エッセイ的な何か

エッセイ的な「何か」です。
エッセイなのかコラムなのかダイアリーなのか自分でもよく分かりませんが「何か」です(笑)

痒いという感覚

2008-04-07 | てきとうなもの・雑記
何の花粉に反応してるのか、自分でもよく分からないけど、季節の変わり目になると間違いなくやってくる花粉症。
今、まさに症状がピークを迎えています。
くしゃみから始まって、鼻水、そして目の痒み。

ハウスダストアレルギーだとか、花粉症以外かもしれない可能性もありますが、ある、決まった季節だけ症状が出るところをみると、やっぱり何かしらかの花粉に反応しているのだろうと思ってます。
時期が過ぎると勝手に治りますし。

今は、特に目の痒みが酷くて、目の周りを掻けば掻いたでより酷くなるし・・・
で、ふと思ったこと。この「痒み」という感覚について。

かなり昔に、誰かがどっかで似たような言ってたのを聞いたこともあるような気もするんですが、痒みという感覚は一体、何の為にあるのかなあ。と言うこと。

様々な感覚は、人間の体を正常な状態に維持するために必要だから備わっている。と聞いたことがあります。
例えば「痛み」は、確かに嫌な感覚だし、出来れば知覚したくない感覚だけど、逆にその部分に異常があるというセンサーの役割を果たしていて、気付かなければ、さらにヤバい事になる可能性が大きいし、痛いからこそ速く治そうとする。
そういう意味では、十分に必要性を理解できるんだけど・・だけど、「痒い」事の必要性は、やっぱりイマイチよく分からない。
異常があると言うことを知らせるセンサーの役割という部分は分からなくも無いんだけど、掻くと一時的に痒みが引いて逆に「気持ちいい」とさえ感じる。この感覚は寧ろ不要というか、掻けば掻くほど患部は悪化するわけで・・・それを誘発するこの感覚は何なんだろうなあ?と思いました。
自分自身に対して「おまえは治させたいんじゃないのか?さらに悪化させようと誘ってどうする?」と突っ込みを入れてやりたい気分です。
センサーの役割だけなら、「なんか違和感がある」程度で知らせてくれればいいのになあ・・・と思うんですが、不便なもんですね。

まあ、医学的に見れば、これにも何かちゃんとした理由、必要性なんかもあるんでしょうけど、その辺に関しては素人の俺からしてみれば、厄介意外なにものでも無いなあという感覚です。
速く治って欲しい。

賑やかな動きはあったけど、混乱は起きてない

2008-04-05 | 世の中の出来事
朝NHKのニュースを見ていて思ったこと。
そして「報道」に対してムカついたこと。

ガソリンの暫定税率の期限が切れて、全国各地のガソリンスタンドで値下げ競争が激化しているという内容のニュースでした。
それぞれのガソリンスタンドでは、ライバルの他店の動向を見て、値段を下げたり、下げすぎたのを戻してみたり、色々と忙しそうにしている様子を取材していました。
そして、ガソリンが値下げしたとあって、客足がそれまでよりも多くなっている事等を報道していましたが、安くなったのだから買い求める人が増えるのは、まあ当たり前の事だと思います。
そして、価格競争・・・これは、別に暫定税率の関係における、今のガソリンスタンドに限った事じゃなくて、例えば家電量販店等のライバル店同士の価格競争などを見れば、日常茶飯事で行われている事だと思います。
独占禁止法等に掛かる、幾分かの規制はありますが、ライバル店より売り上げを上げたいと思うならば、価格競争を行うことは当たり前の行為と言えると思います。

だから、そういうガソリンスタンド同士の価格競争を、そのまま「こんな感じになってます」って報道するならば、別に特にムカつくことも無かったのですが、今日の朝のニュースは、一通りその様子を報道した後画面が切り替わり、福田首相への向けた質問のシーンになり、こんなやりとりが

NHKリポーター「この混乱についてどう思われますか?」
福田首相「混乱がありましたか?」

・・・そう、俺もまさに「どこに混乱があるんだ?勝手に混乱があったなんて決めつけているんじゃねーよ」と。
すでに述べたとおり、このくらいの価格競争で「混乱」なんて言われたら、家電量販店等の他の業種で日常茶飯事でおこわなれている価格競争はなんだと言うんだ?
それに、安くなってガソリンスタンドが混雑するなら、消費者は喜びこそすれ、「混乱だ」と騒がないでしょう。
実際に質問を受けた消費者も「安くなって嬉しい」ようなことを言っていました。

そして、この質問の最も気に入らない点は

誰も「混乱が起こって大変だ」「大パニックだ」と一言も言っていないのに、最初から混乱があったと決めつけて、そういう前提で話を進めたがっている所

です。

まさにこれこそ情報操作であって、いかにも暫定税率の期限が切れた事が社会に悪影響を与えているような言い方。そこにムカつきました。
無いことを有るように、こうやって自分たちで勝手に事実を作り上げてしまうんですよね。
まあ、今に始まった事じゃないし、NHKに限った事じゃありませんけど、こういうのがあるからマスコミの言うことをイマイチ信じられなくなっちゃうんですよね。
自分たちの報道がどれだけ多大な影響力を持っているのかを、もっと重く受けとめて慎重に事実を報道してもらいたいもんだなあ・・と思いました。

「非モテ」に関する考察

2008-04-04 | 恋愛関連

最近ネットサーフィンをしていて、特にブログでよく耳(目?)にする言葉に「非モテ」というのがあります。
とは言っても、ブロガーの皆さんにとはとっくの昔から耳になじんだ言葉なのかもしれませんが、俺にとっては結構斬新な言葉というか発想というか、そういう部類に入りまして、ちょっと興味をそそられました。

4月2日のDONTAKTさんでも、「非モテ」関連で

非モテ論議が失敗するありがちなパターン(★ 電脳ポトラッチ)

なんて記事がありましたし、同じくDONTAKTさんの3月31日の紹介に

モテと非モテの間は何処に消えた?(lifecrack - Blog)

というような記事もありました。

これだけに限らず、これまでにはDONTAKTさんでも他にこの「非モテ」関連の記事は紹介されて来たと思いますし、DONTAKT関連に限らずとも、個人ブログ等でこの「非モテ」を題材にされている方も多いんじゃないかと思います。

単純に「非モテ」と聞いて

『要するに「モテる人」の反対、対局、対。ってこと?』

と想像しました。

非モテ論議が失敗するありがちなパターン」を読んでも、やっぱり「非モテ」ってどうやらそのような意味合いで使われてましたし。
でも、「非モテ」=「モテる人の反対」だとすると、当然に
モテと非モテの間は何処に消えた?」の記事で述べられてあるような疑問がわいてきます。
『「モテる男」ってのも、少ないぞ』という疑問。
彼女が居る人間は、必ずしも「モテる」ワケではないし・・・ってことで、「lifecrack - Blog」管理者さんの「Shim」さんは「モテの定義がそもそもはっきりしない」事についても言及されていました。

この流れはごく自然だと思いますし、俺も同じような流れで、同じような疑問を感じました。
で、俺はここで、「モテの定義」まで話が及んだので、もう一歩「いや、まてよ、念のため『非モテ』そのものの定義も確認しておいた方が良いかも」と思ったので、念のため調べてみたんですが、なんと・・・調べて良かったぁ(笑)

非モテとは-はてなダイアリー

このような結果でした。
確かに、「モテないこと」であってそれはそれで正解なのですが、それだけじゃなくて、次のような説明が添えられていました

・『「非モテ」における「モテ」とは複数の異性から恋愛対象として求められることではなく、もっと原始的な、他者(異性だけではなく)から求められるという意味である。他者による承認が得られないという悩みなのだ。』

・『言葉の発祥としては、1990年代後半の個人サイト界隈において、男性管理人自虐的に「非モテ」と言い始めたのがきっかけと見られる。非モテ系日記 Web Ringはその頃できたもの。この頃は「モテ」が対義語であったといえる。』

・『2004年の『電車男』のヒットにより、「脱オタ」がクローズアップされ、2005年の『電波男』(本田透著)の登場によって、「恋愛至上主義」「恋愛資本主義」への対抗が強く認識され、そういった認識を持つ人をまとめる概念になりつつある。
このように、「非モテ」は多様な定義を持つ言葉となり、複雑になっている。~』

と、言うことで必ずしも「モテる人」の対義語では無いらしいです。
元々はそう言った意味合いだったものが、色々と変化して今の「非モテ」に至る。
どうやら、徹底的に異性と恋愛関係で縁のない人を指して「非モテ」と呼んでいる模様です。
だから逆を言えば、「非モテじゃない」からと言って「モテる」ワケでもないと言うことですね。
だとしたら「モテと非モテの間は何処に消えた?」で提示された疑問の「中間層」は矛盾無く存在してるって事ですね。
下手に「モテ」という言葉が入っているから混乱しちゃったって事ですね。これは。

ただ、この「非モテ」と「モテじゃないけど非モテでもない中間層」の境目はかなり微妙そうです。
分かりやすい中間層のパターンは「モテてるワケじゃないけど特定の彼女は居る」といやつでしょう。この中間層のもっとも分かりやすいパターン。
で、彼女が居ない人で「非モテ」か「中間層」かという、ここの境界が難しそうです。

でもまあ、「これを分けたから、だから何?」って話ではありますけど(笑)、「非モテ」の反対は必ずしも「モテる」って事ではないので、自分で自分を「どうせ非モテ」だしと自虐しちゃったら損かな?とも思いました。
「俺は確かにモテ無いし、彼女も今はいないけど、非モテでも無い中間層だ」って主張してみても良いのかな?と。
「でも、それで何か得することでもあるの?」と問われたら・・まあ「自虐的でいじけてるよりは、前向きな方が異性に対しても好感度UPする位の効果はありかも」という解答でしょうか。

と、まあ色々と思ったことを書いてみましたが、今回は「非モテ」という言葉にちょっとした興味を疑問を持ったので、「どうやったらモテるか?」とかそういう方面よりも、純粋に「非モテ」という言葉そのものに対して、自分なりに考察してみたことを書いてみました。


敬語が嫌ならば

2008-04-03 | 「生き方」「在り方」みたいなもの
昨日の「建て前」って「害のない嘘」じゃないかな?の記事を書いている時に思ったこと。

敬語を毛嫌いする人というのは確かにいます。
俺の主観的、感覚的なものだけど、若年層に多いように思われます。そして、あながち外れてもいないんじゃないかとは思いますけど。
だから、そう言う人達も年を重ねて様々な経験を積んでいく内に、ひょっとしたら敬語の必要性なんかをこれから理解していく場合もあるかもしれませんし、一貫して「敬語なんていらねぇ」って人もいるかもしれません。

そして、そう言う人達は、ほぼ間違いなく他者へ話すときに敬語は使用しません。
「必要ないから使わない」というのは、一見して「そうか」とも思えなくもないですが、よくよく考えてみると言葉というのは相互交通です。こっちから相手へ一方的に話すばかりじゃなくて、話す人がいれば聞いてくれる人がいるわけです。
話す側が「敬語は必要ない」とは思っても、話される側・聞く側が常にそうとは限りません。
そうやって考えてみると、「敬語は必要ない」と主張するならば、それは誰か他人に話す時では無くて、まずは、自分が他から話しかけられるときに主張すべきかな?と思ったりもしました。
これは俺の過去記事

果たして、同じ場面の別な当事者の立場になったとしても、同じ発言が出来るか?

とも、若干リンクする内容です。

「敬語は必要ない」と主張する人は、まず自分が相手に話す所からそれをスタートさせています。
俺はそれを見ると「おいおい、ちょっと待て!違うんじゃないか?」と思うんです。
そう思う(敬語は必要ない)のであれば、なおさら、まず自分はとりあえず必要ないとは思っても目上の人・先輩や上司等には敬語を使う。そして、その上で後輩や部下などに対しては「俺には敬語はいらない。そんなもの必要ない」と言うべきかな?と。
何というか、「目上の人・先輩や上司等には敬語を使うのがデフォルトである」というのが世間一般の認識であると思います。
自分の所から、その流れを断ち切りたいのならば、

まずは自分が敬語を「使う」のをやめるのではなくて、自分が敬語を「使われる」のをやめる所から始めるべきなのではないか?

と思うんです。
他へ意見(敬語はいらねぇという意見)を通したいなら、まずは自分自身からと言うか。
そして俺は、そういう在り方が格好いいなあと思います。
とは言っても、俺自身は敬語は普通に使用しますし、そもそも必要だと思ってますけれどね。


補足
ちなみに、前回の「建て前」って「害のない嘘」じゃないかな?の時に、紹介させてもらった
[非技術的雑文]匿名性をやめるために、敬語を廃止しよう!(疲労コンパイル)
の管理者tencubeさんの事を言っているわけではありませんよ。
記事の題名が「敬語を廃止しよう」となってますけど、記事内容を読むとその論点が、今回俺が主張しているのとは違う意味合いからの主張だと分かりますので。
前回引き合いに出させてもらった手前、ここで補足させてもらいました。

「建て前」って「害のない嘘」じゃないかな?

2008-04-02 | ちょっと考えた事
昨日4月1日はエイプリル・フールと言うことで、俺の周囲のリアルな実生活では全くと言って良いほど無関係なイベントでしたが、ネット上では様々な形で盛り上がっていた(所もあった。個人ブログだとか)みたいですね。

そもそものエイプリル・フールについて、ウィキペディアで調べてみると

エイプリル・フールWikipedia

要するに、「害のない嘘をついてもよい」日と言うことらしいですね。
確かに4月1日であろうと、詐欺罪は詐欺罪に問われるだろうし、やっぱり人に迷惑を掛けちゃいけないってのは基本だと思います。

で、その「害のない嘘」と言うのをちょっと考えて「本音と建て前」ってのに考えが及びました。
それに関連して、以前その類の題材をテーマにした記事をDONTAKTで見たなあと思って、ちょっと探してみると、見つかりました。

[非技術的雑文]匿名性をやめるために、敬語を廃止しよう!(疲労コンパイル)

と言う記事。

これを読んで、ちょっと「本音と建て前」というものについて考えました。
ただ、この記事は単純に『「本音と建て前」の「本音」を大事にしようぜ。「建て前」はいけ好かない」』と言ってるだけではなくて、それともまた違った観点からも考察されてますので、単純に「この記事に対する俺の考え・意見」と言うわけにもいきません。
なので、あくまでこの記事は俺が今回、以下に考える事柄の「切っ掛けとなった記事」と言えますし、そういう事だというのをここで最初にお断りしておきます。
「疲労コンパイル」ブログの管理者さんとしても、自分の意図しない部分で変な方向から意見や反論をされても困ると思いますしね。

で、今回取り上げたいのは「本音と建て前」について、「建て前」なんて気持ちの籠もってない物、本心とは違う上辺だけの美辞麗句や敬語なんかはむしろ邪魔で不要か?というテーマをここで自分で作成。それについて考えてみました。

そして俺は、たとえ本心が籠もってなくても、礼儀として「建て前」も「敬語」もやっぱり必要だろうという結果に至りました。
「疲労コンパイル」ブログの管理者さんは、例えとして、バイト言葉の
「本日はご来店まことにありがとうございます」
「お次にお待ちの方、こちらへどうぞ」
や、企業の謝罪での
「…日頃からご支援ご愛顧を賜っておりますお客様、株主様、関係者様に多大なるご迷惑とご心配をおかけいたしまして、つつしんで深くお詫び申しあげます。今回の事件を厳粛に受け止め、社員一丸となって信頼の回復に勤め邁進致します所在でございます」云々
と言う言葉を引き合いに出して、「はたしてこれらに誠意を感じられるか?」と問いかけていらっしゃいましたから、この事例について俺も自分なりに感じたことを。

これらの言葉はしらじらしくて誠意なんて感じないことが多いですし、「表面的に謝ってるだけだろ?どうせ」と俺も思うことは多いです。

でも、確かにその通りなのですが、だからといってコンビニ店に入っても挨拶の一つも無く、無愛想にしている店員と「ご来店ありがとうございます」と笑顔で迎えてくれる店員。いざその場に自分が客として居た場合には、やっぱり後者の方が嬉しいです。単純に。
例えそれが、あくまで仕事上のバイト言葉・接客であって本心に誠意は無かったとしても。
露骨に無視というか、「あくまで仕事でやってるんだ」って態度を出されると、それがその人の本心で正直な態度であったとしても、俺は嫌な気分ですね。そういう従業員の態度は。
やっぱり客と従業員という関係からすれば、当然にあるべき礼儀というか、そういうものがあると思うんですよね。
別に上に見られたいとか、「俺を敬え」とかそういうのじゃなくて、単純に客として、どういう態度で接してもらうと嬉しいかという、それだけのことですが。

店員に「ありがとう」と言う人が大好き。おかしいとは思わない。。。
(↑俺の過去記事です。これも少しは関連ありな内容かな?と思ったので一応)

そして、企業の謝罪会見もそう。
確かに上辺だけの世間体を気にしたものかもしれないし、本心では反省よりも「どうやって乗り切ろう」とか、そう言うことしか考えてないのかもしれません。
でもこれも、だからと言って、謝罪すらしないとか、開き直られるのに比べれば、テンプレート的ではあっても謝罪する姿勢を示すだけでも、俺はまだマシな方だと思います。

確かに、本音を隠して全く心にも無いことを言われるとなると、良い気はしません。
それは、確かにその通りなんです。

でも、だからといって、なんでもかんでも本音で言えば良いかというと、それも時と場合と状況(TPO)ってものがあるかなぁ?と思うんですよね。
「何でも後腐れ無く、本音で言い合える仲」というのは確かに理想だけど、それはそれを言い合えるだけの仲に発展したからこそ出来る部分もあるし、まだ知り合って間もない人や、知り合ったばっかりの人、取引先の人とか、従業員と客とか、礼儀として人間関係を円滑に進める為には本音ばかりではなくて、やっぱり建て前や敬語なんてものも必要だろうとは思います。
で、これこそエイプリルフールに限ったことじゃないけど、「ついて良い嘘」「害の無い嘘」なんじゃないかなあ?とか思ったりしました。

あ、でも最初から意見交換会や会議などの「議論」をする場だというのが決まっている状況下、本音を言い合うことが本来の趣旨であるという場に限定すると、建て前や敬語は邪魔になるのかもしれませんね、確かに。

喫茶店やBARに求めるもの

2008-04-01 | てきとうなもの・雑記

部屋にいて、ケニアAAというコーヒーを飲んでいて、ふと思い付いた事。

「コーヒー豆の銘柄まで拘っている喫茶店ってなかなか無いなあ」と言う事。
さらに、似たようにウイスキーの銘柄まで拘ったBARってのもあまり無いなあ、とも思いました。
コーヒーやウイスキーに限らず、紅茶や緑茶、ラムやジン、ウォッカ等のスピリッツ等においても同様です。

俺が住んでいる青森が単に田舎都市だというだけかもしれませんし、東京等では専門的な喫茶店やらBARが沢山あるのかもしれませんが、青森県意外で生活をしたことがないので、青森在住という前提で書いています。
青森と同規模の都市ならば当てはまるんじゃないかなあ・・と勝手に思ってはいますけど(笑)

俺は個人的に、拘って欲しいです。コーヒーにしろ、ウィスキーにしろ。(他にもありますが、とりあえず面倒なのでこの2つを代表として話を進めます)
別に「通」を気取っているワケではないんです。「通」を語れるほどグルメで舌が肥えているワケではありません。
ただ、好きなんです。色んな豆のコーヒーを飲んだり、ウィスキーを飲んだりするのが。

「やっぱりブルーマウンテンじゃなきゃ!」とか言いたいのではなくて、ブルマンにはブルマンの個性があると思いますし、モカにはモカの、キリマンジャロにはキリマンジャロの、ケニアにはケニア豆のそれぞれの個性があって、そういう違いに触れる楽しみというのも、コーヒーを飲む楽しみだと思うんです。それはウィスキーでも同じ。
どうせ喫茶店で金払ってコーヒー飲むなら、そういうのも楽しみたいじゃないですか。

コーヒーって豆によって味が異なりますし、ウィスキーもそう、シングルモルトウィスキーなんかは実に個性豊かですよね。
で、こうやって書くとコーヒーはストレート豆、ウィスキーはシングルモルト限定のような感じになっちゃいますけど、ブレンドでも一緒の事が言えると思います。
ブレンドになると、そもそもブレンドしてるわけだから、逆にもっと深いものになりそうですね。豆の配合の割合とかそこまで拘って表示するコーヒーを出す喫茶店なんてあれば、すごく楽しそうです。
ブレンドウィスキーなどでも、何気なくただ飲むだけじゃなくて、どういう原酒を組み合わせているのかとかを知ると、深い世界だな~とか思いますし、でもそう言う部分も楽しみの一つであると思います。

豆単位でコーヒーを出してくれる喫茶店、銘柄別にウィスキーを揃えているBARも、もちろんあります。青森にも。
でも、数はかなり限られていますし、数えるほどしかありませんね。
もちろん、青森中の全てのお店を知ってるワケじゃありませんけど、今までの経験上コーヒーに関しては、入れ方の違い(エスプレッソとか、カフェラテとか)で別れているだけで、豆にまで言及している喫茶店はほとんど無かったですね。単に「ブレンドコーヒー」とか。
豆別であったとしても「モカ、キリマンジャロ」くらいあれば良い方でしょうか。
BARにしても、シングルモルト・ブレンド併せて10種類も揃えてあれば、かなり珍しい方だと思います。

もちろん、実際に売る側としてみれば、コーヒーにしたってウィスキーにしたって、数多く揃えなければならないのと、別に1種類や2種類程度でも商売として成り立つというのであれば、後者の方が色々と面倒も少ないし金銭的に考えても良いんでしょうし、それに俺のように思ってる客ばかりでは無いでしょうしね。というか、むしろ少数でしょうけど。

ただ、個人的にはやっぱりコーヒーやウィスキーなんて飲み物は、豆や銘柄で様々な異なる個性がある飲み物で、そういうのを選ぶ楽しさ、様々な個性に触れる楽しさ、出会う楽しさ、そういう楽しみ方も出来る飲み物なのに、そこを生かし切れている店が少ないのが残念だと、そう思いました。
あくまで青森レベルの都市での話ではありますけどね。