エッセイ的な何か

エッセイ的な「何か」です。
エッセイなのかコラムなのかダイアリーなのか自分でもよく分かりませんが「何か」です(笑)

良い写真、凄い写真

2008-10-27 | ちょっと考えた事
素人には善し悪しが分かりづらいものって、結構あると思うんです。
例えばワインとか、楽器の音色とか、料理とか。
よくテレビで有名人の格付けとかやってたりしますけど、あんな感じです。
何千円のワインと百万円するワイン・・・実際俺も分からないと思います。楽器の音色なんかも、楽器よりも奏者のレベルの違いの方が大きいと思いますし、もうあのレベルの違いなんて、本当のその道のプロの人じゃないと分からない位の差というものってあると思うんですよ。
そりゃ、極端にマズイワイン、例えば保存状態が悪くて酸っぱくなってしまったワインと美味いワインの違いならすぐ分かると思いますけど、そういう極端な違いでも無い限りなかなか善し悪しの差がわかりづらいものっては、結構ありますよね。

で、俺は写真ってのもそういう物のひとつだと思ってますし、思ってました。
絵と違って写真はありのままそのままを写すわけですから、模写の技術に差は無いわけで、(これも、前述の通り極端なピンボケだとか、手ぶれなんかの写真は論外としてですよ)素人目に見たら、善し悪しを判断するのは難しい部類のものだと思うんですよ。
でも、俺自身が旅行をして、ブログにUPするために写真を撮り歩いて、最近ふと思うことがありました。
それは、写真の善し悪しというのは、結局の所「如何にその場の感動を写真の中に切り取って、その感動、雰囲気、臨場感を伝えることができるか」だと言うことです。

北海道旅行をして、特に感動したイメージが強いのが弟子屈町の「摩周第3展望台」や浜中町の「アゼチの岬」、礼文島での「桃岩展望台」なんかは、その景観に圧倒されて、凄く感動しました。
で、実際に写真を撮ったわけですが・・・・確かに、撮った写真にはそのままその通りの情景が写っています。写ってはいるんですが、やっぱり何かが違うんですよね。
言葉にするとそれこそ、感動や臨場感、や雰囲気といったものなんですけど、そう言うのがいまいち感じられない。
確かに雄大な風景が写っているけど、それだけ・・というか、そういう一枚の絵がそこにあるだけというか。そういう感覚。とてもじゃないけど、実際にその場で感じた感動までは伝わってこない。

実際に自分でそういう経験をして思いました
「ああ~、プロのカメラマンというのは、きっと写真でそういう感動を伝えようとしているんだなあ」と。

素人目に見て、「上手い写真」というと鳥の羽ばたく瞬間だとか、朝日が昇る瞬間だとか、ダイヤモンドダストだとか、そのシーンだけで絵になる場面ってのはあると思うし、一見するとそのシーン、テーマだけで凄いと思っちゃいそうで、そしていざ素人が良い写真を撮ろうなんて思うと、変に構図に凝ってみたりだとか、そういう何かの瞬間やら、光の演出に拘ろうとかしちゃって、なんて言うんだろう?小手先の小細工に走っちゃうと言うか・・・・そんな感じがします。
でも、違うんだなあと。
本当に凄い写真というのは、写真を見ただけで、実際にその場に居るかのような感動、臨場感、雰囲気を味わうことが出来る写真なんじゃないだろうか?と。
そう思うと、写真の善し悪しを判断するのには、何も特別な知識なんて必要無いんじゃないか?なんて思ったりもします。
ピントがどうとか、シャッタースピードがどうとか、露出がどうとか・・・そんなのはどうでも良くて、単純に写真を見て、問答無用で感動できるか。結局はそこなんじゃないかなあとか思うんです。最近。

だから、例えば摩周第3展望台に言ったときは、俺はその感動から本当に鳥肌が立ちました。あの時の感動、小言は必要なくて、写真を一目見てそのような言葉にならない感覚を写真から受けるかどうか・・・単純に良い写真、凄い写真ってのはそういうことなんだと思います。

実際に自分で写真を撮って、ブログでそれを伝えると言う側に立ってみて、初めてそこに気付いたような気がします。
いざその場にいって、感動すればするほど、自分で取った写真から伝わる感動が、あまりに現場に比べて薄すぎて、歯がゆい思いをしているのですが、そういう経験を経てようやく、写真の奥深さ、難しさ、そしてすばらしさに気付いたような気がします。

とは言っても、今更何十万も掛けて機材を揃えようとか、今更写真家を目指そうなんて気はありませんけどね(笑)
コンパクトデジカメ(パナソニック、LUMIX)で頑張りますよ。
ただ、最近そういう部分に気付きましたという・・・そういう話でした。

Googleストリートビューを体験&例の諸問題について

2008-08-19 | ちょっと考えた事

ちょっと遅ればせながらですが、巷で話題のGoogleストリートビューを体験してみました。
当然ながらというか仕方ないというか、これが出来る範囲は日本のごくごく一部に限られていて、東京、大阪近郊と東北では仙台、北海道は札幌と函館に限定されてますので、青森のような田舎都市に住んでいる俺にとっては、今のところ縁の遠いものというイメージがあって、いままで触れずじまいでした。

ただ、この中にあって名古屋、福岡を抑えて函館が入ってきているあたりは、さすがは観光都市函館ってところでしょうか。世界3大夜景の一つを持っているだけあります。

函館ならば俺も良く行くし、それなりに知っているので函館でストリートビューを体験。

・・・いや~。凄いねこれ。
同じ場所でも視点を変えて360度見渡せる所が凄いです。
読み込みに若干時間が掛かるのと、読み込んだばかりの時点ではぼやけてて、きちんと読み込んでから鮮明な画像になるのは、現時点ではしょうがないのかな?それとも、俺のネット環境が光回線じゃ無いからでしょうか?これ、光だったら、鮮明な画像のまま、待ち時間為しにグリグリ動くのかなあ?
だとしたら、凄いですね~。
そこらへん、改善されるならばこれって本当にすごいと思います。
本当に函館の町を見て回ってるようでしたよ。

あとは、対応する地域が増えると完璧ですね、これ。


と、凄いツールなのですが、なにやらこのストリートビューに関して、肖像権というかプライバシーの問題が絡んできて問題視されている部分もあるらしいですね。
たださ、俺が個人的に思うのは、そういうプライバシーやら何やらに関する部分ってのは、このストリートビューというツールの問題というよりも、

結局は使う側の問題だろ?

と思うんですよね。
包丁は料理をする為に欠かせない道具だけど、人を殺そうと思っている人が使えば凶器になるし、野球のバットだってそう。
そういうのと、本質的な部分では一緒だと思うんですよ。

俺自身、もう一つのブログ

「そうだ、「北へ。」行こう」

といブログをやってて、俺のライフワークである北海道の旅行記を更新しているけど、旅行記という性質上、当然に写真は切っても切り離せない存在で、訪れた先々で撮った写真をUPしています。
「人の立ち入らない大自然」なんてものならば、最初から全く問題ないけれど、観光スポットなんかを回ると、少なからず自分以外の人は必ず居るもので、特に人気のあるスポットなんか人が居ない事はまずありません。
そういう中で写真を撮ろうとすると、かならず人は入っちゃいますし、これはしょうがないことだと思うんです。そして、沢山の人が訪れているその状況、そのものもひっくるめて、ありのままのその場所の状況だと思うんですけど・・・だから、俺は若干人物が写り込もうとも、それは仕方のないことだと思ってUPしています。
そして、当然の事ながら目的は、「その訪れたスポットの紹介」です。たまたま移り込んだ人間には全く興味なんてありませんし(失礼)、その人のプライバシーをどうこう言いたくて撮ったわけでもありません。出来ることなら写したくないですよ。でも、物理的に無理だから、その程度の部分ではしょうがないと割り切るしか無いかな?と思うんです。

それと一緒で、ストリートビューも実際にその街を本当に散策しているような疑似体験ができるという意味では素晴らしいツールだと思えますし、見た感じ、特に
「特定の個人のプライバシーを暴いてやろう」
なんて感じは受けませんでしたけど。
そういうのって、そう言う使い方をしてやろうと思っている連中がそういう目的で使うからこそ、問題なのであって、決してこのツールそのものが悪者ってわけでも無いだろう?と思いました。

どんな道具にだって様々な側面があって、便利な面もあれば使い方によっては凶器にも、迷惑にもなるような物って沢山あると思うんです。
で、そういうのって、だからこそ使う側のモラルが問われるものだと思うし、使う側の人間がしっかりとした良識をもった人として資質を問われる部分だと思うし、使う側がきちんと責任をもって使うべきだと思うんです。
原因はむしろ使う側の人間で、人としての在り方の方が重要だと思います。
少しでも問題が出るとすぐに「じゃあそのツールはダメだ」と、物のせいにしたがる風潮、最近強いように俺個人的には感じるんですけど(公園の遊具とかもそうですね)、このストリートビューに触れてみて、そんなことを感じました。


食べ残しに関するあれこれ

2008-07-16 | ちょっと考えた事
前回の記事で「食」について書きましたので、今回もちょっと食繋がりで、食べ残しに関する事を。

最近学校給食の食べ残しが問題になっているみたいですね。
でも、今回はその話ではありません(笑)。そことはまた別な話。学校給食は脇に置いておいて、あくまで大人の話というか、食べ物の大切さ、犠牲の尊さというものをきちんと理解している大人を想定しての食べ残しに関する事です。
何故敢えて学校給食の場合と分けたのかも理由がありますが、それについても追々書きたいと思います。

で、今回の話の発端は、あるホテルを会場にして行われた会合の席で、会議の後に親睦会的なパーティー的な要素も含んだ会合だったんですけど、様々な料理が出たわけです。
最初はみんな普通に食べているんですけど、そのうちに場の空気が和んでくると、それぞれに知り合いや上司先輩との話に盛り上がるようになり、途中からは殆ど誰も食事には手を付けず、最後はかなりの料理が余っていました。
これは、結婚式の披露宴なんかも似たような感じですよね。
で、食中毒とかそういうのの防止のための持ち帰りはご遠慮願いますとのこと。まあ、ホテル側としても持ち帰られた後の事まで責任は持てないって事でしょうし、それで後からクレームを付けられてもたまらないと言うことでしょうから、分からないでもありません。
自分で持ち帰って、自分で保存状態が悪いまま保存してそれを後で食べて、それで腹壊してもホテルに文句を言うようなモンスターが増えてきてるらしいですからね。

と、ちょっと脇道に逸れましたが、本筋に戻ります。
で、その余った料理を見て最後みんな「もったいないなあ」と言うわけですよ。
余っているから勿体ない。
確かに、勿体ないと思うこと自体は悪い事じゃありませんし、物を粗末にするよりは、勿体ないという感覚を持っている事はむしろ良いことだとは思います。
だから、別に非難したいワケじゃないんだけど、でも、よくよく考えると本質的な部分で違うんじゃないか?って思うんですよ俺は。
確かに勿体ないかもしれませんが、じゃあだとしたらどうしたら勿体なく無いのでしょうか?・・・そう聞くと「全部きちんと食べればよい」と言うでしょう。
でも、それってちょっとおかしいんじゃないかな?と。
そこに居る人達は食べれるのに敢えて残したワケです。と、言うことはすでにお腹が一杯だとか、すでに十分に満足しているというわけで、その状態で無理矢理に詰め込む行為は、逆にその人達にとって苦痛ですら有ることですよね。
食べ過ぎは逆に体に良くないということは誰だって知っていることです。
それに、すでに料理されてしまった物は結局、捨てるか、その場で消費するしか無いわけで、そういう席に出した料理をリサイクルなんてのは出来ませんよね?そんなことしたら船場吉兆でしょう?
要するに、食べたとしても捨てたとしても、結局料理として出してしまったものは、どのみちその場で消費してしまう意外に無いわけです。

と、言うことは、「食べ残しは勿体ない」とは言っても、じゃあそこに有る物を無理矢理にでも食べることが本当に勿体なくないのか?というと、かなり疑問ですよね?
無理矢理食べた人も気分が悪いし、捨てたとしても食べたとしても、結局は無くなるだけ。無理矢理食べて気分を悪くするだけ逆にマイナスですよ。

でも、大量に食べ残しが残るのを見て「勿体ない」と思うのは正常な感覚だとも思うんです。
だとしたら、どこに問題があるんだろう?・・・と思って考えてみたら、結局は

料理を残す事が勿体ないんじゃなくて、最初から料理を作りすぎることが勿体ない

と言うことなんですよね。つまりはそう言うことです。

大量な食べ残しを見て
「そんなに残して結局捨てるだけなら、食べたくても食べられない飢餓に苦しむ人々にでもあげられたらいいのに」
なんて言う人もいますが、料理を作る前の食材なら輸出はできても、すでに作ってしまった料理そのものを飢餓に苦しむ国に送ってやる事なんてできません。どうやって運ぶんですか・・・。輸送費だってバカになりませんし、そんな長時間保存するのも大変でしょう。移動中の衝撃に対する保存だって大変でしょうし。
こんなのは当然の事です。すこし冷静になればすぐに分かること。
そうやって考えてみても、結局は料理されてしまった時点で、その場で食べるしか無いわけで、余ったからその分を恵まれない人に分け与えられるか?なんて言ったって現実問題出来るわけ無いわけで・・・。

でも、だからといってじゃあ「本当に必要な分だけ作ればいい」と言ったって、そんなのも現実にやるとしたらまず不可能でしょう。だってホテル側だって商売でやってるわけです。儲けを得るためにはそれなりの値段をつけて、それなりの料理を揃えなければならない。
ホテルに限らず、レストランや居酒屋や各種外食産業、コンビニで扱う弁当とかそういうのも全てそうですよ。
じゃあ、そういうの全部廃止できるか?・・・・と、言うと実際どうですか?
今の世の中の生活に慣れてしまった状態で、本当に必要な分だけ生産して必要な分だけ食べて暮らしていくなんて、今の現在の社会で可能かどうか?というと、無理でしょうね。

そうやって考えると、やるせなくなる部分もあるんだけど、結局は「しょうがない」って事で納得するしかないんですよね。
嫌なら、自給自足の生活・・極端だけど結局そこに行き着くことになりますので。
だから、単純に目の前の食べ残しを見て「勿体ない」とは簡単に言うけど、これはこれでなかなか難しい問題だなあと。そして、単に目の前の料理が残ってるから「勿体ない」っていうのは、ちょっと本質から逸れてるんじゃないか?と思うんです。
本当に勿体ない行為は、「料理を作りすぎること」の方なんですからね。

と、こんな事を思ったのでちょっと勢いに任せて書いた部分も否めないけど、思ったことを書いてみました。
ただ、こういう事は直接解決は出来なくても考えてみること、それ自体にも少なからず意味は有るんじゃないか?とは思ってます。

最後に、学校給食の食べ残し問題を別にしたのは、学校給食の場合「食育」という側面が入ってきますからね。
まだ、物事の善し悪しの分別も付かない子供達には、とりあえず「残すこと=勿体ないこと」「残すこと=いけないこと」というように教え込む必要はあるかもしれません。
なので、敢えて今回の問題とは別にしました。

食における格好良さというものについて

2008-07-14 | ちょっと考えた事
甘い物というと、女性的というか子供っぽいというか、なんとなくそう言うイメージですよね。世間一般的に。
例えば、チョコレートパフェとかは女性や子供が食べてても何の違和感も無いけど、いい大人の男が食べてるとちょっとした違和感がある。
良い・悪いの話じゃなくて、世間一般的なイメージはそうですよね?って話です。別にチョコレートパフェが好きな大人の男性が悪いって事は無いし、否定する部分は全くありません。

で、逆に苦いものは「大人」というイメージがあります。
ブラックコーヒーだってそうだし、ビールとかが顕著な例かな?

辛いのは、性別年齢関係なしに好きな人は好きだし駄目な人は駄目っていう感じもあるけど、例えば寿司のワサビ抜きは子供用ってイメージがあるし、ざるそばのつゆにワサビを入れたり、刺身を食べるときにワサビを使うようになると大人というイメージがありますね。
重ねて言いますけど、これも世間一般でのイメージでの話です。別に大人だからそうだとか、こどもだからどうだとか決めつているのでも無いし、全てがそうだと言ってるわけではありません。

俺は、以前からこの「味に対するイメージ」に関してずっと疑問を持ってまして
「何故甘い物というとイコール女性、若しくは子供なんだ?」
と言う感じで。
そして甘い物であれ苦い物であれ、味覚ってのは人それぞれで、好きな食べ物、嫌いな食べ物が人によって異なるように、性別や年齢関係なしに甘い物が好きな人だっているだろうし、苦めのものが好きな人、辛い物が好きな人、酸っぱい物が好きな人・・・それこそ、個人個人の単位で違うものだろう?と。
なんで、性別や年齢でくくられなきゃ駄目なんだ?
なんて思っていたわけですよ。
ピーマンは嫌いだけど、ジャガイモは好きだ。とか、イカは嫌いだけどホタテは好きだとか・・・・チョコレートパフェが好き、ケーキが好き、カルアミルクが好き。なんてのもそう言ったピーマンとジャガイモ、イカとホタテの関係となんら違いが無いだろうと思っていたわけです。

でも、最近になってふと思ったこと。
「いや、考え方が逆なんだろうなあ」
と。
女性だから、子供だから甘い物が好きとか、大人だから苦い物が好きとか、そう言うのじゃなくて逆に年齢が低い内は、若しくは女性はそもそも甘い物を美味しいと感じるように出来ているのではないか?そして年齢を重ねていく上で苦い物を受け入れられていくように、味覚が変化していくように・・・人間ってそもそもそういう感じに出来て居るんじゃないか?と。
女性や子供が甘い物が好きで、苦い食べ物が大人の食べ物というイメージも、そういうイメージが根拠無く先行していたのではなくて、実際にそうであったからイメージが後から着いてきたのではないか・・・と。
だとしたら・・・そっか。そうなのか~。というより他はないけど。
言われてみると俺も、ビールの美味さなんて最初は理解できませんでしたしね。

もちろん、とは言ってもそれはあくまで一般的な場合の話で、一般的というのは大体多数に於いてという意味であって、決して全てではありません。
当然にそうじゃない場合だってありますし、それこそ個人差はあります。
大人の男性でも「いや、俺は甘い物大好きだ」って人もいるでしょうし「甘い物大嫌い」という女性の方。苦い物も大好きという子供だっているでしょう。
ただ、味覚の話に限ったことではなくて世の中の物事の全てに於いてそもそも「普通」という事の判断基準は、大多数の場合と一緒かどうか?マジョリティであるかどうかと言うことですよね。
普通であるかどうかというのは本質的な善し悪しよりも、多数の意見に受け入れられるかどうか?と言う部分が大きいです。そして、こっからが今回最も言いたい部分に掛かってくるところなんですけど、それがカッコイイかどうかなんて判断もそうだと思うんです。

食に関する格好良さについて。
格好良さというと、ルックス・・顔とか体型とか、後はファッションとかが主に注目されるけど、チョコレートパフェを一人で食べてる大人の男性ってやっぱり「格好良く」は無いですよ。(念のため補足、もちろんそれが悪いという意味ではありませんよ。単純に格好良さの話です。以下の例についても同じ)
寿司屋でワサビ抜きじゃなきゃ食べられないのは、やっぱり格好良くは無い。
バーでカルアミルクやエッグノッグ、スプモーニばかり飲むのも格好良くはない。
食に関しても、そういうのってあると思うんです。ファッション的な部分というか、格好良さというか。

俺は苦い物も辛い物も好きですし、寿司には当然ワサビは必需品だし、ビールだってウイスキーだって日本酒だって好きですが、甘い物も好きです。
でも、喫茶店などでチョコレートパフェを頼めるかというかと、躊躇しちゃいますね。いや、注文することに何も悪いこところは無いですよ。
この前、とあるカフェでスーツを着込んだ大人の男性が一人でチョコレートパパフェを食べてるのを見て、ふと思ったんですよ。
スーツの大人の人にチョコレートパフェって何故似合わないんだろう?違和感の下人はどこだろう?と。別に何が好きだって個人の好みの問題でしかないのに・・・と考えてみたのが今回の記事の発端です。

もちろん、そういうチョコレートパフェを食べてる大人の人が可愛いとか言う意見もあるでしょうし、食で格好良さを語るのがそもそもバカバカしいって意見もあるでしょう。
で、何回かも俺自身で書いてるとおり誰が何を食べても良いだろう?ってのもその通り。大人の男性がチョコレートパフェ食べたって何も悪いことはありませんし、そもそも否定するつもりもありません。
ただ、今回書きたかったのはあくまで俺から見た、男性視点で見た格好良さという事で、

でも、実際問題としてその場その雰囲気にあった食べ物、飲み物ってあるよね。

と言うことです。
そして

バーでさりげなくウイスキーロックを頼める人は格好いいだろう

と言うことです(笑)
もちろん、狙って無理して飲んでてもそれはそれで必死すぎて逆に格好悪いんですが、そう言う意味でも「食にも格好良さってのは実際にイメージとしてあるよなあ」と。
そういえば「ウィスキーが格好良くなくて、何が格好いいんだ」なんてCMがありましたね昔。木村拓哉がやってた。

時の流れの感じ方

2008-07-03 | ちょっと考えた事

俺のもう一つのブログ

そうだ「北へ。」行こう

を更新していて、ふと思ったこと。
正確には「ふと思った」というよりは、前にどっかで聞いた(見た)事なんですけど。
ただ、どこで聞いた(見た)話なのかちょっと思い出せなくて・・・多分どこかの誰かのブログかなあ?とは思ってるんですが、ブログじゃないサイトだったかもしれないし、そもそもネットじゃなかったかもしれないけど、ともかくどこの誰発なのかは思い出せませんが、ちょっと聞いた(見た)話です。

それは時の流れの感じ方についてなのですが、「時間が早く過ぎるように感じる」と「時間の流れが遅く感じる」という場合がありますよね。
通常、集中しているときや楽しいことをしているときは時間が早く流れて、つまらないこと、嫌なことをしている時というのは時間が遅く流れると言われています。
まぁ、あながち間違いってワケでも無いとは思います。
集中していて気付いたら時間が過ぎてしまっていたとか、その逆に集中力が全くない状態で、高校背の頃なんて退屈な授業をただただ時間が終わるまで聞き続けるのは苦痛でしたし。
そういう実体験からも、たしかに間違いでは無いのでしょうけど、でも楽しい事を沢山していると自覚している場合でも、やったことを一つ一つ丁寧に覚えていて思い出せたとしても、それでもやっぱり「時間の流れが速い」と感じることはあるし、逆につまらないことでも、例えば試験前の試験勉強だとかは、どっちかと言えば辛いことですし決して面白くない事だけど「ああ~時間が無い~!!」って経験は多くの人に有るんじゃないかと思います。
そう考えると、単純に「楽しいこと=時間の流れが速い」「つまらないこと=時間の流れが遅い」と言うわけでも無いなあと言うこと。でこの話の結論としては、たのしい、つまらないで区別しているのではなくて

時間が流れて欲しくない。もっと時間が欲しいという願望が有る場合は早く流れるように感じる
時間が早く流れて欲しい。早く終わって欲しい。という願望が有れば有るほど時間が長く感じる

と言うことなのだそうです。なるほど。
基本的に楽しいことをしているときは、もっとその状態が続けば良いと思うし、嫌なことは早く終わって欲しいと思う。だから結果として楽しいことをしているときは早く感じるし、嫌なことの場合は遅く感じる事が多いけど、基準はそこじゃなくて楽しいつまらないに関わらず「終わって欲しくない」「終わって欲しい」という「願望」によるものなのだなあと。
そう言われると凄く納得のいく話ですね。

というのを、旅行の記事をUPしていて「長かった旅行もいよいよ終わりが近づいてきたなあ」的な事を書いたときに、ふと思い出しました。
行った先で見たこと感じたことは、全部覚えているし、凄く沢山の所を回った筈なのに全然時間が足りない。あっという間だったなあ・・と思ったので、それで今回のお話です。
だとしたら、つまらないことをしているときには「時間が過ぎて欲しくない」と思い込むことが出来れば早く終わらすことが出来るのかもしれませんね?かなり難易度高いですけど(笑)。


芸術と大衆娯楽の違いとは?

2008-06-29 | ちょっと考えた事
gooランキングでこんなものがありました

スピンオフが見たいアニメのキャラクターランキング

ちなみに上位5位を紹介すると、
1位 峰不二子(ルパン三世)
2位 銭形警部(ルパン三世)
3位 シャア・アズナブル(機動戦士ガンダム)
4位 ベジータ(ドラゴンボール)
4位 ドロンジョ(ヤッターマン)(4位2つは同率)

ということでした。

今回は「スピンオフが見たい」と言うことでしたが、アニメに関するこういう集計を取るとランキングに登ってくるアニメって、何というかこう・・・今まさに流行っているとか現在進行形で連載されているようなものじゃなくて「一通り峠を越えて不動の人気を確立した」アニメというか「大人でも楽しめる」というか「国民的人気」というか、表現の仕方が難しいんですけど、この1~4位までのようなアニメやスタジオジブリものだとか大御所の原作のもの、手塚治虫作品等々とかそういう感じのものがランキングされているんですよね。いつも。

俺、あまり詳しくないので、こんなことを書くとアニメに詳しい方にお叱りを受けるかもしれませんが、いわゆる「萌え~!!」というようなアニメはランキングしてきませんよね。
やっぱりごく一部だけに受け入れられているアニメと、一般大衆に広く受け入れられているという違いからなのでしょうか?そりゃ認知度が高いほうがランキングされますからね。

で、こういうのを見てふと思ったことがあるんです。
こういうのでランキングされるようなアニメって、すでに単なる大衆娯楽を抜け出してて、すでにある意味「芸術」に近い部分にまで足を踏み込んでるようなものだよなあ~と。
ルパン三世や機動戦士ガンダムなんて、すでに単なるアニメを越えてるよなあ~みたいな感じで。
大人でもかなりの人が知っていて。

でも、そもそも芸術って何だろう?とも思ったんですよね。
音楽の分野でも現代の流行の最新POPSは大衆娯楽という認識だと思いますけど、クラシックとなると芸術という認識ですね。世間一般的には。
でも、クラシックだって中世の時代には、そもそもは貴族の娯楽(?)として誕生したのがそもそもの始まりだったと思います。あの音楽が現在進行形の頃は純粋に楽しむためにあったのだと思うんです。
「能」とか「歌舞伎」なんかもそうですよね。あれも元々は当時の人々の娯楽として誕生したものです。
落語やミュージカルなんかも、そもそもの誕生のキッカケはやっぱり「娯楽」だと思います。

だとしたら、大衆娯楽と芸術の違いってなんだろう?ってふと思ったんですね。
こうやってみると違いは「時間の経過」要するに背負っている「歴史」ってところでしょうか?建物などでも最新式のビルは世界遺産にはならないけど、歴史の古い建物は文化財として保護されて世界遺産なんかになってますね。あれだって、元々は芸術品として作られた物じゃなくて「建物」として機能させるために建てられたモノの筈です。

クラッシク音楽や歌舞伎などはもう歴史がかなりのものになるから、それらが「芸術」で今現在の流行曲等が娯楽と分けられると、何となく納得しちゃうけど実際その境界は曖昧だな・・・・と。
で、漫画というのはその歴史自体がまだ新しいのでまだ漫画は芸術では無く大筋は大衆娯楽という括りで捉えられていますが、ルパンやガンダム、ドラゴンボールやラピュタ等を始めとするそこら辺のアニメって、今まさに「大衆娯楽」の枠から抜け出して芸術分野の方面へ昇華しつつあるのかな?なんて個人的には感じたりしたわけです。
もちろん、俺の個人的、主観的な感覚です。
そして誤解の無いように一応補足せてもらうと、別に俺は「芸術」が「素晴らしく価値のある物」で「大衆娯楽」が「低俗で無価値」だというつもりは一切ありませんし、大衆娯楽は生きる上でとても大切なものだと思ってます。そもそもそこに甲乙付けるべき物でもないとも思ってます。
ただ、とは言っても世間一般的にみると「芸術>大衆娯楽」という認識があるのは、それはまたそれで事実であると思います。少なからずそう思っている人は多いです。
極端に「大衆娯楽は芸術に劣る」なんて思わなくても「芸術は高尚な物で大衆娯楽はそこまでではない」と言うくらいの漠然とした意識を持っている程度ならば、そういう人は凄く多いですね。これは実際にそうです。
そういうのを踏まえた上で、敢えて「芸術」と「大衆娯楽」という比較を持ち出して、ふと思ったことを書いてみました。

で、だとしたら今の流行のPOPS音楽やアニメ等も、いつか遠い未来には「芸術」となるんだろうなあとか。
ただ、全部が全部じゃなくてやっぱりその中でも特に売れたものとか、有名になった一部のものが生き残るのでしょうけど。
邦楽だと、B'zとか?アニメだとエヴァンゲリオンだとか?(すいません、俺がパッと思い付くとしたらその程度なんですが)
なんとなく、そんな感じ。


やれば出来るんだけど、やらないだけだ

2008-06-17 | ちょっと考えた事

特に脈絡無く、ふと思い付いた事なんですけど
「やれば出来るんだけど、やらないだけだ」
という文句。
通常は悪いイメージで使われます。
「やれば出来るなんてのは嘘だ。ただの言い訳だ」とか「たとえ出来るのだとしても、やらなければ意味がない」とか、まあそんな感じで。
確かに、出来る出来ないはともかくとして欲しい結果が得られないんじゃ、「いくら出来るんだ」と言われても全く意味がありませんね。

ただ、それはそれで確かにその通りなんだけど、本当に文字通り
「出来るけど敢えてやらない」
って場面もあるなあ~。・・・と言うことをボンヤリと考えました。
「出来ること」特にかなりな余裕をもって、簡単に片付けられるものほど「ん~、こんなのいつでも出来るし後でいいかな?」とか思ってそのままにしておく事が多いなあ。なんて、自分自身を振り返って思ったわけです。
仕事で期限が定められてるようなものだと、そんな悠長な事は言ってられないし色々と責任も掛かってくることだし、後々めんどくさいので出来ることは出来る内にこなしてしまうようにしてますけど、プライベートに関連しての事になると、出来ることほど後回しにしてる部分って多いかもしれない、とそう思い当たる節が多かったりします。
で、考えてみるとそういう後回しにしてしまっている事って、もたいして被害を被ることもなく、影響も少ない事柄だからこそそうやって後回しにしているわけで、だとすれば
「やれば出来るんだけど、やらないだけだ」
って言葉の意味の中には、
「やれば出来るんだけど、(特に早急にやる必要性が無いから)やらないだけだ」
という場合もあるんだなあ。とか

で、何が言いたいのかというと、「価値観の押しつけは良くない」という話に繋がっていくんですけど、そもそもやるべき事、やらなければならないこと、なんていうのは、それぞれ個人の価値観によって、それぞれの個人が望む「こうしたい」「こうなりたい」という願望を達成したいが為に行うわけで、個人的な価値観を勝手に物事の基準に据えて「~をしなければならない」とか「何故~しないの」とか・・・・その程度ならまだ可愛いレベルですが、「そんな事も出来ないの?」と勝手に決めつけられても迷惑だという話です。(仕事や、何かの義務としてやらなければならないようなことを放置するという場合を除いての話です)
そこで、本当に興味が無くて、自分自身としては価値を見いだせないから
「別にやろうと思えばできるけど、(必要性を感じないから)やらないだけだ」
と言ったとしても、この言葉は「まけおしみ」として捉えられてしまうという理不尽さがあるな。と。

と、敢えて「これが言いたかった」という部分を書くとすればこんな感じですが、今回は別に強くなにかを主張したかったのではなくて、本当にただなんとなく「ボンヤリとそんなことを考えました」という記事でした。


「当然の行為」が酌量の要件になるってどうなんだろ?

2008-04-23 | ちょっと考えた事
今、世間では「光市母子殺害事件」で被告人に死刑判決というニュースが大々的に取り上げられていて、ニュースではまずこの件に関することを目にするけど、まあ俺も「当然の結果」というか、裁判所がまともな判断をしてくれたなあと感じてます。
世論も「妥当」という意見が大多数なようで、この件に関しては、まともな世間の感覚に個人的に一安心しています。
この件に関しては俺も「至極妥当だ!」という意見です。他には特に述べたいことも無いです。ただ、話題のネタだったので一応書いてみました。

さて、これとは話は変わって、こちらはかなりのローカルネタになるのですが、青森県の地元ニュースでこんなのがありました

スーパー売掛金横領。懲役3年6月判決/地裁弘前

テレビでも、地元のローカルニュース番組で取り上げられていた記事ですが、これを見てちょっと疑問に思ったこと。
何もこの件に限った事じゃなくて、他の横領事件や窃盗事件でも言えることだと思うんですけど、この件でもリンク先の記事中にあるように

『~一方で、被告が被害弁償として473万円を支払っていることなどを酌量した。』

というこれ。
一見、「返そうとしてるんだ。酌量の余地有りだなあ」と確かに思えそうだけど、よく考えてみるとおかしくないかな?これ。
横領したり、盗んだりしたものを返すのは「当たり前」の事なんじゃないか?と。

5000万っていう大きい金額だから、分かりやすく、ちょっと単位を落として「友人から100円盗んだ」という想定で考えてみると、友人から100円盗んで、それがバレた。→悪い悪い100円返すよ。で済まないでしょ?
盗んだものを返すのは当然。本来その友人の物なんですからね。
じゃあ、盗んだという不法行為に対する制裁はというと、100円を返す行為とはまた別に、その不法行為を行った制裁として考えないと駄目でしょ?
どんな犯罪だってそう、犯罪を犯そうとして失敗したから「分かった分かった、じゃあ返す」で、済むものではありません。返すのは「当然」。

だったら、この横領の場合も「返済したことが酌量の余地」ってのが、なんなんだろうなあ?と思ったんです。
返すのは当たり前・・・というか5000万に比べたら全然返せてないし?
と俺は思ったのですが。

盗んだものを返す。横領したものを返す。
それは、当たり前のこと。やらなければならないこと。
なのに、この当然の事をしたことが「酌量の余地」になるっていうのは、なんというか、イマイチ納得できないなあと思いました。
なんだろ?「盗んだものを返さない、横領しても返さない」が基準なのかな?そこに基準があるから、返すという当然の行為をしただけでも「酌量の余地がある」と好意的(?)に受け取られるんだろうか?
だとしたら、基準の置き場所間違ってないかな?と、俺なんかは思ったりしたんですけれどもね。
酌量される位だから、「当然以上」の反省が必要なんじゃないの?返すのは「当然」の事だろ?と。

原状回復は「なされて当然」ではなくて「なされるとまだマシな方」という事なんだろうか?
それって、なんか嫌だなあ。被害者泣き寝入りかよ?とも思いましたが・・・これは極論かな?
ともあれ、そんなことを考えました。でも、考えてみれば「当然の事」をして情状酌量されることが多いなあとか思います。
過失犯罪なら分かるけどさ、故意犯にそれってどうなんだろうなあ・・・・

他我問題

2008-04-12 | ちょっと考えた事
前回の「俺の思考パターン」という記事を書いているときに考えが及んだもうひとつのこと。

これも、発端はDONTAKTさん経由で

思考速度が遅い理由(遥か彼方の彼方から)

思考についての思考についての思考(ぺったんぺったん)

の両記事を読んで、その時になんとなく思ったことです。

上記の両記事では「自分と同じクオリアを他人も感じているのか?」という「他我問題」に近い、それと似たような部分にまで話が及んでましたね。他人も自分と同じような思考をしているのか?という。
確かに、この手の話題はそういう部分を含みますし、自然とそこにも考えが及ぶところだと思います。

ただ、この手の問題は、たとえ自分と他人で、それぞれに本当は違う世界を見ていようとも、そしてそれを確かめる術がなかろうとも、それは互いにコミュニケーションをとる上ではまったくの無問題であって、コミュニケーションは普通にそのまま成立してしまうので、確かめる必要がそもそも無い。ということで、決着で良いんじゃないかな?と、俺は思ってます。

他人が何を見て・何を感じているのかを、そのまま体験することは不可能ですが、「クオリア」等において「他我問題」が問題となるのは、それによって「障害が発生しない」からこそですからね。
たとえば、同じりんごを見て、お互いに「赤いりんごだ」と言うように。この場合、実際に目にして感じている色そのものが違っていたとしても、それは表面には現れないし、それによって障害も発生しない。
もしここで、コミュニケーションに食い違いが生じ障害が発生したのならば、逆にそれによって差異を発見できるけれど、そうなると逆に「他我問題」なんかは、そもそも問題にすらならない訳で・・・・だから、支障が無いからこそ放っておくのが一番。深入りすると迷路に迷い込むだけ。ってところでしょうかね。

だから、結局は「答えを出す必要は無い」で決着で良いと、俺は思うんですけど、こういう役に立たない(リアル等において、実際に生きていくうえで何か必要になるか?という意味では、特には役に立たないという意味)事ほど、いろいろ真剣に考えてみると、楽しかったりするんですよね。

俺の思考パターン

2008-04-11 | ちょっと考えた事

4月10日、11日のDONTAKTさんで、それぞれ紹介されていた記事。

思考速度が遅い理由(遥か彼方の彼方から)

思考についての思考についての思考(ぺったんぺったん)

の両記事を読んで思ったことですが、

俺は言語でも確かに物事を考える部分はあるけど、それ以外で思考している部分の方が圧倒的に多いかも

と、自分の思考パターンを考えてみて思いました。

上記記事の両者とも、言語で思考している。若しくはそれが主だと書かれていました。と言うことは、こうやって文章を追う感じで思考を続けて行くって感じなのでしょうね。
と、すると俺は真逆ですね。
俺の場合は最初に全体像があります。こういう今書いているこの記事にしてもそうなんですが「これを書きたい、これを主張したい、これを言いたい」という、言いたいこと全体の漠然としたイメージが先にあります。結論が先にあると言った方がいいのでしょうか?
ブログを書くときの殆どがそれで、先に「こういう事を書きたい」という概念が存在していて、いざ記事を書く時になって、はじめてその概念に言葉を当てはめていくという感じです。
だから、書いている最中に
「ああ~もう!。こうじゃないんだよな、俺の言いたいことは。ちょっとニュアンス違うな」
と思い返して、文章を書き直すことは何回もあります(笑)。

それに、そういう思考パターンで考えることが多いから
「ほら、上手く言えないけど、こういう感じだよ。言いたいこと分かるだろ?」
という事も多いです。
これはリアルの会話においてもそうなんですが、「ああ、俺の頭の中のイメージをそのまま直接伝えたい」と、もどかしい思いに駆られる場面って多いんですよ。
言語そのもので思考しているならば、思考していることをきちんと言語化できるはずなんですけどね・・と言うか、言語化どころか、最初から言語で思考してるんですもんね。
でも、俺の場合上記の「上手く言葉では表せないけど、でも、ある概を持っている」という状況になる場合が多くて苦労してます。

論理的に物事をきちんとスムーズに説明出来る人ってのは、きっと言語で思考している事が多い人達なんでしょうね。
きっと、上記の両ブログの管理者さん達もそうなんじゃないかと思われます。

って、今回のこの記事自体も、俺の本当に伝えたいことを100%概念通り言語化できているか?といったら、かなり微妙で自信も無いんですけどね(笑)

でも、それじゃ逆に俺は「思考速度そのものは早い」という部類に入るのかな?まず先に全体像があるわけですし・・・ゴールからスタートするようなもんでしょうか。
でも、浮かんでくるものが早くても、それを言語に変換するのに手間取るから、アウトプットして表面に現れて、そして意思伝達するまでとなると、たいして差は無いのかもしれません。逆に、そこで手間取ることが多い分、駄目な部分が多いかも(笑)

とまあ、以上が俺の思考パターンでした。
参考までに、こんな思考パターンもありますよという・・・そんな話でした。