エッセイ的な何か

エッセイ的な「何か」です。
エッセイなのかコラムなのかダイアリーなのか自分でもよく分かりませんが「何か」です(笑)

別に何が好きでも良いんだけどさ・・・

2008-07-28 | 「生き方」「在り方」みたいなもの

gooトレンドランキング、本日2位の話題。

「苦くて、おいしくない…」 ビール飲めない若者が急増中 (痛いニュース
livedoor ニュース - ビール飲めない若者が急増中

という事でした。

タイトル通り、別に誰が何を好きでも、俺は別にそんなのどうだって良いだろうと思うんだけど、この記事内やコメントのやりとりはどうにも不毛だなあ・・・と感じました。

元記事内の
「ビール会社に入社しておきながら、シレッと“ビールは飲めません”という若手社員がけっこういますよ。なんで入社を志望したんだか」
とか
「かつては飲めなくても最初の一杯はビールという暗黙の了解があった。それが社会人のたしなみではなかったのか。」
とか
「どんだけひ弱なんだ! 席について全員が“とりあえずビール”という文化は廃れつつある。」
とか。

「ひ弱」って・・・別にビール飲むかどうかと強い弱いはまた別の話だと思いますけど。

この他にも、ビール派、非ビール派のコメントの応酬も、もの凄く不毛な言い争いが多かったです。
「俺はビールが好きだ」「俺は嫌い」「苦いのが良い」「苦いのは不味い」
この程度の自分の意見を言うだけで良いと思うんですよ。
この手の好き嫌いに関しては。
それが「ビールが美味いという奴は味覚障害」だとか、「ビール嫌いな奴はおこちゃま」だとか。
単なる、自分本位の罵り合いでした。

別に飲みたい人だけ飲めば良いんだろうし、また「とりビー」だとか「イッキ」だとか、そういうのを強制する飲み方もバカじゃないか?と思う。
そもそも、元記事の

 席について全員が“とりあえずビール”という文化は廃れつつある

確かに、そういう風潮はあったけど、それが「=正義」でも「=善」でも「=正しい」わけでも無いんですよ。ただ単純にそういう慣習があったというだけで、別に意固地になって強制してまで守るようなもんでもないでしょ?これ。
嫌な人に無理矢理押しつけるのは良くないですよね。意見でも慣習でもビールでも。

今回のこの記事と、コメントのやりとりを見てて一番に思ったこと

こういうのは単純に自分がビールに対してそういうイメージを持っているか、好きか嫌いかだけ書けばいいと思う。反対意見の人を罵ったり、意見を押しつけるのは不毛な言い争いでしかないだろう?

と言うことです。
これはこのビール論争に限った事じゃないですけどね。

ちなみに、俺もつい最近

食における格好良さというものについて

という記事を書きましたが、これは読んでもらうと分かるように個人的に「格好いいと思う」と言うことを書いてます。
男が甘いものは「違和感がある」とは書きましたけど、それは俺がそう感じると言うこと。決してそれが悪いとは書いてませんし、そこは文中でも特に誤解の無いように強調したつもりです。
ビールが嫌いな人は嫌いでも良いんですよ。嫌いって書いても良いと思うし、不味ければ素直に不味いというのも意見だと思うんです。ただ、すでに書きましたけど、それをもって、「ビールが好きな人は味覚障害だ」とか、逆にビールを嫌いだという人を「おこちゃまだ」とか「成長してない」だとか、そこに言及しても無意味だと思いますし、端から見てても良い気分はしないし、

そんな下らない言い争いやめようぜ。

って思うし、

別に何を好きでも良いじゃん?別に

と思います。

ちなみに、俺はビール大好きです。
今の時期キンキンに冷えたビールは本当に美味いなあって感じます。
さらに、飲み会も大好きだし、家で飲むより居酒屋で飲む方が断然美味しく感じるので、飲みの誘いがあれば喜んで出て行きます。
それはそれで、俺の好みの問題ですね。


3度目までは無条件で信用してみる

2008-07-25 | 「生き方」「在り方」みたいなもの

最近、ちょっと忙しくてなかなかブログの更新まで手が回ってない状況でしたが、その仕事面で最近ちょっと考えていることを書いてみます。
過去記事の

組織のトップに立つと言うことは

と、直接に被る部分は無いと思うけど、ちょっとは内容的にリンクする部分もあるかもしれません。

俺はまだ部下を何人も抱えるような役職に就いているワケでもなければ、部長だの課長だのと言った肩書きを持っているワケでもありません。
それでも、社会人になって数年にもなると、後輩は出来るし時と場合によっては自分が場の責任者として行動をしなければならない場面だってあります。
そういう、自分が誰かの上に立って(あくまで仕事をする上で職務上上の立場に立つというだけの話ですが)行動する場合の心構えというか、こうした方が良いというか・・そう言うことに関してなんですけど、ただ最近流行り(?)の
「○○するための、たった○つだけの方法」
だとかみたいな、あんな大層な事を言うつもりはありません。そういう趣旨でもありません。「そうするべきだ」という意見を押しつけるつもりも全くありませんし、俺が個人的に「こうした方が良いんじゃないかな?」と思うことと、そして実践していることを書いてみる・・・という、それだけの記事です。

で、本題。
まあタイトルに集約されるワケですけど、
後輩(あるいは部下)の意見を、とりあえずは3度目までは無条件で信用してみてはどうだろうか?
と、言うことです。
もちろん、進めている仕事の規模や重要性、重大性等を勘案して、何が何でもというわけではありませんが、重要度という観点から見たら「中」レベルまでの仕事に置いての場合です。

と、言うのも自分の今の上司の一人に「部下の意見を全く聞かない」というのが居ます。
この上司、別に「お前らの意見は聞いてない。黙って俺の言うとおりにしてれば良いんだ!」というのとの違うんです。そういうワンマンタイプじゃなくて、むしろその正反対のような性格の人なんですけど・・・なんて言うか、部下を信用していないと言うか。
こういう場合はどうしたら良いだろう?あれはどうだっただろうか?なんて話になった時に俺を始め、他の人などが意見を出しても常に「う~ん。だけど・・・」みたいな感じで、そして最終的には「でもやっぱり、もう一回確認取ってみてくれない?」とか「やっぱりこれは、これを試してみてからにしたいんだけど」という感じで、結局最終的には自分の主張を押し通すというか、部下の意見を聞き入れる余地がないんです。
もちろん、例えば俺の方もあやふやな状態だったりして「多分~だったと思います」みたいな状態であれば、慎重を期して確認作業をしたり、色々と他の方法も試してみてからというのも重要でしょうが、確かにすでに確認が取れていて「いや、これは必要ないです」「大丈夫です」と進言しても聞き入れて貰えないんですよね。
そういうのって、逆に作業能率を下げているだけで、無駄な労力ばかり使っている気がしてならない・・・・。
で、多分その上司も悪気があってやってるワケじゃなくて、ただ単純に自信が無いというか、几帳面すぎるというか、自分で確認しないと、そして自分でやらないと気が済まないタイプらしく、そういう性格から着ているものだと思われます。
ただ、俺を始め他の人達との間でも、そういう不毛な摩擦がいつも繰り返されているものだから、あちこちから「いい加減にしろよ」という、その上司に対する不満の声が挙がってたりします。
そして、その上司の仕事は着実なのかもしれないけどやっぱり、決定的に致命的に遅いんです。で、遅い割に仕事の量ばかりは多い。いや、無駄な仕事が多いから遅くなるんですけどね。

と、こうやって書けばただの俺の近況の上司に対する愚痴になっちゃいますけど、言いたいことを言うための大事な前提事項なので敢えて書かせてもらいました。
こういうことから、最近思うのは上に立つものとして、後輩や部下を使う上で大事なのはやっぱり信頼関係だと思うんです。お互いの間に信頼関係が無ければ、そのチームは上手く回らないと。
で、その為に重要なことは・・・・ってところで先ほども一回書いた
後輩(あるいは部下)の意見を、とりあえずは3度目までは無条件で信用してみてはどうだろうか?
って事じゃないかなあと。
3度ってのは、俺なりの個人的な基準だけど、まあ人間誰しも間違いや失敗はあります。一度ミスをしただけでもう信用出来ないって言うんじゃ、その人の人間としての器としてあまりにもちっさい感じがしますよね。
「2度目まではまあ許そう」でも良いかもしれません。まあそこら辺はその人のさじ加減ですけど、とりあえず部下の言うことを最初は信用してみる。無条件で。3度目のミスをするまでは。
積極的に前向きな姿勢で一生懸命やった結果のミスを、誰がそこまで非難できようか?って話ですけど、信用した結果、そう言うちょっとしたミスがあったとしても、そこはみんなでカバーしてやればいい話じゃないかと。
で、さすがに信用したけど3度もミスがあったとなれば、次からは無条件で信用されなくなったとしてもそれはミスした当人だって納得出来ることだろうし、逆に信用を取り戻そうという気になるんじゃないかなぁ?とか。
これが、最初から間違ってもいないのに全く信用されてないとすると、人間ですから良い気分になるはずは無いですよね。

なんというか、確かに仕事は完璧にこなすことが求められるし、甘くも無いものだけど、でも、最初から少しのミスまでも怖がって、重箱の隅を突くような感じで、部下や後輩の言うことも信用しない・・・・で、結果チーム内の雰囲気も悪くなって、人間関係もギクシャクして、で、結果として能率下げてたら元の木阿弥というか、結局マイナスの方が大きいんじゃないか?と思うんですよ。
だから、そりゃ最初の方で書いた「命運を賭けた一大プロジェクト!」なんて代物なら、最初から万全を期して、慎重に慎重を重ねたって当然でしょうけど、やっぱりね上の立場になって部下なり後輩なりの人を遣って仕事を進めていく場合は、まずは部下のことを無条件で信用するところから始めて見ても良いんじゃないかな・・・と。

俺が将来もっと偉くなったとしたら(なるかどうかは全くの未定だけど)そういう上司になろう・・・と、まあ今のその例の上司がある意味反面教師になって、そんなことを考えたりしてます。
これが正解かどうかは分かりません。「たった一つの冴えたやり方」なんてものとも全然違います。とんでもありません。
ただ、俺はそういうのが良いんじゃないか?と思うという、そう言うことでした。

それと
「よし、お前らのやった結果についての責任は全部俺がとる!お前らは変な事に気を遣わず、自分の思うように精一杯頑張ってみろ!」
なんて、言ってみたいもんです(笑)
そういう上司って憧れますね。いや、憧れだけで仕事は出来ないのは百も承知ですけどね。


自分に正直で良いと思う

2008-07-06 | 「生き方」「在り方」みたいなもの

仕事をするために生きているんじゃない。生きるために仕事をしている。

生きるために、ただ生きているのは死んでいるのと一緒。

何が大切か、何が幸せかの基準は人それぞれだけど、その人にとってこれが大切だというものを守る事、幸せだと思う事を追求していくことが生きていくことだと思っています。

(もちろん、その日を生きることすらままならないって場合だってあるだろうし、そういう人を生きるために生きることで精一杯かもしれない。だから生きることそれ自体に悩まずに済む生活を送っている人は(俺を含む)生きることそれ自体に悩まずに済むことをへの日頃からの感謝を忘れてはいけないとは思う。ただし、それは当然の大前提として今回は書いているので、この部分はあくまで補足までに。)

だから、自分の好きなことに正直に、楽しいと感じることやりたいと思うことはどんどんやっていきたいと思ってます。
「そんなの当たり前のこと」「やれば良いじゃん」と思われるかもしれないけど、実際は「おいおい、もういい加減いい歳なんだから」とか、歳を理由にしたり様々なもっともらしい言い訳を用意して、自分に自分で嘘を付いて我慢して生きている部分って多いと思うんです。
もちろん、それ以上に守る物があるんだって人もいれば、仕事が生きることと同義な位大事なんだって人もいるでしょう。それはそれで否定する部分ではないですが、それと同様に俺は俺で自分に正直に、満足のいく人生を進んでいきたいと思ってます。
結構、他人からは「自由に生きているよな~」「自分に正直すぎる」なんて言われたりするんですが、その度に思うこと、俺の持論。

年齢をいいわけになんてしたくない。子供の心を忘れない大人ってやつだよ!

ということかな?

そんなんでも良いですよね?
というか、今のところ変えるつもりはありませんけど。

もちろん、犯罪に至らない、他人に迷惑を掛けないというのは言うまでも無いことですが。


組織のトップに立つと言うことは

2008-06-26 | 「生き方」「在り方」みたいなもの

最近時事ネタが多いですが、今回も。

「丸明」吉田社長、飛騨牛偽装の指示認め謝罪(読売新聞)

このニュースで思ったことを。
それと、一応これも。

時事ネタをこのブログで取り扱うにあたっての前提事項

では本題に。

結局社長本人の指示によるものだったみたいですね。
『吉田社長は、偽装問題が発覚した直後の21日の記者会見で自らの関与を否定。農水省や県が23日から25日までに行った日本農林規格(JAS)法違反などの疑いによる立ち入り調査で、一転して偽装を認めた。』
とのことで「言い逃れが出来ない」状況になったから謝ったという事ですね。
最初のうちは
「私は知らない」「私は指示していない」「工場が独断で行った」「だから私には責任はない」
あの社長、息を巻いてこんな事を言ってましたよね。テレビで記者会見で言ってるのを俺も見ました。
まあ、「んなわけねーだろ」とは思って見てましたけどね。やっぱりでしたね。

さて、それよりも今回のこのニュースを見て思ったこと。
それは、例えば今回の件が本当に当初の社長の言うとおりに社長が全く知らないところで、現場の勝手な判断で行われていた・・・と仮定した場合の話なのですが、もしそうであったとしても「俺は知らない」「俺に責任はない」では通じないだろう?と言うことです。

ある組織のトップに立つと言うことは、その組織が行った活動の結果についての責任を負う立場にあるということです。それは、本人の望む望まざるなど個人の意志に関係なく組織が存在し、そのトップにいると言うことは、自動的にそうなります。
組織の活動に責任を持てないなら、そもそもそのトップに立つ資格はありません。当たり前の話です。
これは、別に経営者や社長等に限った事ではありませね。
部長であればその部の活動に対する責任が出てくるし、課長ならば課の、係長であれば係の活動の結果に対して責任を負わなければなりません。自分が直接に行った活動に限らず、部下の行った活動に関してもです。その為の長です。
その為に、上に立つ者には部下に対して指示・命令する権限があり、方針を決定する権限があり、そして高い給料をもらっているんです。ただ単に「俺は偉いんだ~!黙って俺の言うこと聞いてれば良いんだ!ガッハッハ~!!」ってやってれば良いんじゃありません。上に立つ者には上に立つ者としてのやらねばならないことがあって、責任を負うというのはその最も大きな部分でしょう。

これはなにも特別な事でも何でもなくて、今更こうして説明するようなことでもない当然の事なんですけど、だとすれば俺の言いたいこと分かりますよね。

今回のこの「丸明」の社長の、偽装発覚当時の答弁「私は知らない」「私に責任はない」・・・・いやいや。あんた社長だろ?と。
例え、本当に言うとおり社長が知らなかったとしても、どのみち「丸明」という組織が行った偽装という行為に関して、社長のあなたが責任持たなくてどうする。って話です。一番最初の容疑を否定している記者会見の段階から、ここの部分はずっと気になってはいたんですよね。
あのオッサンは、とてもじゃないけど「社長」なんて立場にあるべき人間じゃありませんよね。人として至らないというか、社長という器に無いというか。

肩書きの位が上がるということは、そう言うことです。
組織の上に立つと言うこと、人の上に立つと言うこと。単に「偉くなる」だけじゃありませんよ。あのオッサンは完全に誤解してるみたいでしたけど。
というか、結局本人の指示だったんですけどね。もうどうしようもない。


真面目君は実は面倒くさがりなのか?

2008-06-04 | 「生き方」「在り方」みたいなもの
自分の長所と短所を自分自身で挙げるというのは、なかなかに難しかったりするものですが、俺の場合は自分自身の長所は「真面目」だって所で、短所が「面倒くさがり」かなあと思ってます。
で、今回はそんな俺自身がターゲットです。
他の誰かの長所や短所をあれこれ言うよりも、自分自身についてあれこれ言う方が、何にも気兼ねする必要が無いし楽ですからね(笑)

で、本題に入る前に「真面目」の定義について。
短所の「面倒くさがり」ってのはそのままです。これは敢えて改めて定義づけする必要はないと思いますのでそのままにしますが、「真面目」に関する捉え方は人それぞれな部分もあると思うので、俺が今回用いた「真面目」について、ここでまず定義しておきたいと思います。
俺が自分の長所としてあげた「真面目」につては、この場合においては「約束事、決まり事を守る」という意味です。今回はそれだけの意味。
今回に限り、真面目とはそういう意味のみで用いていますので、その点をまず大前提として記事を読んで貰えれば幸いです。

で、その通りなんですが俺は基本的に約束事や決まり事は守るタイプです。
学校の校則から会社の社則、果ては法律に至るまで、世の中の全ての決まり事をガチガチに守るというワケでは無いですが、基本的には守る方向です。

何故かという理由は簡単「面倒だから」です。だから決まり事を守ります。

一瞬「?」って思いましたか?
普通面倒だと約束事や決まり事を破るんじゃないか?と思ったかもしれませんね。
でも、俺が思うにそれは全くの逆で、面倒だからこそ決まり事は守った方が良いんじゃないか?と思うんです。
と、言うのは、決まり事を破れば大体なにかしらのペナルティがあります。
一番分かり易いのは法律ですね。破れば罰則があります。
法律に違反して、捕まって裁判受けて、刑罰を受けて・・・・そんなのもの凄く、面倒くさいじゃないですか。いや、もう面倒なんてレベルじゃないですよね。
だったら、法律守って普通に生活してる方がナンボかましか。

法律に限った事じゃありません、学校の校則にしたって一緒。
例えば髪の色とか。元々「黒が好き」っていう好き嫌いの問題もあるんだけど、俺が高校の時は結構髪の色とかに厳しかったですね。学校は。
そう言うところで、わざと校則破って、それで教師に説教されたり、家に連絡されたり、何かしらのペナルティ受けたり・・・・そんなの、もの凄くめんどくさい。
これも、最初から普通に校則守ってる方がまだマシ。
遅刻だってそう、遅刻したことによって色々と面倒な場面になるくらいなら、普通に時間通り出てる方が逆に楽です。

校則や法律に限ったことではなくて、単純な友達との約束とかだって、破るとその後になんか嫌な雰囲気の空気になって、関係を改善するのに苦労するとかそういう面倒事が結局増えるだけだし、だったら最初から約束守ってた方がどれだけメリットがあるか分からない。
まあ、友情にメリットデメリットの話は持ち込みたくないけど、約束を破ることと守ることを敢えて天秤に載せると、やっぱり守った方が良いだろうと思われる。

具体的な損失を伴う物から、精神的なものまで、約束事・決まり事を破ると、そういう何かしらかの不利益・ペナルティは常について回るものです。
そして俺なんかは、そういうものを被る方がよっぽど面倒だなあと思うんです。
だったら、最初から約束守って普通に暮らしてる方が楽だし、面倒が少ないと。

だから、どっちかというと短所の「面倒くさがり」というのが先に立ってるのかもしれません。
だから、世の中の真面目君は実は結局、単なる面倒くさがりなんじゃないのか?とか、ちらっと思ったりもしたわけで・・・それとも、俺だけかもしれませんけど(笑)

で、この論法からだと、
「だったら、ペナルティが全くない決まり事なら破る?」
と言われると・・・・破りますね~。もう100%絶対破る(笑)
でも、「ペナルティが全く無い」という決まり事って殆ど無いですけどね。
特に友人との約束なんかは、それを破ることによる申し訳無さが強く乗っかかってきて、自分自身やりきれなくなる場合が多いので、これこそ優先的に守りたいと思ってたりしますけど。

でも、まあ理由が「面倒だ」であるにしろなんにしろ、約束事や決まり事を守るって事は決して悪い事じゃなくて、むしろ良いことなんだから、それでもOKですよね。結果的には(笑)

宗教を信じてますか?

2008-05-31 | 「生き方」「在り方」みたいなもの

gooトレンドランキング、本日の第3位から

宗教「信じない」7割、「魂は生まれ変わる」3割…読売調査(読売新聞) - Yahoo!ニュース 
“日本人” 宗教「信じない」7割、「魂は生まれ変わる」3割、「先祖を敬う気持ち持つ」9割…読売調査 

なんてのがありました。

「信じるか?」と言う問いで言うと、俺は信じません。
ついでに、「呪い」や「まじない(漢字だと「呪い」で一緒になってしまうため、ひらがな表記)」といった類のものも一切信じません。
と、言うのは歴史が証明してますからね。
神が存在して、頑張っている人、正直な人、真面目な人が救われて、悪人が裁かれるのだったら、世の中に「罪もない犠牲者」なんてものは存在しないでしょうし、働いても働いても報われないワーキングプアーなんて存在しないでしょう。
「呪い」なんかもそう。そんなものが存在したなら、歴史上の「暴君」と呼ばれた存在の独裁者などは真っ先に殺されたことでしょう。でも、彼らの最期を見ると大抵は自分自身の失策のせいによるものだったりしますね。
繰り返すと、だから「信じるか?」と問われると「俺は信じてない」と答えます。
魂?そんなものも、死んだら終わりです。無になる。それだけです。
意識、自我、心、精神、といったものは、脳が活動した結果もたらされているものに過ぎません。物理的な現象です。細かなシステムは解明されてはいませんが、例えばお酒を飲んでアルコールが入ると酩酊状態になったり、麻薬を使用した人が幻覚を見たり錯乱したり・・・実際にそういった物質的な外的要因に影響を受けると言うことは、物理的現象であることの何よりの証拠でしょう。

ただ、今回最も言いたいことは「宗教や呪いの類を否定したい」ということではありません。
単純にここまでは、俺は個人的に「信じるか?」と問われると信じないという話を書いただけです。

今回最も言いたいことをこれから書きます。前置きが長くてすいません。
俺は宗教等は信じはしません。信じませんが、怪しげな振興宗教団体はともかくとしても、仏教やキリスト教等などに見られる「教え」そのものは、人として有るべき姿を説いているし、とても良いことを言っていますので、尊ぶべきものであると思っています。
聖書なんて、本当に良いこと書いてますよ。
キリストなんてまさに「聖人」ですよ。キリスト教徒じゃありませんけど。
「なぜそれで赦せる!?」って言わざるを得ない場面がいくつもあります。
人として有るべき姿を宗教の教えに求める、というのは有りだと思います。そして、実は宗教の本質って神の存在を信じる信じないなんてレベルの所にあるのではなくて、神という架空の超越者を通じて、人としての理想の有るべき姿を求めようとする姿勢にあるんじゃないかな?なんて思ってます。

それと、宗教のもつもう一つの大きな意味は、人として逃れられない「死」というものに対する、心の安寧というか・・・上手く言えないんだけど、死の恐怖から逃れようとするため心の拠り所というか、そういう部分にあると思ってます。

それが俺の「宗教」というものに関する考えです。「俺の宗教観」というべきなのかな?そんな感じです。
最初の方で、神の存在とか思いっきり否定しましたが、宗教を信じる信じないもまた個人の自由。信じているという人を批判するつもりなんて毛頭ありません。ただ、俺は信じて無くて、その理由はこういうことだよ・・というのを書いただけです。


過去の行動へのけじめ

2008-05-27 | 「生き方」「在り方」みたいなもの

「そんなこと言ったって、人間ってのは成長もするし、変わっていくものだろう?前はそう言ったかもしれないけど、今は違うんだよ」
とか言って、以前自分で言ったてことと全く正反対の事をしている奴。
確かに人間ってのは変わっていく生き物ですし、成長というのもその変化の一つで大事な事だとは思います。
でも、なんだろう?なんでこんなに、奴はむかつくんだろう・・・・

で、ちょっと考えてみました。
一応自分の中で出た結論は

物事をリスタートする場合は、それまでの事にきちんとけじめをつけてからにすべきだ

と言うことです。

まず、俺は基本的に「自分の行動を自分で決めるのは自由だ。でも自由だからこそ言動にはしっかりと責任を持たないといけない。」と思っています。
これは他人の事に限らず、当然自分自身にも当てはまることです。
自分で言って、自分で選んだからにはしっかりと責任を持たないといけない。人として当然の事だと思いますし、やりたい放題好きなことをやって、その結果には責任を持たないなんて人間は、まさに「クズ」だと呼んでも良いでしょう。

自分自身でもそこは気を付けている反面、他人の言質などにも敏感になってしまうのかもしれませんが、そういう思いが根底にあります。

で、人間には反省したり、挑戦したり、何かに気付いたり、それまでの自分を捨てて新たなことにチャレンジしてみようだとか、たまには違うことにも触れてみたいだとか、やっぱり違う手法の方が良いと気付いたとか、状況は様々であれ、変わることも当然に有ることだと思いますし、冒頭で述べたとおりそれも大事な事の一つでもあるんだろうと思います。成長だって、そういう変化の一つです。

で、それじゃあこの一件相反しそうな2つの事柄をどうやって折り合いを付ければ良いのかというと、最初に述べた「リスタートする場合(まあ、変化する場合って事です)は、それまでのことにけじめをつけてからにすべきだ」と言うことかなあと、思いました。
けじめと言っても、なにも堅苦しいことにする必要は無いんです。簡単な物でも良いんですが、自分のそれまでの選択・判断が間違ってたら「すまん、間違ってた」と一言謝るとか(謝って済む場合の話。損害云々が出てる場合はそれだけでは済みませんが)、謝るまでいかなくても、それまでの事に間違いがあったならその間違いを認めるとか、なにもそういうマイナス面的な事ばかりじゃなくても「俺はやっぱり、実はこういう事がやりたかった。だからこれからはこれで行きたい」という意思表明をするとか・・・ともかく、それまでのこと、そしてこれからのことについて、そういう転換のポイントで何らかの変化するというアクション。けじめとしてそれが必要かなあ・・と。

冒頭で述べた奴は、以前俺と意見が衝突して、俺のアドバイスを無視して「良いんだよこれで」という感じでやってたけど、今になってやっぱり俺のアドバイス通りのことをしているという状況。
俺からしたら「だから言っただろう?」という心境なんですけど、それに続いて冒頭の文句。
奴は、いっさいの悪びれもせず、自分自身のそれまでの行いへのけじめも全く付けようとせず、当然の如く方向転換をして、それでいて「それが何か?」的な・・・・ああ、俺がむかついているのはその部分だなあと気づきました。

で、こうやって文章でここまで書いてみると、なんだか「俺が奴に謝って欲しい」ように受け取られるなあと、自分で感じてしまいましたが、別に謝って欲しいワケじゃ無いんです。
謝らなくても良い。ただ、それまでの自分の行動に対するなにかしらかのけじめを付けて欲しかった。そこの点をしっかりして欲しかったと言うこと。
そして、別にけじめと言ってももの凄いことを要求しているワケじゃないし、別に俺がそれについて許可を与えたりとかそういう事をする立場にもないし、権限もありません。
ただ、人間自分で過去に選択した行動に関しては責任を持たなければならないと言うのは全てにおいて基本だと思うし、その責任というものが別に誰に迷惑を掛けたわけでも損害を出したわけではないにしても、自分の過去のその行動をキャンセルするならばそれに対する何らかの「けじめ」が欲しいなあと、俺はそう感じるという話でした。

いまいち上手くまとまりませんでしたが、「言おうとしていること」のニュアンスだけでも感じてもらえたら嬉しいです。


「受け入れてみる」という姿勢

2008-05-06 | 「生き方」「在り方」みたいなもの
ionaさんがご自身のブログ内の

盗んだパンを分かち合うことギフト☆王様の耳はロバの耳

という記事で

「こう考えると、人生は変わるよ。」大越俊夫著

という書籍とその内容を紹介されていました。

『子供がパンを盗んできたら
責める前に 一緒に食べるってこと・・』

『凶悪犯罪は別にして 
子供がそうしたいと感じた動機を共有して 一緒に味わう
それから 一緒に罪を犯した事を償う

許すという形からではなくて
受け入れて 共有して そこから・・・』

・・・・そう言えば、不良の集まりだった学校に元ヤンキーの先生が赴任して更正させたという内容のドキュメント番組を前に見たことがあります。
映画(ドラマだったかな?)になった「ヤンキー先生~」とはまた別なドキュメント番組だったんですけど、その元ヤンキー先生の指導の仕方というのが、厳しく指導をするのかと思いきや、実は全くの逆で、まずは相手の立場に立ち、相手の言葉に耳を傾け、時には一緒になって騒いだりし、そうやって少しづつお互いに信頼関係を築いて行くというものでした。
その不良たちへのインタビューでも「(ヤンキー先生)は本当に俺たちの話を聞いてくれるんですよ。それが嬉しかったです。他の先生は綺麗事ばかり・・・」みたいな事を言ってました。

そうやって考えてみると、この本に書いている事とも共通項がありますね。

組織的な犯罪や、大人になってから起こす重大犯罪等は別にして、まだまだ精神的にも未熟な子供が起こす、小さな悪事というのは、要するに

「誰かにかまってもらいたい。自分を見て欲しい。受け入れて欲しい。」
という気持ちの表れでもあり、そしてその上で
「親身になって、真に叱って欲しい」
とも思ってる部分ってあるんでしょうね。
自分でも悪い事だと認識していながらも、そういう理由から起こしてしまう行動。そんなものもあるんでしょう。

だとしたら・・・・うん。
ただ「駄目だ」と決めつけるのではなくて、まずは受け入れて、共有して、そして許してやるという事は、大人としてとても大切な対応のあり方なんだろうなあ・・と。
最近

褒めるという指導

という記事を書いたのもあって、それとも関連してそんなことを思いました。


ただ、とは言っても実際に俺がその立場に立ったとしたら・・・

「甘えるな!」

と言って一刀両断してしまいそうです(笑)
教師とか親とか警察官とかに喰って掛かって、「お前らはいつも綺麗事ばっかりだ!」なんて言う不良いるけど
「教師が綺麗事・正論を言わなくて誰が言うんだ?」
「教師だからこそ綺麗事を、あるべき姿を語らないと駄目だろ?」
なんて思ったりもするんですけどね、俺は。

でも・・・うん、まあ未熟な子供を相手に一歩こちらが引いて、まずは受け入れてやるだけの大人としての度量というのも大切って事ですね。
これも気をつけていきたい事だと思いました。

褒めるという指導

2008-04-22 | 「生き方」「在り方」みたいなもの

宣言!今回は良いこと言います。良いこと書きます。

と、いきなり強気な発言なのは俺のオリジナルでは無いからです(笑)
俺が読んで「これ良いな」と思ったものの紹介になります。だから「良いことを言うよ」と予め宣言しちゃいました(笑)

と言うのは、前に書いた

わからない5大理由

という記事に、iona69さんから次のようなコメントを頂きました
『~注意を重ね続けていると 自己嫌に陥ります。叱るから 怒るに変わりつつある最近の自分を客観的にみて それならば どうすることが良いのかと 日々 考えています。謝り続ける彼の仕事の後始末でヘトヘトになるばかりで・・・でも彼の一生懸命さは解るのです~(一部抜粋)』

これを読んで、前に俺が読んだある記事を思い出したので紹介してみようかと思いました。

それは、YOSHIさんから「お勧めのサイト」として紹介された糸井重里さんの「ほぼ日刊イトイ新聞」というサイトの「ダーリンコラム」というコラムの中にあった記事の一つからです。
ほぼ日刊イトイ新聞というサイトは、紹介されて始めて知ったのですが「さすが糸井さんだ」と思わずには居られない記事が満載で、とても興味深く、そしてとても楽しく読ませてもらってます。記事の数も多くて、まだまだ未読の記事も多いんだけどこれから徐々に目を通していこうかと思ってます。
そして、この「ほぼ日刊イトイ新聞」というサイト。知ってる人の間では結構有名なサイトらしいですね。なので、今日の紹介する記事も「すでに読んだ」って人も多いかもしれませんけど。

で、その記事とは「ほぼ日刊イトイ新聞、ダーリンコラム」から

<ほめるとなぜ伸びるのか?>

という記事です。

まあ、詳細というか、全文はリンク先を参照してもらうとして、この中でも特に「目から鱗」だった部分を抜粋して紹介させてもらいます

『叱って教えるという方法で考えてみよう。
例えば、まっすぐこっちに来させたいとする。
右に行くのでも、左に行くのでもなく、
まっすぐ進ませたいとする。
右に行ったら、叱るとする。
あなたが犬だったとしたら、
右には行かないようにするだろう。
しかし、次にどうしたらいいのかはわからない。
左に行ってみる。
また叱られる。
では、どうしたらいいかと、あらためて右に行く。
これもまた叱られる。
へたをすると、このままその都度叱られて、
いつまでも正解にたどり着かないかもしれない。
つまり叱られるしつけというのは、
「やってはいけないことを、ひとつずつ無数に憶えていく」
という方法なのだ。

ほめる方法では、
まっすぐ進んだときに、ごほうびをやる。
右に行こうが、左に行こうが、何ももらえないけれど、
まっすぐ進めばごほうびがもらえる。
これだけのことだ。
ほめる方法というのは、
「こうすればいい」ということを教えるから、
無数のやってはいけないことを憶える手間がいらない』

『あ、犬のしつけよりも、
目隠ししてスイカを割る遊びにもそっくりだ。
目隠ししているあなたは、
どっちに進んでいいか、
どこで棒を降り下ろしていいかわからない状態で
ゲームをスタートさせる。
何もわからないなりに、
提案的にどちらかに向かって歩き出す。
「そっちじゃない」という声がいくら聞えても、
どっちに歩けばいいのかはわからない。
なにか正しい方向に向いたときに、
「惜しい」とか「いいよ」とか言われたら、
どっちにいけばいいかわかるわけだ。
だから、いずれ、スイカは割れる。』

これは本当に「うん、まさにその通りだ!」と、思いましたね。
確かに、叱るばかりでは何が悪いのかを完全に理解しないまま、叱られることが怖くなり、ますます前に進めなくなる。そういう人もいるだろうなあ・・と。

そして、「わからない5大理由」と一緒に合わせて考えてみて思ったこと。

自分の立場が下の場合。つまり自分が部下だったり後輩だったり、
「自分が指導を受ける立場」にある時の心構えとしては「わからない5大理由」を心に刻み真摯に物事に取り組む事が重要なのではないか。

そして、逆に自分が上司だったり先生だったり先輩だったり、
「自分が指導する立場」に有るときは、ただ悪い点を指摘して叱りつけるのではなく、上手く出来た事を褒めて、また成功の方向へ導いてやるような指導を心がけるのも大切なのではないか

と思いました。なんでもかんでも一つの価値観を当てはめるではなく、立場によって心がけるべき価値観も様々に変化するべきというか、そういう臨機応変さも重要なのかなあと。
まあ、これも全ての場合に当てはまる訳ではないだろうし、褒めると調子に乗るような人間には叱ることも必要でしょうし、個々具体的な場面では、その場面に応じて様々な対応が求められるのでしょうけど、でも俺は糸井さんのこのコラムを読んで、自分が上の立場になったら基本として「褒める上司」になりたいなあと思いました。

以上、糸井さんの言ってた「良い話」でした。他にも良いこと沢山言ってます。機会があればまた、別なものも紹介するかもしれません。


「あり得ない環境」の裏には完全な成果主義(かも?)

2008-04-18 | 「生き方」「在り方」みたいなもの

YOSHIさんのブログ記事

なんかそれは違うんじゃないかと思うBLOG15.NET

で紹介されていた記事

日本の会社ではありえないほど独創的なGoogleのオフィス写真&ムービー in スイス

たしかに、これは凄い。俺の知っている「職場」の常識からはありえないなあと思いました。
でも、日本でも職種によっては、振興の新手の企業には、この手の企業もあるのかもしれませんね。

YOSHIさんは

『少なくとも私が経営者だったらこんなインテリ家具のような物に金は出さないだろうな。従業員だったとしてもこういった環境が仕事しやすいのかどうかと言われたら、そうではないと思う。』

と感想を書かれていますが、俺も結果から言うとこの手の環境はパスすると思います。ただ、俺の場合は仕事のしやすさというよりも、別な視点からの理由になりますけど。
俺がコレをみてまず感じたのは、「成果主義」と「課程主義・努力主義」という概念の対立構造でした。

予め断っておきますが、ここから先は俺の独断と偏見100%の記事になりますのでそれを了承の上での事としてお願いします。

きっと、このgoogleのスイスチューリッヒ支部(?)は、もう完全100%成果主義なんじゃないかなあ・・と。
きっとね、最初に条件というか目的というか、「いついつまでに、何々という条件を満たした商品(若しくはコンテンツ)を完成させなさい」ってのがって、求められるのはそれを条件通り達成できるかどうかそれだけ。なんじゃないかなあ・・・と思いました。
だから、極端な話「期限までに仕事を完成出来れば、他はどうでも良いよ。」みたいな感じで、食堂食べ放題、リラクゼーションルームでリラックスし放題、カラオケもし放題、ビリヤードも好きなようにどうぞ?みたいな。
その反面、結果に対してはもの凄くシビアで、一切の言い訳を聞かないのはもちろん、とにかく「条件達成できたか出来ないか」のみが求められて、どんな理由が有ろうとも、出来なければとにかくダメとか、そんな感じなのかもしれないなあ・・・と。
そう言う意味じゃ、プロのスポーツ選手に近いイメージ。
結果を残せればOK。その代わり、怪我とか病気とか例えそう言う理由であっても、責任は自分持ち、結果を残せない人材は要らない。とかさ。

そういうシビアな面と引き替えに、あの手のオフィスや自由で開放的な一見羨ましい雰囲気があるんだと思うんですよね。
そして、インテリア家具のような物にお金を掛けているのも、優秀な人材を確保するための企業の先行投資という考えなんじゃないのかな?とも思われますが。ここにも、「ここまでお膳立てしてやったんだから、結果を出せよ?」的な圧力が見え隠れ・・・

だから、逆に常に気を抜けないと言うか戦い続けなければならないというか、いくら良い業績を残して来たとしても、ダメになればすぐに首を切られるような。

これに対して、日本の企業って、そこまで徹底した成果主義のみ求める企業ってのは、まだ少ないように思います。それに、人材を「育てる」という発想は、俺は大事だとは思うんですけどね。
とにかく成果主義って企業は、「人材の代わりはいくらでもいる。育てるくらいなら出来る奴を」って感じで、物としてしか見られてないというのも、哀しい感じもするなあ。と思わないでも無いんです。
もちろん、仕事にそんな「感情論なんて不要」って言われれば、それはそれで正論なのかもしれませんけど・・・でも、ねぇ?
窮屈な部分は多いけど、その分ある程度自分の身分について保障されている部分も欲しいし、極端な成果主義ってのは、俺はちょっと・・・・
ぬるま湯に浸かりたいとまでは言わなくても、成果主義のみ求めるのもちょっと、極端かな?と感じちゃって、俺には合わないなあと、自分では思いました。

当然だけど、仕事は遊びじゃありませんし、自分の人生・生活に直結するものですから、単純に好みの問題だけで選んだり、チャレンジ精神だけで挑んだりするには、それ相応のリスクと覚悟が必要です。それを踏まえた上でどういう仕事をし、どういう生活をしていくべきか・・・・

google社に関しては、断ったとおり100%独断と偏見ですよ?(笑)でも、実際そういう完全成果主義の企業だってあるだろうし、そうやって考えたときに俺は・・・ちょっとパス。って感じで思いました。
だって俺にとっての仕事の意義って、俺の理想の仕事って
仕事の意義
↑こんなのですからね(笑)

まあ、仕事の意義なんて人それぞれなので、自分に合った悔いのない業種を、自己責任で自分の仕事に選べば良いじゃん。と言えばそれまでの話ですけどね。