こう思ったのは
徳岡孝夫著「『戦争屋』の見た平和社会」(文藝春秋・1991年)
のまえがきを、読んだからでした。

この本の題名は、編集者が考えたものですから、
あんまり、題名は気にしなくてもよいのでした(笑)。

本文は、昭和48年~平成3年まで、おもに雑誌への掲載文が
まとめられておりました。そのなかには
「『ビルマの竪琴』と朝日新聞の戦争観」という文もあります。
この本の「あとがき」で、徳岡氏は

「視聴者(新聞の場合は読者)が判断を下せばよい。
 それが出来ないほど大衆はバカではない。」

と記しておりました。この本の「まえがき」は4頁ほどの文です。
題して「『索引』のない社会」としてあります。
まえがきも、雑誌に掲載された文で
昭和55年7月号『諸君!』に「『索引』なき社会」として
載った文なのでした。

うん。この「まえがき」から引用したいのですが、
どこから引用すればよいのか?
いちばん最後の三行を引用してみます。

「幸か不幸か、この国は『索引なき社会』だ。
時に応じ機に乗じ、だれでも無責任な説をなし、
世に好まれるものを書きとばすことが可能だ。
流行すたれば、世間は都合よく忘れてくれる。
・・・・(1980年5月記)」

はい。40年前のこの国は、こうだったのです。
これが印象鮮やかなのは、40年後の現在の
ネット社会と、つい比べたくなるからです。

はい。そんなことを思いながら、
では、40年前の「この国」を引用してゆきます。

「・・索引のない本は、内容を覚えていないかぎり、
簡単には役に立たないからである。
ジョン・トーランドのThe Rising Sunは
2・26事件から終戦までの日本を書いた面白い本だが、
私も翻訳に参加した訳書には索引がなく、
原著には23ページも索引がついているので、そのほうを重宝している。
ほとんどの翻訳物が同断で、邦訳にだけ索引がない。

一般に横文字の本は、詩か小説か随筆でないかぎり索引がついている。
ついていなければ、まともな本として信用されないからである。
必ずしも研究の用でなく、読んだだけで楽しい本でも、たとえば
ドーバー・ウィルソンのWhat Happens ㏌ Hamlet には
綿密な索引と引用索引がついている。」

はい。まだまだ、引用を続けさせてください(笑)。

「現代日本文学全集(筑摩版)は、正字・旧仮名遣いの貴重な全集だが、
その別巻1『現代日本文学史』は中村光夫、臼井吉見、平野謙各氏が
それぞれ明治、大正、昭和を分担執筆した好著でありながら、
人名、事項いっさい索引がない。不便このうえない。
野口武彦『谷崎潤一郎論』、中村光夫『永井荷風論』、同『漱石と白鳥』
本多秋五『「白樺」派の文学』・・・・・どれ一つ索引がない。
これらの本すべて、非常に役に立ちにくい、
一度読んだあと、必要なときに必要なページが
開けるほど読者の記憶力はよくないからだ。」

このあとが、新聞への言及となるのでした。

「新聞記者の書いたものになると、この傾向はさらに顕著になる。
大新聞の特派員が在任中の見聞を書き溜めて一冊にした本など、
索引はおろか参考文献一覧もインタビュー対象者一覧も欠く。
私が書いたものを含め、すべてから実に薄っぺらな印象を受ける。

それだけならまだいい。20年前のソ連、10年前の中国を書いた
特派員報告書に至っては噴飯ものが珍しくない。本だけならともかく、
表芸の新聞記事がそうで、林彪の失脚は自由主義諸国の故意のデマだとか、
中国航空のスチュワーデスはやさしくて、その態度を見ただけで安全がわかる
(私なら機長の態度のほうを見るところだ)等々と書いたのに、
いまだに中国通で通っている人がいる。

現に北京からしきりに『近代化』を報じている特派員の中にも、
毛沢東が死んだとき・・・・・・・・・・・と書いた人がいる。
それらは読者の健忘症をたのみつつ時に応じて
カメレオンのように変身していこうという、新聞記者のツラ汚しである。

学者の中にもカメレオンがいる・・・・・・・・・
そんな世論指導者に操られる日本民衆が気の毒だ。

それらはすべて索引が完備していて、
それが累積していく制度さえあれば、こわくて書けない文章である。
索引がないから、日本の学者やジャーナリストは、
世の流れに浮かぶうたかたのような説を立て、
そのくせ枕を高くして眠ることができる。

索引のない物ばかり読んでいるから、
日本人の思考もいつのまにか非索引的になっていく。
・・・・・・・・
・・・・・・・・
こうして見てくると、日本人の論理活動の
大部分は、書きとばし、読みとばしであるとわかる。」

うん。まだあるのですが、
4頁の全文を引用してしまいそうなので、ここまで。

こうして引用していると、
この文の40年後。ネット社会に突入した現代は
「日本人の論理活動」にドエライ刺激を与えている
ということになるのだと結論づけてもよいのでしょうか。





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「よく出来ました、おめでとう」

2020-04-16 | 前書・後書。
本は読まずに、前書きと、後書きのパラパラ読みで
すませる私がおります。はい。それだけで満腹。

ネット上で、本の検索をするのですが、
今回の検索は、芳賀徹でした。
うん。文庫本の解説を芳賀徹氏がしている。
その本も、検索に引っ掛かるのが、何ともありがたい。


さっそく
山川菊栄著「武家の女性」(岩波文庫)をひらく。
はい。お目当ては、芳賀徹の解説文でした。
そこから、引用することに

「・・興味津々の話題が多く・・・
『お縫子(ぬいこ)として』の章の次の挿話などはどうだろう。

それは菊栄の母千世が13になって、水戸川崎町の
石川富右衛門という貧しい老藩士の奥さんのところに
お裁縫を習いにいっていたときの話である。

六尺ゆたかの、頭の禿げた老藩士は、いつも息子とともに
傘張りの内職に精出していたが、一方、自分の家にくる10人
ばかりのお縫子たちのことが可愛くて自慢でならなかったらしい。

奥さんのお師匠さんの方もそのことをちゃんと心得ていて、
お弟子さんが着物を一枚仕立て上げると、
『それでようござんすからおじいさんの所へもっていらっしゃい』

という。そこでいそいそとおじいさんの仕事場にもっていくと、
おじいさんはいかにも心得たような顔で
仕立物のあちこちを調べたあげくーーー

『結構です、よく出来ました、おめでとう』
と褒(ほ)めて祝ってくれます。それから

『それでは私が霧を吹いてあげよう』
といいます。その頃の着物は手織もめんですから
縫っている間に皺(しわ)だらけになるので、
仕立て上げると霧を吹くことになっていました。

おじいさんは、毎日傘を張っては霧を吹くので、
霧吹きは慣れたもので確かに名人です。・・・・・・

おじいさんに、お礼をいって部屋へ帰り、
仕立物をお師匠さんの前において手をつき、

『おじいさんがこれでいいとおっしゃいました』
と報告します。そこで始めてお師匠さんも、
『おめでとうございます』
と祝ってくれ、ここでまたお礼をいい、
それからお友達一同に向かい、仕立物を前において、
『皆さん、ありがとうございました』というと、
口々に、『おめでとうございます』といってくれるのでした。
 (本文、41~42頁)

芳賀徹氏は、こうして解説の中で本文を引用したあとに

「なんとも美しく、またほほえましい話ではないか。
そして話題にぴったりと合った、その語り口のうまさ。
・・・・・・・・・・
そのゆるやかなテンポが、このまるで童話か民話のような
お針塾の雰囲気をかえっていきいきと伝えてくれる。
・・・・・・・・・
菊栄は娘のころから母千世のこんな昔話を聞くのが好きで、
繰り返し繰り返し聞くうちに、その昔風ののどかな口調まで
おぼえてしまったのにちがいない。
・・・・・・・・
菊栄も昭和17・8年のころ、戦時下の薄暗い藤沢の田舎で
・・・・このような遠い昔の母や祖母やおばたちの話を
書いてゆけば、いくらかはその心もなごみ、
勇気づけられる思いがしたことであろう。」

この後に、芳賀徹氏は指摘するのでした。

「古い日本では、お裁縫を習い、簡単な着物一つでも
仕立てるということは、少女たちにとってはこれほどにも
真剣な、大切な修業の一つだったということであろう。

彼女らの人生における一つの通過儀礼のようなもの
でさえあったらしい。だからこそ、一段を通過するたびに、
おじいさんは霧を吹いてくれ、お師匠さんも仲間たちも
『おめでとうございます』をいってくれ、当人は
『皆さん、ありがとうございました』をいったのである。

この水戸の石川夫人の塾に限らず、ほかでも多分そうだった
のだろうと思うが、そこにはたしかに儀礼というのに近い
一つのしきたりがあった。」(~p196)


はい。この解説で私は満腹。
最後の解説を引用したので、
著者のはじまりの『はしがき』からも引用。

「私がここに御紹介するのは、安政4年、水戸に生れて、
今年87歳になる老母の思い出を主とした、幕末の
水戸藩の下級武士の家庭と女性の日常の様子であります・・」

この文庫には写真が2枚あります。
文庫のはじまりに、山川菊栄の母親・青山千世が、
青山千世のご両親といっしょの写真(明治12年)。
もう1枚の写真はというと、解説にありました。
それは、昭和5年5月の自宅の庭での写真らしく、
千世と菊栄の二人が写っております。

はい。その2枚の写真を見てるだけでも、
いいんです(笑)。








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お正月の「宿題」。

2019-12-15 | 前書・後書。
本棚から、以前買った文庫本をとりだす。
岩村暢子著「普通の家族がいちばん怖い」(新潮文庫)。
副題は「崩壊するお正月、暴走するクリスマス」。

この本は、自分で文章を組み立てようと思うなら、
置き場に迷い、消してしまいたくなるそんな一冊。
本棚なら、どこに置いてよいのやらと困惑する本。
何を言っているのやら(笑)。

とりあえずは、岩村暢子さんのこの文庫から引用。
「単行本あとがき」にこうあります。

「・・私は対象者の回答(発言・記述)内容も
あまり信じてはいない。対象が虚偽の回答をする
と思っているからではない。理由は大きく二つあり、

近年多くの対象者が『本当にそうであること』より、
『そう答えるのが正解だと感じること』を答えるように
なってきているという事がひとつ。

二つ目に人は自分の行ったことに対して、
そんなに自覚的ではないものだという事がある。
人が『している』と回答することと
『実際にしている』ことの間には、
調べると大きな乖離があるものだ。

そこで私たちの調査では、
対象者が『行った』と言うことについては、
必ず『写真』記録を求めることにしている。
無論、本調査でもそうだった。

特に多くの人がまだはっきりとは捉えていない
新しい変化を調べるとき『写真』は欠かせない。
自覚せずに行い始めている人たちにいくら言葉で
『行っていること』を尋ねても、出てくるはずがないからだ。

正月元旦の殺伐としたバラバラ食光景などは
その好例でもあったと思う。しかも写真は、
『お屠蘇』『御節料理』『クリスマスケーキ』などと聞いて、
私たちが暗黙の内に思い描くイメージさえ、
時に大きく裏切ってくれる。そして、その言葉の示す
『現実』も突きつけてくれるものだ。
だから、『写真』データは、やはり欠かせないと思う。

では、語られた『言葉』は軽く扱うのかと言えば、
それも軽視はしない。
実はインタビューはすべてテープに録り、いつも
『一言一句漏らさず、すべてベタで起こしてください』
とテープリライターに頼むことにしている。
しどろもどろで堂々巡りの発言も、
神社の『境内』を『場内』と言い誤ったのも、
ひとこと言いかけてやめた沈黙も、
自分にいちいち相槌を打ちながら話す人の癖も、
すべて・・・・」(p268~270)

うーん。マスコミ関係者のための宣言
のようにして読めるのでした(笑)。

こうして調査された、その肝心の本文は、
私には、どう扱ってよいのやら始末に困ります。
はい。困惑するので、引用はしません(笑)。

そのかわり、『文庫版あとがき』から引用。

「たまたま、私は毎年御節を作るのだが、それは
小さい時分から長年母親に手伝わされてきたため、
すっかり身体に染み付いて、年末になると
『作らずには居られない』状態になるからだ。
いわば条件反射みたいなものであって・・・・
確固たる信念や思想ゆえのことではない。

第一、私の実家にも婚家にも、
守り伝えなければならないほど立派な御節料理が
あるわけでなし。雑煮にいたっては、私の母の味と、
夫のために姑に習った味とが渾然一体となり・・・
夫とは縁が切れた後も元には戻せなくなっている。
食べ物とは、面白いものだとつくづく思う。

近年は娘が率先して御節を作るようになったが、
台所で黙々とやっているので声をかけると、
辰巳芳子先生の本と首っ引きだったりする。・・・・
訳を聞けば、『お母さんの健康のためには、辰巳先生
の作り方のほうが身体にいいんじゃないかと思った』
とのことだった。
家庭の中の伝承とは、そんなものかもしれない。・・・・
家族の関わりと時の流れの中で・・・・・
だから、それが無くなるとしたら、そのような暮らしや
そんな家族の関わりが無くなったことを意味している
に違いない。・・・・」(p275~p277)


はい。また引用ばかり(笑)。
この宿題の、ひとつの答えとなるような文として、
この次に、『京のおばんざい』の中の、
秋山十三子さんの文を引用します。
条件反射の、ルーツをたどる試み。
それに、京都が答えてくれるのかどうか?

こんかいは、ここまで。


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あの時代の仏教者たち。

2019-11-23 | 前書・後書。
増谷文雄の親鸞講義。
「親鸞」(朝日出版社)。
うん。そのはじまりが印象深い、
ので、引用しておきます。

「あの時代の仏教者たちを振り返ってみますと、
法然、親鸞、道元、日蓮、その後も一遍・・・・
そうした人々の生没年を見てみますと、まず

法然が一番早い12世紀の前半、1133年に生まれております。
1212年、13世紀の初めに亡くなっている。

親鸞はちょうど法然より40歳離れて1173年に生まれ、
大変長生きをして1262年に90歳で亡くなっている。

道元は、ちょうど13世紀の始まりの1200年に生まれて
1253年に亡くなっている。

それから日蓮は、もう少し遅い1222年から1282年。
一遍は1239年から1289年です。

つまり、これらの人々は、ほとんど同じ時代に
生を享けておるわけですね。・・・・・・
私の考えはこれらを全体として見てみたらどうか、
というところにあるわけです。

さてそこで、これらの13世紀の仏教者群像・・・
これを長いこと考えておりますうちに、まず
国家との関わりの問題があるんだということに、
ある日気がついたのです。
と言いますのは、
法然、親鸞、日蓮の三人は、いずれも御上人ですね。
これは御聖人とも書きますが、どれも
国家から与えられた称号ではない。
禅宗の場合は、上人という言葉は使いませんので、
道元は禅師です。その禅師というのは本来は
国から頂戴する僧侶の称号なんですが、
道元禅師の場合は、実は国から貰ったものではない。

ということは、変な言い方ですが、それまでの仏教者が
すべて、国家公務員であるのに対して、
これら新しい仏教者たちはそうではない。・・・・
そこに、非常に面白い問題があるように思われる。」
(p7~8)


さてっと(笑)。
つぎはP88へといきます。

「・・・『教行信証』そのものは資料です。
親鸞自身は自分の『教行信証』をとおして
法然の言葉に再び触れ、それによって
心が昂ぶってくるということだったと思います。

実を申しますとね。・・・
私が『親鸞集』を編むことになりましたとき、
『教行信証』は入れなかったんです。
ただ一つ入れたのが『正信念仏偈』の現代語訳だけでした。
なぜかと言いますと、要するに『教行信証』というのは
親鸞の思索修行の書であって、
彼自身の宗教的な所感がもっともよく出てきているのは、
『教行信証』の中では『正信念仏偈』だと思うのですね。
それで、これだけはなんとしても訳そうと思いましたが、
さてどう訳したらいいかがわからない。
『正信念仏偈』は詩でございますから、
だらだらと訳しても仕方がない。
それで、数日間原文を前に置いて、
ただじっと眺めておりました。まったく、
途方に暮れたとはあのことでございましたが、
ある日、はっと気がついた。
いくら私が頭をひねったってだめだ。
そうではなくて、原文をそのまま現代語に
引っぱってくればいいんだと。
・・・訳せた。『ああ、それでいいんだな』と、
そのときに思いました。その日のうちに
すっと六十行すべてを訳し終えることができましたね。」

うん。ここに出てくるのが
「日本の思想3 親鸞集」編集・解説増谷文雄(筑摩書房)。
はい。ネットの古本で注文。
それが届きました。別冊の冊子は野間宏氏との対談。
函入りで、きれい。うん。これで親鸞が私にも読めそう。
とりあえずは、手にしました(笑)。



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京都修学旅行と、京都参り。

2019-05-02 | 前書・後書。
竹山道雄著「京都の一級品」(新潮社・昭和40年)は、
芸術新潮に連載されたようです。


振り返って、私の京都二日目は、
伏見稲荷へ、出かけたのでした。
ここは、外国人観光客のラッシュアワー、
といった感じで、登り口までいって、
そうそうに退散。それで、駅がちかくの東福寺へ。
こちらは、紅葉の名所とかで、今は、
ありがたいことに、人がまばらです。
ゆっくりとして、見てまわれました(笑)。


竹山道雄氏の本は、修学旅行の話からはじまります。

「京都や奈良にシーズンに行くと、
観光バスがあとからあとからひきもきらず、
高校生ぐらいの人々が
潮のごとくあふれでる。そして、また
潮のごとく去ってしまう。
 
しかし、その人々はただ名所に来て
あれこれに目を奪われるだけで、・・・・
自分の心に感ずるということもないようだ。・・
どこで何をどう見るかという指針をあたえるものはない。
研究的な専門書はむずかしく、煩雑な考証が多くて、
特別な人でなければ読んでも役にはたたない。

これはじつに惜しいことだ
と私はよく思った。」


はい。こうして竹山道雄氏の本ははじまるのでした。
うん。私の高校の修学旅行も、京都でした。それは、
それは「じつに惜しい」京都修学旅行をしたものでした。
と、今になって思い至る。そんな京都参りとなりました。

いまなら、高校生の僕とともに、あれこれ、
つきあいながら、京都をめぐれるのに(笑)。


けれども、高校生の僕は、聞く耳を持つだろうか?
今の僕なら、惜しい京都を読んでいけるだろうに。
ということで、京都をもうすこし書いていきます。


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中西進のお知恵を拝借。

2019-04-06 | 前書・後書。
うる覚えなので、
さがそうと思ったのですが、
あきらめました(笑)。

司馬遼太郎が亡くなる時に、
注文で(?)、中西進氏の紹介文を書こうとしていた。
そんな、文をどこかで読んだようか気がするのですが、
あるいは、勘違いかもしれず、はっきりとはしません。

それはそうと、
磯田道史・中西進「災害と生きる日本人」(潮出版社)の
あとがきなら、すぐに引用できます。

その、あとがきは、磯田氏が書いておりました。
その、はじまりを引用。

「このごろ、災いが多い。気が、めいってしまう。
それで、わたくしは中西進先生にお会いしたくなった。
こういうときは、目先の事ばかり考えていては、いけない。
日本と日本人を、長い目、広い視点で眺めて、
われわれの生き方を見つめなおすには、
中西先生のお知恵を拝借するのが、よい、と思ったからである。

日本人の心を、もっとも長いスパンで、見つめなおすには、
日本人の心を写し取ったもっとも古い『文字列』である
万葉集に立ち返らなければならない。
世に、万葉集の研究者は多いけれど、
中西先生は、ひとえに万葉集にだけお詳しいだけではなく、
いつお話しても、何をうかがっても、掌を指すように、
正鵠(せいこく)を射抜いた答えが返ってくる。
そのことは、これまでの会話経験で、わかっていた。

地震・津波・台風・高潮・洪水と、まるで、
鴨長明『方丈記』の世界を生きているような、
今日の我々である。中西先生が、日本人の心を
一番長いスパンで、読み取ることができる方である。
・・・中西先生に、とっくり、うかがってみようというのが、
この本の趣旨であった。
・・・」(p257~258)

元号が決まった今でしょ。読むのは(笑)。

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峠の上は山桜が真盛りで。

2019-03-23 | 前書・後書。
「・・時は天保の末の春の盛りの頃でありました。
山々は、張り切れんばかりの新緑をつけて、
高山の常として峠の上は山桜が真盛りで、
得も云われぬながめです。
・・・正午過ぎる頃まで人っ子一人通りません。
ようやく日が傾きかける頃になって、

   山が焼けるが
     立たぬか雉子(きじ)ヨ

    これが立たりょか
      子(こ)を置いて

と妙な調子を張り上げて、
鄙びた節おかしく歌う声が、
青葉の中から洩れて来ると見れば、
峠の頂きの十一面観音の社の横道に
姿を現わしたのは二人づれの若い男、
樵夫(きこり)か炭焼でありましょう。
・・・・」

大菩薩峠第一巻の一、
ここから引用しました。
論創社「大菩薩峠『都新聞版』」中里介山。
挿絵井川洗厓。新聞版で、毎回の挿絵が魅力。

はい。そうです。私は挿絵目当て。
西洋絵本の細密画の挿絵を見ている。
そんなような、気分になります(笑)。
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読書術の師範の満足。

2019-03-12 | 前書・後書。
まとまると、送料がタダになる古本屋さんへと
注文してあったのが届く。

蓮如は、いつか読みたいと思ってはいたのですが、
いったい、どの本を読めばよいのか分らなうちに、
過ごしておりました(笑)。
今回購入した古本は読めそうな気がしてきました。

大谷晃一著「大いなる坂 聖と俗の巨人蓮如」(河出書房新社)
神田千里編「日本の名僧13 蓮如」(吉川弘文館)

あとがきと、はじまりをパラリとめくっただけですが、
興味を持てる書きぶりです。

さてっと、あとは
「1969‐78 完本紙つぶて」(文芸春秋版)。
こちらは、函入。函の後ろに
山崎正和氏と丸谷才一氏の評が載っておりました。
ここでは、丸谷才一氏の評をそのまま引用することに

「戦前の日本では本を読むのは悪いことだつた。
たとへば陸軍士官学校、海軍兵学校の生徒たちは、
教科書以外の本を読むことをかたく禁じられてゐた。
このせいでの、軍人の教養の貧しさ、見識の低さは、
敗戦の一因をなしてゐたと言へる。

戦後の日本では、一転して、読書はむやみに奨励される
やうになつた。しかも、はじめは文化国家とやらのせいで
恰好をつけるだけだつたが、近頃は既成の価値観が
みな怪しくなつたため、何につけてもめいめい
本を読んで自分で考へるしかなくなつた。

このとき谷沢永一の本が出ることはまことに
時宜にかなつてゐる。彼こそは、
日本人全体の読書術の師範となるにふさわしい
乱読快読の知識人だからである。」

この誉め方が、すごいなあ(笑)。
1978年に出ておりました。

あらためて、谷沢永一氏ご本人の「あとがき」の
さいごの方を引用しておきたくなります。

「書物の魅力に憑かれることになった十歳前後から、
知らぬ間に数え年で五十歳に達した今日まで、
私は結局、この『完本・紙つぶて』一巻を書くために、
長い年月を経てきたのかも知れない。
そう思いかえしても、私は十分に満足である。
いや、それどころか、ひとりのささやかな読書人の、
うたかたに消えてゆく筈の心情の一面を、
我流の≪紙つぶて≫として書き続ける機縁に恵まれたのは、
私にとって最上の幸福であり、
関係者に対する感謝は尽きない。・・・」


はい。これだけで満腹。
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目次とまえがき・あとがきにまず目を通す

2019-03-09 | 前書・後書。
鎌田浩毅の新刊「読まずにすませる読書術」(SB新書)が届く。

はい。題名が気に入っております、
まず、読まずに目次をひらく(笑)。

ということで、目次を紹介

第一章
ムダな読書で人生を浪費しないための新しい読書術

小見出しがいい(笑)
はじまりは
 
  本は最後まで読まなくていい
  あなたは本に読まれていないか?
  本を読むことを目的としない
  音楽的読書から絵画的読書へ切り替えよう
  多読法や速読法の罠
  ・・・・・

ここらで、第二章
読まずにすますほど読書の効果が飛躍する

  「いかに読むか」から「いかに読まないか」へ
  人から借りる知恵は八割でいい
   ・・・・

うん、次行きましょう第三章
「読まなくていい」を見抜く選書眼の養い方
  
   読書が「活きた時間」になっているか
   読まなくていい本を選ぶ眼
    ・・・・

第四章
「読む必要がない」を見抜いて確実に頭に残す方法

   本の構造から読む・読まないをつかみ取る
   目次とまえがき・あとがきにまず目を通す
    ・・・・・

第五章 
読後のアウトプットにつなげる習慣

   アウトプットで読書はようやく完成する
   本を読む時間と手離す時間のバランスを保つ
    ・・・・


ちなみに、第五章の小見出しの最後は

   想定外に対応する力を読書で養う時代


 はい。いい目次だなあ。
 もう、満腹感で満たされます(笑)。
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セルフ・ヘルプ。

2019-02-05 | 前書・後書。
完訳版「セルフ・ヘルプ」サミュエル・スマイルズ著(PHP研究所)が
昨年の12月25日発行で出ておりました。

うん。この機会をのがすと、私のことですから、
読まないですませるかもしれません。
読んでみようと購入。

最初に「訳者まえがき」があります。
はい。私のことですから、とりあえず(笑)。
そこから引用しておきます。

「つまり、英語としての help yourself には、
『他人に依存しない』とか、『自力で』といった意味は
はっきりとは含まれておらず、第一義は
『困難な状況から抜け出す努力をする』という部分にあり、
日本語として最も近い意味は『努力』になります。
従って、上記の諺も
『天は、自ら努力する者を助ける』
『努力すれば天が味方する』と読み解くことができます。」


「あくまで私見ですが、これまでの『自助論』は、
『他人の力を頼らず、努力し、精進し、困苦に耐えて
人生を切り開き成功する』指南書として捉えられてきた
感があります。しかし、一年近く、19世紀の英語と格闘しながら、
名前だけの場合も含め700名近い実在の人物を追いかけた
私にとっては、『産業革命前後、様々な苦難の中でも、
自分の力を信じ、時に失敗しながらも、努力を続け、
助け合いながら、粘り強く人生を進んできた有名無名の人々の
かけがえのない記録』でした。」(~P5)



はい。竹内均訳「自助論」(三笠書房・知的行きかた文庫)も
中村正直訳「西国立志編」も読んでいない私ですが、
こちらの完訳ならば、読めそうな気がしてきました(笑)。
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本の取扱い説明書。

2018-09-17 | 前書・後書。
松岡正剛著「本から本へ」(角川ソフィア文庫)の
副題は「千夜千冊エディション」。

この本の最後は、
「追伸 本は交際である」と題されていました。
あとがきのことですね。
その追伸のはじまりは

「本には何でも入る。
オリエント文化もバッハの楽譜も信長の生涯も入るし、
ピーターパンの冒険もハイデガーの哲学もシダ植物の生態も入る。
物語も日記も政策も犯罪も、必ずや本によって形をなし、
本として世の中にデリバリーされてきた。
・・・・56歳のとき、その体験の一部を互いに連鎖する
感想録のように綴って『千夜千冊』としてウェブに公開することにした。
書評ではない。その本との『めぐりあい』の事情と
『印象』と『言わずもがな』を綴った。
不倫はがまんした。一人の著者とは一度だけの付き合いとしたのである。」

ふ~ん。「本は何でも入る」というのであれば、
「ブログには何でも入る書ける」となるのかなあ。
それなら、お気軽にブログ更新が可能ですね(笑)。

追伸のさいごの方には、こうもあります。

「本とは、人類の歴史文化のなかで最高無二の
知的情報体となってきた柔らかいパッケージである。
この連中とはひたすら交際するのが一番だ。
ぼくはそのための取説(とりせつ・取扱い説明書)
を綴ってみたかった。・・・・」


はい。追伸から読み始める文庫本もある。
ちなみに、この文庫のはじまりに
「前口上」という1ページ5行の文がありました。
その最後の3行を引用。

「本は出し惜しみをしない。本は手持ちを曝してくれる。
ぼくは、本から貰った衣裳と道具と言葉づかいとスタイルで
その本に暗示された遊びに熱中すればいいだけだ。」
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マスコミが消す2009年9月。

2018-09-09 | 前書・後書。
もうマスコミからは、
すっかり忘れられてしまった。
民主党政権時代の日本。


小川榮太郎氏が序文で、
その日本をおさらいしております。

「自民党叩きに明け暮れたマスコミ総出の
華やかな歓迎のなか、鳩山由紀夫民主党政権が誕生
したのは2009年9月のことだ。

朝日新聞は、民主党大勝の選挙結果を
『非願成就 高揚と緊張【国民の勇気に感謝】』と伝え・・
毎日新聞は社説で『【国民が日本を変えた】政権交代、維新の気概で』
と書き、『台風の中晴れやかに 有権者 期待と注文』
と手放しの喜びようだ。


こうして鳩山首相、小沢幹事長、
菅直人副総理兼財務大臣の『トロイカ体制』が始まった。
岡田克也外務大臣、長妻昭厚生労働大臣、前原誠司国土交通大臣、
福島瑞穂内閣府特命担当大臣らがポストを固めた。
支持率は72%。・・
『脱官僚・政治主導』を掲げ、
『コンクリートから人へ』のスローガンで公共事業を削減した。
たとえば治水事業については、・・・民主党政権になって急減し、
ピーク時の2・3兆円から3分の1にまで縮小した。・・・
『コンクリート』を軽視した民主党の政治は、
単に国土を脆弱にして終わった。
鳴り物入りの事業仕分けも、学級会政治そのものだった。

・・・・・事業仕分けでは、
石油や塩の備蓄、防衛・自衛隊災害救出活動費、除雪費、
八ッ場ダム、スーパー堤防、耐震補強工事費、
学校耐震化予算、災害対策予備費、地震再保険特別会計
などが次々に廃止されていった。・・・・

民主党はマニフェストで、日本には埋蔵金が
60兆円もあると主張したが、そんな過剰な貯蓄金は
自民党政府時代の日本にはなかったのである。
・・・・」

まだまだ続くのですが、
これだけでも十分でしょう。

さて、これは
小川榮太郎著「安倍政権の功罪」(悟空出版)の序文。
序文の題は
「『安倍政治』は『許せない』悪政か」です。

はい。序文のさわりだけを引用しました。
序文で11頁。これだけ読んで私は満足。
どうです、立ち読みで(笑)。


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途中で投げ出した口だった。

2018-08-29 | 前書・後書。
百目鬼恭三郎といえば、「読書人読むべし」という題が
宣伝されていたことがあり、御多分に漏れず買ったのでした。
けれど、読めなかった記憶があります。

まあ、そんなわけでこの人の本は、手がでなかったのですが、
古本でまとめて購入した中に「奇談の時代」があって、興味深く。
それが読み終わらないうちに、「乱読すれば良書に当たる」を
古本で安く購入。こちらも面白そう。

はじまりは
「この本の宣伝のための架空講演」です。

「いつだったか、さる所で講演をした折、聴衆の一人から、
お前が出した『読書人読むべし』という読書案内には、
専門家が使うような本ばかりあげてあって、
我々のような一般読者向きの本はほとんど紹介されていない、
お前は一般読者をバカにしているのか、と叱責されたことが
あります。・・・」

 架空講演はこう始まっておりました(笑)。

「・・私には読み通せなかったか、
読んだもののよく理解できなかったか、のいずれかで、
他人様におすすめできるだけの自信がなかったから、
紹介しなかっただけのことなのですね。
『神曲』だの『ドン・キホーテ』などは、
読んでもさっぱり面白くなくて途中で投げ出した口
だったとおぼえています。・・」


はい。これだけでも買って正解でした(笑)。

ひとつだけ引用します。
夏目漱石の「坊つちゃん」を取り上げた箇所。
はじまりはというと、

「多くの読者が、夏目漱石の作品に人生哲学を求める
読みかたをしている、ということに気づいたのは
旧制高校の一年生のときである。・・・

当時の私にとっての漱石は、『坊つちゃん』の作者、
『草枕』や『虞美人草』の作者であって、
おなじ漱石の作品でも、理窟の勝った『行人』や
『こころ』はどうしても好きになれないでいたのである。」


はい、こんな風にはじまっていて、5頁。
その最後のページを引用しておきます。

「初期の漱石は、天与の想像力をのびのびと発揮して、
『坊っちゃん』や『草枕』を書いた。
が、漱石はやがて、想像力を駆使することをやめてしまい、
人間性を追求する小説を書きはじめた。その最初が
『三四郎』『それから』『門』の三部作であり、
以後、『彼岸過迄』『行人』『こころ』と、
その傾向は深化してゆく。そして、それに反比例して、
漱石の天与の才能は影をひそめてゆき、
吉田健一氏がいみじくもいったように、
真の意味の小説ではなく、
小説の雛形になってしまっていたのである。
『坊っちゃん』が、漱石の最高傑作であるという評価が、
少数意見でなくなる日の来ることを、私は願っている。」
(p40~44)


はい。最初に百目鬼恭三郎著「読書人読むべし」(新潮社)を
読んだのが間違いのもとでした。
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