和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

大震災と牛乳の国・安房郡②

2024-04-07 | 安房
「大正大震災の回顧と其の復興」上巻から、
牛乳とある箇所を、適宜引用してゆきます。

石野正(安房農学校5年)の文を引用。

「我が瀧田村は、彼の大震災に当り、
 比較的被害少かりし為、青年団、消防団員の大部分は、
 被害甚大なりし北條、那古、船形方面に出動して、
 避難民救助、消防やら、糧食の配給等に寝食を忘れて盡力すること3日間に及んだ。

 特に火災の多かりし船形町には、村民有志より
 多大の米穀と、牛乳と筵類の寄付を募って、避難民を救済し、

 且つ村内数ヶ所に、避難民救養所を設けて、
 糧食( にぎり飯、牛乳、湯茶等 )及び
 宿を無料にて提供して盡力せし青年団、消防団員
 の行為は、感謝すべきものが少なくない。・・・  」(p932)

うん。安房農学校5年・生齋藤進の「その時の牛乳の味」(p800~802)も引用して
みたいのですが、ここでは、そのページにあることを確認して次にゆきます。

「大正大震災の回顧と其の復興」下巻には
瀧田村の記述がありました。そこから引用。

「 本村は震災の範囲其の局部に限られた故、
  罹災民が他に避難する必要なく各自が自己の屋敷内に
  応急の小屋を作りて、其の中に全部避難したので
  一定の場所に収容することはなかった。

  救護本部にては東京横浜地方より徒歩にて
  数日数夜を飢と暑さに疲れ果てた人々に対しては、
  第一に食を給し牛乳を与へ、或は一夜の寝に就かしめ
  歩行不十分のものは荷車で次の村まで送り届けなどした。

  青年団軍人分会其の他村有志より成る本村救護本部にては、
  比較的軽微の本村内の救助は随時之をなし、
  大部分は他町村に出動した。
  ( 北條、那古、船形、館山等 )。
  後に安房郡長より感謝状を贈られた・・・・

  特に筆太に記したきは東京菓子製造株式会社は
  無償にて自己所有の生乳を毎日本村救護本部に対し運送方を依属せられた。

  本部に於ては救護員四五名に荷を輓かしめて之を
  那古船形、北條等に輸送したこと約10日間である。
  酷暑と奮闘しつつ数里を運び行きし其の牛乳は
  罹災民に如何に涙と共に迎へられしか。  」( p210~211 下巻 )


こうして瀧田村は局部に限られた大震災だったのに対して
國府村の被害はどうだったのかも引用。

「全村を通じての総戸数は381にして、その被害は郡の調査表によりて
 その正数を案ずるに、実に百分の94に達してゐる。即ち
  
   全潰 300    半潰  61
   学校全潰 1    役場全潰 1         」( p214 下巻 )

「 本村主要の副業は、畜牛にして生乳の産額は郡内屈指の地である。
  震災の結果交通機関は全く杜絶し、煉乳作業又不能の陥り、
  日々搾取した生乳は、全く販路を失ひ、徒に抛棄するの
  止むなきに至りたること約一ヶ月。・・・     」( p215 下巻 )


北三原村の記述も最後に引用しておくことに

「 工場の被害は全くなし只買入れたる生乳は
  全く使用するを得ずして之を10日間廃棄したり。

  其の間生乳は震災の最も甚だしかりし
  南三原村、北條町の傷病者に3日間無料輸送をなしたるのみ、
  他は全く棄却す・・・    」  ( p289 下巻 )


ちなみに、

「 郡農会は当時郡長を会長とし、職員は大部分
  郡吏員兼務なりしを以て、萬事郡長の指揮により
  その対策に萬全を期したり。
  食糧の配給は専ら郡役所の食糧関係吏員郡農会関係職員にて行ひ、
  大震災翌日余震尚甚しき内に米穀徴発の方法を採り・・・ 」

「 尚傷病者救護の為めに安房郡畜牛畜産組合( 組合長は当時の郡長 )
  をして牛乳の施與を行はしめ其の援助にも当れり。 」( p409 下巻 )


とあったので、なるほど安房郡畜牛畜産組合の
組合長は安房郡長・大橋高四郎だったとわかり、
その指揮の下で行動していたことがわかります。


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大震災と牛乳の国・安房郡。

2024-04-06 | 安房
「海の時代」から「安房は牛乳の国」へと視点を移します。
関東大震災の際に、安房郡では牛乳がどうなっていたのか。

「食料品は一般に欠乏してゐたが、傷病者と飢餓に泣く乳児とは、
 何とか始末せねばならなかった。

 殊に震災の恐怖で急に乳のとまった母が、飢に泣く乳児を抱いて、
 共泣きしてゐるさまなど見て・・・

 幸い安房は牛乳の國である。
 郡長は安房畜牛畜産組合に依囑して、
 無償で牛乳の施与に当らしむることとした。

 しかし、交通杜絶の場合である。
 牛乳の輸送と、殺菌設備には、相当考慮を要するのである。

 が、折柄東京菓子会社、極東煉乳会社の好意と、
 青年団、軍人分会の盡力とで、9月4日から牛乳を配給した。
 そして10月7日まで、34日間之を継続した。

 配給区域は、北條、館山、那古、船形と南三原の4町1箇村であった。
 ――その上区域を拡張することは、事情が許さなかった――
 
 施配した石高は、実に76石1斗3升の多きに上った。
 施与延人員は、2万人に達した。此の牛乳は、
 全部郡内牛乳業者の寄贈にかかるものである。 」

               ( p256 「安房震災誌」 )

「安房震災誌」の第6章「産業上の被害」にも、牛乳に関する記述が拾えます。
そちらからも、引用しておきます。

勝山町・・本町に在る東京菓子会社、極東会社、ラクトウ会社、
     各工場内の機械は破損し、為めに休業の止むなきに至った。
     其の結果、9月1日より20日間位は全町内の牛乳を無料にて
     一般町民に分配するの状態であった。・・・  (p141)

被災最中の無料配布に関しては、指揮系統の有無で判断が分かれております。

國府村・・本村主要の副業は、畜牛にして、
     生乳の産額は郡内屈指の地でもある。
     震災の結果交通機関は全く杜絶し、
     煉乳作業又不能に陥り、日々搾取した生乳は、全く販路を失ひ、
     徒らに抛棄するの止むなきに至りたること約一ヶ月。・・(p143)


私に思い浮かぶのは、2019年千葉県の台風15号の被害でした。
長期停電が続き、冷蔵庫の品が腐る家庭が続出しているなか、
畜産農家でも、牛乳用クーラーが使えず抛棄しておりました。

北三原村・・産業上の被害は少なからざるも、
      特に三原煉乳所に於ては、工場を破損したる為め、
      引いて本村の畜産業に一大打撃を来たし、
      一時牛乳の処分に苦しんだ。・・・ (p147~148)


さらにまた、牛乳に関する箇所は、
「大正大震災の回顧と其の復興」に記述がみられるので、
次回は、そちらからも引用してみることにします。
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大震災と安房の海の時代⑤

2024-04-05 | 安房
銚子からの救援団体に、陸揚救援をした漁業団体がありました。

「安房震災誌」の「郡外よりの救護団体」に
「当時郡役所に於て受付けた来援団体は・・」(p290)とあり、
その団体名一覧のなかに『・・本銚子漁業青年団』とあるのでした。

他のページの「負傷者の応急手当」の箇所にも、銚子が出てきます。

「 銚子の関谷医師外5名の来援は、4日の午後9時のことである。

  千葉県赤十字社救護班の一行6名と、医師小野田周齋氏等銚子医師団
  の一行の来援は5日のことであった。・・ 」 ( p244 )

銚子の活動については、「大正大震災の回顧と其の復興」下巻にありました。
最初に銚子から来た救護班があり、それに続いた箇所を引用してみます。

「 第一班の本銚子青年団救護班と引違に9月8日
  本銚子漁業青年団が出動した。団員21名を以て
  班を組織し主として北條に於て陸揚作業に従事したのである。

  当時各地より建築材料食料品等を積込んで
  入港した船が澤山あったが小舟はなし、
  あっても櫓の操れる者もゐない有様で
  陸揚には頗る困ってゐる所であった。

  班員は何れも船乗であるから海中作業は得意とする所、
  裸になって水中に飛込み之等の貨物を自由自在に運搬した。
  又此の間軍隊の上陸や避難民の上陸にも援助したので、
  当局からは大に喜ばれた。
  後に大橋郡長より鄭重なる感謝状を贈られたのである。
  班員は宮内寛之助外21名。   」 ( p1354 下巻 )


このあとの記述も、当ブログに引用しちゃいたくなりました。

「 救護班によって具さに悲惨の状況を目撃したので
  今度は罹災者に衣類を送りたいと考へた。
  
  仍て小学校の職員児童中心となり
  婦人会、處女会等の応援を得て募集に着手した處、
  忽ち熱誠なる賛成を得、其の数3477点に達した。

  之を26梱に荷造りし校長携帯木更津に至り
  之より県有の船舶に依頼して安房郡へ発送した。

  此の衣類には概ね寄付者が氏名を付すことにしたが、
  中には見舞の手紙を入れたのもあった。

  配給後は各方面から可憐な禮状が続々来たが避難の状況
  など書いたのもあって誠に涙を催すようなことが多かった。

  尚同校職員児童より醵出した金211圓及役場吏員よりの
  義捐14圓85銭は県教育会を通じて県下罹災の教員生徒児童に
  贈ることとした。当時同校へは東京方面より避難して来た
  児童が360余人一時に入学した。
  此の内約半数は其のまま小学校を卒業したのである。 」(p1355)




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大震災と安房の海の時代④

2024-04-04 | 安房
震災援助の『 物資の陸揚げ 』の記述で、
ぜひ、引用しておきたい箇所がありました。

小見出しに「 目覚しかった漁村青年の活動 」とあります。
その全文を引用。

「 被害の少かった町村からは、日割と人員とを定めて、
  本部救援の為召致したその大部分は青年団員であったが、

  団体的訓練、団旗持参、巻脚絆に跣足袋といった服装の如き、
  形式的には農村青年団の方が整って居た、

  然し其の仕事に於て殊に仕事の分量の多かった
  海岸に於ける物資の陸揚作業等に至っては、   
  漁村青年の方が遥かに能率が上った。

  満25歳以下の者を以って組織せる農村青年の中には、
  四斗入一俵米の運搬も容易でなかった者も見うけられた、
  況んや20貫もあらうといふ菰包等の運搬に於ておやである。

  然るに漁村の青年は年少の者と雖海の操業には慣れ切った者であった、
  就中海底の隆起と干潮の際などは数十間の沖合より、
  背を以って水中徒渉陸揚をせねばならぬ状態である、

  或は艀舟の操縦、或は海中に於ける荷物の受渡等に至っては、
  腹部を没する波のうねり、しぶき等をも物ともせず、
  褌一つの身軽を以って、鼻歌交りに、可成の重量あるものと
  雖易々として、陸揚をなせるが如き、流石は稼業柄、
  活動の目覚しきもののあったことは、衆目の見る所であった。 」

     ( p891~892 「大正大震災の回顧と其の復興」上巻 )


これは、海が身近でない山間部の育ちと、漁師町の育ちの違いが、
この物資の陸揚げの際に、鮮明な形で映ったということでしょう。

思い浮かんだのは、田宮虎彦がその著「花」に載せている箇所でした。
こちらは女性が主人公で、安房の外房の町の花づくりを描いた物語です。
この機会に、陸揚げの関係しそうな箇所を引用してみることに

「・・かたくかたまった凝灰質の砂岩がところどころに露呈している。
  そんな三反や四反の畑で一年の生計をたてて行けるわけはなかった。

  安房丘陵をうしろにせおって木樵(きこり)の多い向原や奥畑をのぞき、
  天畑にかぎらず〇浦の町のどの部落でも男たちはみな海に出ていった。

  男たちが海に出ていくこと、つまり漁業が〇浦のどの部落でも
  生計を立てていく主な仕事であった。そして、畑をたがやし
  冬は麦をつくり夏はささげや大豆やあずきなどをつくるのは
  残った女たちの仕事であった。半農半漁といっても、
  漁業の方に重みは大きくかたよっていた。・・・・・

  種蒔きの時期や刈入れの時期は畑仕事に追われはしたが、
  その間の時期は、僅か二、三反の畑仕事など女たちだけでも
  手は余ってしまう。女たちは畑仕事が終ると、
 
  イサバヤに仕事があればイサバヤにかよい、
  あぐりの法螺貝が聞えれば畑仕事や家まわりの
  雑用仕事を投げだして〇浦の港や△浦の浜にかけおりて行った。

  ・・・あぐり網の鰯を浜まで運んだはしけから受けとる女には、
  浜でならんで待ちうける女たちのほかに、
  胸まで波間におどりこんで、はしけのそばまでかけよっていき、
  はしけに乗ったノリコから鰯をいっぱいいれた万両籠をうけとる女がいた。
  浜で待っている女たちの仕事は子供でも老婆でも、
  時には東京や千葉あたりから遊びに来たきゃしゃな女たちの
  浜遊び半分の手伝いでも間に合ったが、
  胸まで波間におどりこんでいってはしけの舟ばたまで
  万両籠を受けとりにいく女たちの仕事はそんな生易しい仕事ではない。
  ・・・・    」

    ( p23~26 新潮日本文学36「田宮虎彦集」昭和47年 )


  
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大震災と安房の海の時代③

2024-04-02 | 安房
「千葉県安房郡誌」(大正15年6月・千葉県安房郡教育会)の記述に

「 維新前の経済状態は之を詳にし難きも、
  古来安房国の石高は十万石と稱せられ、
  農業は産業上重要なる位置を占めたり。

  然し米穀は概して需要を充たすに足らず、
  遺憾ながら自給自足の状態にてはあらざりき。

  天然漁業に適したる本郡が、
  古来漁業を以て全国に聞え、
 『 安房は水の国 』との稱ありしも、
  蓋し天然的の理由のみにはあらざるべし。

  即ち江戸幕府時代には交通不便ながらも、
  海産物を江戸に輸送し、それによって
  所謂房州の経済状態は維持されたるが如し。
  従って生活の質素なりしは当然と云ふべし。・・ 」( p442 )

という記述があります。
さて、関東大震災の余震がたびたび来る中にあって、
海運の重要性は、躊躇を許さないものがありました。

昭和8年8月発行の「大正大震災の回顧と其の復興」上巻に
元安房郡社会教育主事・鈴木保氏の「戦場の如き慰問品の陸揚げ」
と題する文がありました。最初の方には、こうあります。

「・・倒潰家屋の片付、交通整理、応援団体の指揮等一通り済んだ
 9月の下旬頃から、全国各地から陸続として慰問品が寄贈される、
 依って慰問品係が専任された。・・・ 」

「 ・・或る日の午後3時頃と記憶する。
 大阪商船会社北京丸は海岸遠く碇を下ろして、
 船長は事務所を訪れた。

 大阪方面より関東災民に寄贈すべき慰問品を本船に満載してゐる。

 明日の午前12時迄に引取って貰ひたい、
 本船は明日正午当港を出帆すべきにより、
 同時刻までに引取を完了せざるに於ては、
 本船は他の地方に之を輸送すべし、

 と云ふ意味の通告であったと記憶する。
 郡長は桟橋会社の楼上から沖に碇を下ろして居る北京丸を望み、
 何か決するところがある。
 
 我等は五、六千噸もある大商船に満載せる慰問品、
 全部を貰ひ受けて災民に頒ちたいといふ、希望は満ち満ちてゐる。
 ・・・・

 大橋郡長は決する所あり、館山町長を召致して、町民一戸一人
 賦役の方法を以って明日正午までに引取り方を交渉した。
 同町長之を快諾、直ちに町民に向って、総動員令を下したのである。

 郡は東京通ひの小蒸気船一、二艘(300噸位)
 外に渡航船(荷物運送船)数隻を徴発して、萬全を期した。

 翌朝夜の未だ明けやらない東雲の頃より、
 屈強の船頭を各受取船に乗り込ましめ、
 無二無三、本船より移荷せしめた。

 そして数十隻の艀舟によって海岸に運ぶ、
 人夫は陸上にあって艀舟の来るのを今や遅しと
 手ぐすね引いて待ってゐる。・・・・・

 時しも震災の為海底隆起し加之干潮の為
 艀舟より陸上までピシャピシャ波を徒渉
 せなければならぬ、不便此の上もなかった。

 大きなる荷物、重き菰包、擔ぐ者背負ふ者、
 誤って水中に落す者、格納所まで二町乃至三町の間、

 多数の人夫の往復、さながら戦時輸送の実景を見るが如き心地がした。

 我等は陸揚は兎も角、本船からの引取完了を心痛し、
 遠く本船内の活動を慮ること刻一刻、正午を期し 
 黒煙を吐きつつ北京丸の出帆を眺めた。

 その時引取船上の人々の疲れ切った体にも、
 使命を果した朗な顔が双眼鏡のレンズに映ずるを見、萬歳を叫んだ。
 ・・・・・      」 ( p887~890 )
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大震災と安房の海の時代②

2024-04-01 | 安房
この機会に、『安房震災誌』から関東大震災の船関連をピックアップすることに。

「・・水産試験場所属の汽船『ふさ丸』と『加々美丸』を徴発して、
 輸送のことに当らしめた。外に東京湾汽船株式会社の汽船清瀬丸と、
 同北海丸も徴発して、救護品、食料、慰問品等の輸送に充てた。

 それでも尚ほ不足を感じたので、上記4隻の常備輸送船の外に、
 臨時傭船として、宮代丸(船形町)福神丸(天津町)幸神丸(船形町)
 も亦た同一の任務に充てた。常備船の根拠地は館山港であったが、
 最も頻繁に往来した地点は、木更津と、勝浦と、次は千葉であった。

 そして此等汽船の活動は、9月3日未明から殆んど毎日のことで、
 その航海日誌を見ると一見驚くべき活動振りを示してゐる。

 鉄道も、陸運も全く杜絶した時のことで、
 ひとり海運のみよったのであるから、此の間は全く海の時代である。
 安房でなければ出来ないことであった。  」( p276 )


救護班の来援に関する記述も、この機会に引用しておきます。

「 銚子の関谷医師外5名の来援は、4日の午後9時のことである。
  千葉県赤十字社救護班の一行6名と、医師小野田周齋氏等の
  銚子医師団の一行の来援は5日のことであった。

  此等の人々は、何れも勝浦から、陸路を北條へと廻って行った
  のである。その労苦、大書特筆すべきである。・・・  」( p244 )


「 ・・5日の夜半であった。
  夷隅郡青年団員47名、青木堂郡視学指揮の下に館山海岸に到着。

  次で長生郡青年団員51名、山武郡青年団員44名、印旛郡青年団員47名、
  羽計長生、田部山武、石原印旛、各郡社会教育主事の指揮の下に来援。

  其他軍人分会、青年団水産会等の各団体員も、
  或は陸路より、或は海路より陸続として、来援してくれた。

  そして長途の疲労をも忘れて、或は罹災民の救護に、
  或は交通障害物取除に、或は食料品の荷揚運搬等に
  極力盡瘁されたのである。・・・・ 」

                    ( p289~290 「安房震災誌」 )
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大震災と安房の海の時代。

2024-03-31 | 安房
関東大震災の安房では、
『 鉄道も、陸運も全く杜絶した 』
そして、
『 ひとり海運にのみよったのであるから、
  此の間は全く海の時代である。
  安房でなければ出来ないことであった。 』
            ( p276 「安房震災誌」 )

関東大震災の安房を、あらためて、
海という視点から、見てゆきます。

大橋高四郎安房郡長は、関東大震災当日にどうしたかというと、
県庁へと急使を出し、安房の山間部の村へも急使を出しました。
陸上からの急使を派遣した後に、海運へ頼みを託しております。

「 ・・・真先に県へ急使を馳せて、県の応援を要求してはおいたが、
  医薬、食料品の必要は寸時も時をうつすことが出来ない。

  そこで、館山にある県の水産試験場に、ふさ丸と鏡丸の発航を依頼した。

  笹子場長は郡長の依頼に懸命盡力したが、
  ふさ丸は機関部に故障があり、鏡丸には軽油の蓄へなく、
  その上地震の為め機関長の生死が不明であったので、
  二隻ともどちらも即刻の間に合はなかった。

  しかし、一方機関の修繕を急がせ、他方軽油を所在に求めて、
  2日の夜半漸く出帆準備が出来た。汽船の準備は出来たが、

  震災の為めに海底に大変動があり、
  且つ燈臺は大小何れも全滅して了った。
  此の際航海の危険は、いふを俟たない。・・・

  ところが場長の激励と船員の侠気とで、
  遂に3日の未明、汽船鏡丸は館山を発して千葉へ航行した。

  鏡丸には門郡書記が乗船して、救護品に就ての一切の処理に任じた。

  海底の隆起と陥没と、・・危険の中に鏡丸は天祐によって、
  無事に千葉に着いた。そして翌4日の午後8時15分には、
  又無事に館山に帰航したのであった。

  鏡丸には玄米百俵と、若干の食料品と、
  そして県の派遣員16名と、看護婦4名とが乗船してゐた。

  是れが千葉からの最初の応援であった。
  郡当局は斯うして最初の救護品を蒐集した。  」( p257~258 )


時系列的に、もう一度おさらいするのに、
千葉県庁へと急使に立った重田嘉一の手記を見ると、
重田氏が県庁へと辿り着いたのは、2日午後1時半。
その時の、県庁の指示は
『 帰ってふさ丸を千葉に回航せしめよ 』との命だった。そして、
重田氏が『 北條に帰着したのは・・3日午前10時であった。 』

        ( p251 『大正震災の回顧と其の復興』上巻 )

この県庁の指示を待つことなく、先回りしての理解で、郡長の指揮のもと、
『 3日の未明、汽船鏡丸は館山を発して千葉へ航行 』していたのでした。

さらに次には、郡長が鏡丸に乗船して千葉へゆくことになります。

「 ・・・米は焦眉の必要に応じて、それからそれへと配給して行ったが、
  日を経るに従って欠乏甚だしく、7日の夜に至っては、
  全く絶望状態に陥った。殊に総説に掲げたる

『 食料は何程でも郡役所で供給するから安心せよ 』といった、

  各所に掲げた掲示で、人心の安定に導いてゐる刹那のことである。
  ・・・・是れまで郡長に信頼して飢と戦って来た罹災民は、
  いかに失望するであろう。失望の結果、又如何なる事態を惹起するであろう。

  ・・・・郡長は決意を深く秘めて、翌8日の払暁、
  鏡丸に乗じて上縣し、つぶさに郡民の窮乏を訴へ、
  而かも米の欠乏甚だしきを以て、直ちに米9000俵の
  急送を懇請したのである。

  すると県も之を容認して、米5000俵を給興するに決した。
  且つ輸送の為めに、館山湾に碇泊中の汽船を徴発すべく、
  徴発命令2通を交付された。そこで、郡長は9日に直ちに
  帰任して、汽船2隻を徴発し、廻米の事に従はしめた。

  そして、その翌10日であった。突如県よりは更らに
  米1000俵、増加配給する旨を通達された。・・・・・

  震後人心に強い脅威を与へた食料問題も、
  是に至って漸くその眼前の急より救はるることを得たのである。」
  
                 ( p262~263 「安房震災誌」 )
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震災の日赤千葉支部と安房郡

2024-03-30 | 安房
関東大震災では、日本赤十字社千葉支部の活動記録がありました。
その記述が順番にならべてありました。

① 千葉支部構内臨時救護所

  支部(本千葉駅前)構内に天幕4張バラック2ヶ所を設けて
  臨時救護所を開き罹災避難者の救護に当った。
  建造物内に収容をなさなかったのは強震に不安を抱く避難者を屋内に
  収容するに適さざるのみならず萬一の場合を思ふからであった。
  救護医員4名、看護婦19名、事務には主事以下6名之に当った。

  重症患者にして身体の自由ならざる為収容したる者61名、
  その他外来の軽症患者多数あり・・・・・

  本救護所は重症患者を収容するを目的として9月1日夜以来
  警察署、市役所、千葉駅、本千葉駅其の他より
  重症患者を担架等にて運搬し来り、

  その重き者は或は腕を或は足を切断したる等大手術を行った。
  而して本所に於て救護したる患者の大部分は
  本所、深川、若は浅草辺の罹災者であった。
  9月1日開設し10月8日閉鎖した。

② 戸田臨時救護所
  
  9月3日県下被害の甚しい市原郡戸田村に臨時救護班を派遣した。
  救護医員1、看護婦2、書記1名で組織し、
  携行の衛生材料は外傷治療品8点、内科治療薬品15点、
  火傷治療薬品2点、繃帯材料5点であり、
  治療人員30余名に達した。9月3日開設し即日閉鎖した。

③ 湊町臨時救護所

  9月3日県下の被害多き君津郡湊町に臨時救護班を派遣した。
  携行救護材料は戸田村救護所同断、
  救護医員1、看護婦2。治療人員22名、9月5日閉鎖。

④ 北條町臨時救護所

  9月4日県下安房郡中被害最も甚しい北條町に
  第一回臨時救護班を派遣した。
  班は救護医員1、看護婦2、書記1で組織し、
  携帯材料は前記救護所と略同様で、
  治療人員118名、9月10日閉鎖。

⑤ 佐倉臨時救護所

  ・・・・・・・・・・

⑥ 北條町臨時救護所 (第2次)

  9月23日安房郡北條町に第2回臨時救護班を派遣した。
  初め当支部は全力を挙げて此の方面の救護に努力せんとしたが、

  千葉医科大学に於て9月4日以来同地方に大組織の救護班を派遣したから、
  当支部の第1回救護班は一時之を引揚げたのであった。

  然るに同大学の救護班は9月26日限り引揚ることとなったので、
  同大学の救護班と協議の上、支部に於て之を引受け行ふこととなったのである。

  救護医員3、看護婦10、書記1、傭人2で班を組織し、
  収容患者30名、外来患者は日々50余名に達し、
  取扱患者総人員1452名に達した。

  携行衛生材料としては外傷治療薬品19点、眼科治療薬品2点、
  内科治療薬品44点、繃帯材料5点、火傷治療薬品2点であった。
  本班は9月26日開設、10月19日閉鎖した。


ちなみに、この第2回の日付を見ていると、派遣したのが23日で開設が26日とあります。
第1回の時も同様で、派遣したのが9月4日で、開設はそれより3~4日後かもしれません。
そのあとに、亀戸及緑町が載っておりますので、最後にそこからも引用しておわります。

⑦ 東京亀戸及緑町派遣救護所

  9月2日千葉医科大学に於ては東京方面の救護の為出動することとなり、
  本支部は医科大学と協力して救護班を亀戸小学校内に開設した。・・・

  救護に従事したのは医科大学松本教授以下であって
  毎日約20名外使用人20名計40名にて、2日夜は同校に宿泊し、
  3日以降は千葉市より通勤した。取扱患者数8984名・・・

  更に9月3日本縣県医師会と協力して救護に当ることとし
  県医師会は東京本所区緑町に救護班を派遣した。
  関川医師外医員20名、看護婦1名、助手(在郷軍人青年団)116名。
  取扱患者数1764名であった。       」

   ( p346~353 「大正大震災の回顧と其の復興」上巻 )


うん。やはり最後は「安房震災誌」からも引用してしめくくります。

「地震の残した大惨事、大損害。
 それは迚ても工兵の力をからねば、収拾することは出来得まいと思ったので、
 県へ斯くと要請しておいたが、それも急速の間に合はない。

 そこで、望みを郡内の青年団に託したのであるが・・・・
 2日の正午過ぎに、又しても一大激震があった。

 1日の大地震に比較的損害の少なかった長狭方面は、今度は激震であった。
 そこで長狭方面から北條方面へ向け来援の途上に在った青年団は、
 途中から呼び戻されたものもあった。・・・
 且つ警戒の為めに応援意の如くならずして、苦心焦慮の折柄、

 3日の朝になると、東京の大地震、殊に火災の詳細な情報が到着した。

 斯くては迚ても郡の外部に望を託することは迚ても不可能である、
 絶望であると郡長はかたく自分の肚を極めた。

 そこで、『 安房郡のことは、安房郡自身で処理せねばらぬ 』
 といふ大覚悟をせねばならぬ事情になった。
 4日の緊急町村会議は実に此の必要に基いた。・・・・・    」

                ( p277 「安房震災誌」 )
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関東大震災の東京と安房

2024-03-29 | 地震
関東大震災の、千葉県内で各医師会による救援の状況はどうだったのか。
ここは、印旛郡医師会と長生郡医師会の例を引用してみたいと思います。

大震災で、東京と安房と救護派遣をどう判断したか。
それを、この2つの医師会の救援の様子でたどります。

県北に近い、印旛郡医師会長報によると

「・・協議の結果青年団員の代りに消防員を派することとし、
 2日午後4時頃の列車にて佐倉町医師2名、成田町医師3名、
 佐倉町成田町在住の消防員18名

 以上出県せしむ、と同時に県より電話あり、

『 房州地方の被害深甚、殆ど全滅に付上京を見合せ
  県内なる房州へ救護の赴くべし 』との事なりしも

 午後6時過に至り、出葉中の医師大畑寶治より電話にて

『 房州へは汽車不通又汽船は何時出発するや不明なること
  及び内務大臣より特派の巡査来県是非共東京へ
  医師竝救護材料差遣方懇請せるを以て一同相談の結果
  予定の通り出京の事に決せり 』と、

 2日夜は県庁構内に野宿し、3日早朝列車にて上京、 
 亀戸より徒歩途上幾多の障碍を突破し、
 内務大臣官舎に宿泊し、本所方面の罹災者救護に盡力し
 薬品材料を使用し盡したるを以て9月5日引上げ帰県す  」
   
     ( p1099 「大正大震災の回顧と其の復興」下巻 )



次に千葉県中央部の茂原に近い長生郡から、長生郡医師会報の引用。


「・・・7名にて救護班を組織し9月3日午前11時茂原警察署前より
 自動車に乗り大多喜より勝浦に向ひ、勝浦警察署にて
 房州方面道路の模様を聞かんとしたりも能はず、
 自動車を乗り換へ鴨川警察署に著し状況を聴取す。
 家屋の破壊相当大なるも傷者の救護を要するものなし。

 鴨川より先方は道路狭し自動車其の他乗物一切通らず
 警察署長と相談し自転車一両を借り入れ鈴木(才次)班長独り
 先方の状況視察し今後の行動を定めんとし・・・・

 和田付近県道亀裂多く自転車の通行も困難なり、
 此の状況を鴨川町に残したる班員に告げんと
 鴨川警察署に引き返せば既に天津に引き上げたと・・・・

 警察電話利用し9月4日朝に至り小湊町ホテルに在宿せるを知り
 午前8時集合し、勝浦駅より初発汽車に乗し午後4時茂原に帰り
 報告す、房州救護班を解散す。
 4日夜は茂原警察署前の救護所で東京よりの避難民を救療する。」


この班長だった鈴木才次氏は、そのあとに東京へと向かっております。

「9月5日午前11時茂原発、汽車大網駅で乗り換へ(土気隧道不通の為)
 成東で亦1時間待ち乗り換へ、佐倉で乗り換へ千葉で乗り換へ、
 午後7時薄暮亀戸駅著、戒厳司令部列車内に在り・・・ 」
                   ( p1187~1189 同上 )

このあとは、東京の被災の様子があるので引用しておきます。


「 亀戸小学校内亀戸町本部に到るを得
  福田会に一泊す、寝具も蚊帳も無く一睡もするを得ず。

  救護材料は千葉県庁より支給され消防部長川島先行し、
  千葉県知事より内務大臣宛の文書と共に千葉駅より
  持込んだので充分有るから6日午前3時50分亀戸を出発
  
  九段坂は何んの邪魔もなく眺められ、
  一望焼野原石炭は未だ盛んに燃てゐる焼死体は諸所に散乱し、
  江東川中には水死体ブクブク浮き居り悪臭鼻を突く。

  人形町、小伝馬町、本石町を過ぎ丸の内に入り
  馬場先門より二重橋前に到り一同整列皇居三拝国家の安泰を祈り、
  内務大臣官舎に行き衛生局横山助成の指揮を受け、
  警視庁衛生課長小栗一雄に面会更に命を受け
  
  亀戸警察署宛の添書を持ち亀戸小学校庭で
  一般被害者を救護する事となる。亀戸警察署の報告にて
  同署に収容せる500人の鮮人中負傷者60余名あり、

  我が班にて之を救護す可く申出で外科的治療を応急処置す、
  午後1時より亀戸小学校に救護所を設け治療す。

  大部分は火傷で食傷下痢患者少数有り
  午後6時半持参の材料を使用し盡くし一時閉所す、
  同治療所に活動せる人々は鈴木班長外6名

  他の救護手は各所に知人を尋ね一般救助をする事と決す。
  9月7日林八郎副班長主任とし更に活動し8日午後林班長帰茂し解散す。
  9月20日茂原消防組救護手に夫々感謝状を送る。
  9月27日震災義捐金を募集す。     」

                    ( ~p1190  同上  )

 





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防災士教本の教え。

2024-03-28 | 地震
日本防災士機構に『防災士教本』というのがあります。

前回に引用した

「 人間は非常事態に陥った時に、本性が現れるものだ。
  地震や津波で家を失うという危機に見舞われても、
  人間としての品位を保つことができることに、私は目を疑ったものだ。
 
  筆者が育ったオーストラリアの大学で学んだ精神病理学では、
  健全な人格の条件として『 統合性 』がその一つに挙げられていた。
  落ち着いて安定している時に周囲に見せる人格と、
  非常事態に陥った時に現れる人格が同じであることを言う。
                        ・・・・  」
(p1~2 デニス・ウェストフィールド著「日本人という呪縛」徳間書店・2023年12月)

ここを引用したあとに、思い出したのですが、
特定非営利活動法人の日本防災士機構に『防災士教本』があります。
そこに、こんな箇所があったのでした。

「ただ、組織を『 防災 』に特化したものと考えるのは適当ではない。
 一生に一度あるかどうかの大災害のためだけの組織を、そのために
 機能させるのはむずかしい。

 日常的にたとえば、地域のお祭りや盆踊り、餅つきなどの
 地域レクリエーション、清掃、子ども会活動などに生きるような
 組織として位置づけられていなければ、いざというときに動けない。

 組織も資機材も、ふだんの地域のコミュニティ活動と一体になって
 いなければいけない。ふだんやっていないことを、大災害のときだけ
 機能させようと思っても無理だということを知っておかなければならない。」
         (  p32 「防災士教本」平成23年11月第3版  ) 


はい。私の場合はというと、「安房震災誌」に出てくるエピソード、
『御真影』を倒潰家屋からとりだし、檜の木の上に置いた場面から、
神輿渡御の際に、神社から御霊を神輿へと遷す行為を連想しました。


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檜の木の下で。

2024-03-26 | 地震
『御真影』について、今の私に思い浮かぶ光景というと
たとえば神社の御霊(みたま)を神輿へ遷す行事でした。
これなら、神輿があるたびに私は見慣れている光景です。

安房郡長大橋高四郎が、震災当日の安房郡役所の倒潰を前にして

「 恐れ多くも御真影を倒潰した庁舎から庭前の檜の老樹の上に御遷した。
  郡長は此の檜の木の下で、即ち御真影を護りながら、
  出来るだけ広く被害の状況を聞くことにした。
  そして、能ふだけ親切な救護の途を立てることに腐心した。
  県への報告も、青年団に対する救援の事も、
  皆な此の樹下で計画したのであった。    」
              ( p232~233 「安房震災誌」 )

まずもって、心の安定を郡長の最優先事項として行動している姿などは、
つい最近ひらいた本の、はじまりにあった言葉が思い浮かんできました。

「 人間は非常事態に陥った時に、本性が現れるものだ。
  地震や津波で家を失うという危機に見舞われても、
  人間としての品位を保つことができることに、私は目を疑ったものだ。
 
  筆者が育ったオーストラリアの大学で学んだ精神病理学では、
  健全な人格の条件として『 統合性 』がその一つに挙げられていた。
  落ち着いて安定している時に周囲に見せる人格と、
  非常事態に陥った時に現れる人格が同じであることを言う。

  東北地域を襲った未曾有の大地震で、海外メディアは、
 『 自然災害や混乱が起きた後に必ずある略奪 』が
  日本では起きていないことについて、
  驚きと称賛の声を上げていたものだ。

  大地震や津波で多数の命が奪われ、寒さの中で
  水道やガス、一部電気が止まるという惨状の中でさえ・・・・  」

(p1~2 デニス・ウェストフィールド著「日本人という呪縛」徳間書店・2023年12月) 


ここに、東北の大震災と出てきておりました。
テーマの『安房郡の関東大震災』からは、離れてしまいますが、
東日本大震災の年に、たまたま発売日が同時となった文庫が2冊。

 寺田寅彦著「天災と日本人」(角川ソフィア文庫・山折哲雄編)
 寺田寅彦著「地震雑感・津浪と人間」(中公文庫・細川光洋編)

どちらも初版発行が2011年7月25日となっておりました。

ここでは、角川ソフィア文庫の山折哲雄解説から引用してみます。
解説の最後の方に、和辻哲郎の「風土」を紹介しておりました。

「和辻哲郎は日本の風土的特徴を考察するにさいして、
 その台風的、モンスーン的風土については特筆大書して
 論じてはいても、地震的性格については何一つふれてはいないのである。

 これはいったいどういうことであろうか。和辻はそのとき、
 数年前に発生した関東大震災の記憶をどのように考えていたのだろうか。」(p155)

こうして、解説は和辻と寺田寅彦との比較に着目しておりました。
それはそうと、山折哲雄氏はその解説のなかで、寺田寅彦の文を
直接に引用している箇所があります。それを孫引きして終ります。

「単調で荒涼な沙漠の国には一神教が生まれると云った人があった。
 日本のような多彩にして変幻きわまりなき自然をもつ国で
 八百万(やおよろず)の神々が生まれ崇拝され続けて来たのは
 当然のことであろう。

  山も川も樹も一つ一つが神であり人でもあるのである。

 それを崇めそれに従うことによってのみ生活生命が保証されるからである。
 また一方地形の影響で住民の定住性土着性が決定された結果は到るところの
  集落に鎮守の社(もり)を建てさせた。これも日本の特色である。

 ・・・・・・・鴨長明の方丈記を引用するまでもなく
 地震や風水の災禍の頻繁でしかもまったく予測し難い
 国土に住むものにとっては天然の無常は遠い遠い祖先
 からの遺伝的記憶となって五臓六腑に浸み渡っているからである。 」
                         ( p152~153 )


はい。コロナ禍で中止だった神輿渡御が昨年再開しました。
もう人数が少なくなり、子供会も解散したようですが、
子供会有志ということで子供神輿も昨年担いでいます。

7月の連休をつかっての神輿渡御なので、他所に出ている
若い夫婦も子供たちを連れて帰って来るようで思いのほか
昨年は子供たちがあつまり、それが印象に残っております。 


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詔書と、人心の安定。

2024-03-25 | 安房
戦後生まれの私に、分らないのは『御真影』に関する記述でした。
まずは関東大震災で倒潰した安房郡役所の記述に出てきています。

「然し火災も何時起るか知れない、海嘯も何時来らぬとも限らない。
 不安といへば、実に不安極まる。そこで
 恐れ多くも御真影を倒潰した庁舎から庭前の檜の老樹の上に御遷した。

 郡長は此の檜の木の下で、即ち御真影を護りながら、
 出来るだけ広く被害の状況を聞くことにした。
 そして、能ふだけ親切な救護の途を立てることに腐心した。
 県への報告も、青年団に対する救援の事も、
 皆な此の樹下で計画したのであった。

 そして昼の間は、何事が起っても、
 それぞれ処理の途があると確信して、
 郡長は檜の樹下に救護の事務に忙殺されてゐたものの、

 夜に入ってからは、時々海嘯来の騒ぎが其處此處に高まって来た。
 昼間の修羅の巷も、夜の幕が降ると、いはゆる『萬物皆死』とも
 いふべき寂寞さで、何処にも点灯が一つ見へない。

 物音とては、犬の遠吠も一つきこへない。・・・・

 そして『 海嘯だ! 海嘯だ! 』といふ男女の悲調な叫びが、
 闇を破って聞える。樹下の郡長と郡吏員は御真影に対して、
 萬一を気遣はずにはゐられなくなった。・・・・  」
             ( p232~233 「安房震災誌」 )


この『御真影』への態度が、もう私には分からなくなってしまっている。
けれども、『詔書』ならば、読めばわかります。
大正12年9月12日摂政名で発された詔書から、
その一部を、ここに引用しておきます。

「 ・・・・・朕深く自ら戒慎して已まさるも
  凡そ非常の秋に際しては非常の果断なかるへからす
  若し夫れ平時の条規に膠柱して活用することを悟らす
  緩急其の宜を失して前後を誤り或は個人若は一会社の
  利益保障の為に多衆災民の安固を脅すか如きあらんは
  人心動揺して抵止する所を知らす朕深く之を憂惕し・・・・  」

      ( p698~700 「大正震災の回顧と其の復興」上巻 )

安房郡長大橋高四郎は、まさにこの詔書にある
「 人心動揺して抵止する所を知らす朕深く之を憂惕し・ 」と同様
震災当日、安房郡の被災現場での大きな問題として対処しております。

昭和8年に出た「大正震災の回顧と其の復興」に
大橋高四郎の回顧談が載っておりますので、くりかえし、
それにまつわる箇所をあらためて引用しておきたいと思います。

「 吾々日本人がかかる際に最も気になるのは、御真影の安否だ。
  一同は逸早く奉安室に赴き、無事なるを知って喜びつつ、
  之を最安全と思はるる庭前の檜の老樹の上に奉遷してゐた。

  そして俺はその檜の樹の下で頑張って
  御真影を護りながら指揮し且つ計画を立てた。

  夜に入って海嘯の噂さへ伝はったので、
  御真影は庭の樹上から少し隔った隣村の阿夫利といふ
  丘の上に奉遷することにした。
  而して俺外数人が之を守護し奉った。  」

このあとに、こうあったのでした。

「 激震の当時に自宅で考へた俺の胸算用は、
  現場へ来て見ると、より必要な或るもののあることを
  忘れてゐるのに気付いた。
  それは何かと云ふと、人心の安定といふことであった。 」

                 ( p820~821 同上 )
 
 
 
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今少し沈着と度胸が慾しかった。

2024-03-24 | 安房
『安房震災誌』では、どのように安房郡長・大橋高四郎が、
震災指揮をしていったかを、これからたどりたいのでした。

その前に、もう少し郡長のエピソードを引用しておきます。

大橋郡長の談話にあったとあります。

「 郡長は、僅かな時間の余裕を得て、
  見舞かたがた町村を巡視したことがあった。

  ・・・・ある村にゆくと無論小さなものではあったが、
  半永久的なバラックを造ってゐた。バラックの職人はと見ると、
  ・・年の頃四十ばかりの細君が、屋根の上に登って、
  藁屋根の下地に細竹を力まかせにかき付けてゐた。

  その下には、六十余りの老媼が・・
  踏段の上に力強く両足を下ろして、こまいをかいてゐた。

  傍らを見ると十三四位と覚ほしき小娘が、
  下の方から、そのこまい竹を一手一手に老媼に
  取次いて、老媼の作事の助けをしてゐた。・・・・

  そこで、郡長は、小娘に向って、
  主人はどうしたかと聞くと、
 『 父は隣家の手伝に行きました 』といった。

 そこで、郡長は、一寸隣の屋敷に行って見た。
 すると、四五人の男達が地震で潰れた家の柱や、
 梁などを取り片付けて、其處に矢張り半永久的な
 小屋を建てるのであった。・・・・

 今度の大震災後の農村のバラックは、大抵斯んな風にして、
 職人入らずに出来上がったものが多い。  」( p316~317 )


この情景と比較したいので、「大正大震災の回顧と其の復興」上巻にあって
流言蜚語がどのような不安と混乱とを醸成するのかの一例を引用してみます。

「暴徒襲来の蜚報」と小見出しがあります。
『9月3日か4日の事か』とあります。

 50歳前後と覚しき土地の者が、
食料品奪取の目的で、暴民が大挙して襲来しつつあり、
『 私は町内各自の警戒を促し来れり 』と訴え出た。

「 変事来の通告を受けたる住民は、
  悉く燈火を消し戸締を厳重にし、
  婦女子子供老人を避難せしめた。

  避難所と目ざされたるは事務所の裏手の旧郡役所跡であった。

  各自は風呂敷包を背負ひ、
  子供の手を引き、毛布をかつぎ、千態萬様、
  ぞろぞろぞろと我等の事務所に来りて保護を哀願する、

  暴動などあるべき筈なきを諭せども、
  蜚語におびえたる町民、どうしても聞き入れない。
  詮方なく裏手に休憩せしめた。
  見る間に身動きも取れぬ満員振を示した。
  一同も不安の思をなし今に喊声でも挙るかと心配そのものであった。」
                   ( p894~895 )

これは、もし暴徒が食料品奪取に来る際に、すぐわかるよう
合図をつくって置いた事に起因した勘違いで

「 その襲来の合図・・即ち先刻乱打された警鐘がそれである 」

と、それを決めつけてしまった間違いによるものでした。
では、その警鐘の実際は、どうだったのか。

「先刻の警鐘は、館山町下町の火災の跡に残りたる余燼、
 風に煽られ燃え上りたる為なるも、すでに大事に至らず鎮火せり」

との館山方面よりの報告があった。

この回顧の文は、さいごに、地元の50歳前後の男のことを

「 然し流言蜚語盛にして人心恟々たる折柄、
  自警的に或種の合図をなすべき、約束をつくって置いた
  事に起因することであって、あながち咎むべきではなかろう。 
  ただ彼に今少し沈着と度胸が慾しかった。 」   (p896)


つぎから、その流言蜚語に立ち向かわなければならなくなった、
安房郡長大橋高四郎の行動を順番に追ってゆきたいと思います。


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『喜怒哀楽』のバランス

2024-03-23 | 安房
『安房震災誌』を開いているとエピソードが、
あらためて、気になる安房郡長の大橋高四郎。

そのエピソードを、ひろい読みしていると、
「喜怒哀楽」のバランスを思い浮かべます。

まずは、そのエピソードの一例を引用。

「 ・・・昼のうちは勿論、夜半になっても郡役所の
  仮事務所の中央の薄暗いところに、棒立になって
  顔の見さかへも付かぬまでに、汗とほこりにまみれて、
  白服の黒ろずんだのを着て、

  丁度叱るやうな、罵るやうな大声を挙げて、
  一瞬の休息もなく人を指揮してゐる小柄な男がある。

  『 あれは誰れだらう。 』と
  一般の通行人は可なりの問題となってゐたのであったが、
  聞いて見ると、あれは大橋郡長であったのだ。

  といふ噂が、其處にも此處にも拡がったさうである。
  郡長の着てゐた白服も確か鼠色以上になってゐたものと見える。

  総じて此の頃は、洗濯の自由もなければ、
  着換えのあられやうもなかった・・・・    」(p317~318)


ここに『 丁度叱るやうな、罵るやうな大声を挙げて、
     一瞬の休息もなく人を指揮してゐる小柄な男がある。』

とあるのでした。大声で叱るように何を語っていたのか?

昭和8年に発行された「大正大震災の回顧と其の復興」に
その大橋高四郎氏の回想が載せられており、
そこには、このような言葉がありました。

「・・俺のかうした覚悟と方針は、相当他の人の心にも影響したらしい。
 俺はいつも損害をかこつ人に

『 家や蔵が何だ、目の玉の黒いのが此の上のない仕合せじゃないか、
  泣言を云っては罰が当る。
  死んだ人や重傷を負ふた人に済まないじゃないか 』

 と怒鳴るのが常であった。

 郡役所の諸員は勿論、その他の官公衙、各団体の人々、
 郡有力者諸君も、全く自己を忘れて盡して下さった。
 郡民諸君もよく此の微力なる郡長を信じて協力して下さったことは、
 永く感銘して忘れられない所である。

 3日の夜、俺は部下に対して訓示した。

『 諸君は等しく罹災して居られる。
  然るにかうして不眠不休で、一身一家を顧みずして働かれることは、
  何とも同情に堪へないと共に、
  郡民の為に感謝して措かない所だ。

  社会公共の為に粉骨砕身することは
  人間の最も尊い所であり且つ男子の本懐である。
  
  どうか諸君、お互に時間も少い中だが、
  健康に注意し、協同一致で力一杯働いて呉れ、頼む 』

 との意であった。部下の人々の中には、
 おろおろと泣く人もあった。・・・・    」(p822~823 上巻)


もどって、『安房震災誌』のエピソードをもう一ヵ所引用。

「 感謝に就て一挿話がある。震後或る日の未明であった。

  郡長は何時ものやうに、中学校の裏門通りを郡役所に急いだ。
  途に一人の老翁が、郡長を見かけて

『 誰れの仕事か知れませんが、毎晩来てうちの芋畑を 
  すっかり荒して了ひました。どうかなりませんでせうか・ 』

  と訴へるのであった。すると、郡長は

『 折角の作物を盗まれるのは、洵に気の毒だが
  とらなければ今日此の頃、生きて行けぬ方の
  身にもなって御覧なさい、どんなに苦しいか分からない。

  殊にお前は、世間の多数が死んだり負傷したりした
  大震災の中に、無事なやうだ。並み大抵の時とは違ふから、
  辛棒して大目に見てやって呉れ! 』

 と頼むやうに諭してやったさうである。
 郡長の話を傾聴してゐた老翁は、郡長の言下に

『 ああ分りました、分りました。
  どうも済みませんでした。よろしうございます 』

 と幾たびか低頭して其處を去った。 ・・・・・    」
             ( p314~315 『安房震災誌』 )

はい。安房郡長による、青年団への感謝状に示された言葉もそうですが、
未曽有の震災を体験した時に、2日未明駆けつけた山間部からの援助隊を
受け入れた喜びも含めた安房郡長の『喜怒哀楽』の、そのバランスの振幅
を思うにつけ、私に思い浮かんでくる詩がありました。


      自分の感受性くらい   茨木のり子

   ぱさぱさに乾いてゆく心を
   ひとのせいにはするな
   みずから水やりを怠っておいて

   気難かしくなってきたのを
   友人のせいにはするな
   しなやかさを失ったのはどちらなのか

   苛立つのを
   近親のせいにはするな
   なにもかも下手だったのはわたくし

   初心消えかかるのを
   暮しのせいにはするな
   そもそもが ひよわな志にすぎなかった

   駄目なことの一切を
   時代のせいにはするな
   わずかに光る尊厳の放棄

   自分の感受性くらい
   自分で守れ
   ばかものよ


はい。この詩の最後の3行だけ引用すればよかったのでしょうが、
そう。このブログでは、詩の全文を引用しちゃいました。

この未曽有の被災の中で、郡長が叱り泣き喜ぶという喜怒哀楽の
そのバランスのエピソードを、引用しているのが『安房震災誌』。

はい。私は最初にこのエピソードを読んだときに、
どう咀嚼したらよいのかと、とまどったのですが、
今でしたら、きちんと整理できる気がしています。


   

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関東大震災と青年団。

2024-03-22 | 安房
『安房震災誌』の第4章は「青年団の活動其の他」。
そこのはじまりは、こうでした。

「 正しく云へば、『青年団』『在郷軍人分会』『消防組』は、
  各別個の団体であることは勿論であるが、

  実際に於ては、同一人にして、此等3団体、若くは2団体に
  属してゐるものが多数であるから、茲には単に
 『 青年団 』とい名称の下に、各町村に於ける此等の諸団体が
  悉く含んでゐるものとして、章を一つにし・・・   」(p283)

このように定義してから、この章がはじまっておりました。
今回気になったのはこの箇所でした。

「 要するに、地震のあの大仕事を、誰の手で斯くも取り片付けたか。
  といったならば、何人も青年団の力であった。
  と答ふる外に言葉があるまい。実に青年団の力であった。

  ところが青年団には、何の報酬も拂ってゐない。・・・・

  然るに報酬どころか、何人も当時にあって、
  渋茶一つすすめる余裕さへもなかったのである。それどころか、
  飯米持参で、而かも団員は自炊して、時を凌いだのであった。

  更らに茲に大書して感謝すべきは、
  当時は雨露を凌ぐべき場所とては、北條町では
  僅かに北條税務署とゴム工場、納涼博覧会跡の一部に過ぎなかった。

  そして税務署以外は、何れも土間である。
  折柄残暑で寒くこそはなかったが湿気と蚊軍の襲来には、
  安き眠も得られやうがなかった。

  加之ならず、何れも狭隘の上に、多人数である。
  分けて雨の晩などは雨漏で寝所がぬれて立ち明かしたこともあった。
   ・・・・・・・・・・        」 ( p285~286 )


こうして『 何の報酬も拂ってゐない 』という青年団に対して
大橋郡長の名を以て、感謝状が贈られ、奉仕的行為を拝謝した。
とあります。最後にその感謝状を引用しておきたいのですが、
これを載せたあとに、編纂者はこう指摘されておりました。

『 青年団軍人分会の活動振りは、文中によく表現されてゐる。
  敢て付加修飾を要しない。当時諸団体の活動は
  実に郡民の総てが感謝するところである。  』 (p291)

はい。さいごに、安房郡長大橋高四郎の名の入った感謝状の全文を引用。

     
    感謝状

 前古未曾有の震災に当り本郡の被害は実に其極に達し
 土地の隆起陥没相次ぎ家屋の倒潰せるもの算なく
 
 死傷者累々たるも之を處置するに途なく
 災民餓を訴ふるも給するに食なく
 傷者苦痛に泣くも医薬給する能はずして
 惨状見るに忍びざるものありき加ふるに
 流言蜚語盛に伝はり人心の動揺底止する所を知らざるの時

 団員克く協力一致自己の被害を顧みずして
 或は死傷者の運搬に
 或は倒潰家屋の取片付に
 或は慰問品食料品衛生材料等の荷上げ配給に
 其他交通障害物排除又は伝令に従事せる等
 
 其の熱烈にして敏速なる奉仕的活動は洵に克く
 青年団(軍人分会)の精神を顕著に発揮せるものにして、

 本郡に於ける災後整理並に救護事業遂行上
 貢献せる所尠からず茲に謹んで感謝の意を表す。

    大正13年1月26日
        千葉県安房郡長正六位勲六等  大橋高四郎   


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