エッセイ的な何か

エッセイ的な「何か」です。
エッセイなのかコラムなのかダイアリーなのか自分でもよく分かりませんが「何か」です(笑)

TBへのお礼コメントに代えて

2008-04-17 | てきとうなもの・雑記
俺の書いた記事

「愛」と「恋」に関するどうでもいい考察

について、

照れずに語ろう「愛」と「恋」(タケルンバ卿日記)

というTBを頂きました。
まずはありがとうございます。

それにしても、俺は記事タイトル通り本当に「どうでもいい」感じで適当に書いただけなのに対して、かなり多角的な視点からの考察がなされていて、凄かったです。
「あんな適当な記事に、こんなTBもらっちゃって良いのかな~」とすら、思うほどでしたよ。

と言うわけで、お礼と紹介を兼ねてこちらもTB記事としてUPさせてもらいました。

P・S
「はてなダイアリー」さんの記事には、ログインしないとコメント等残せないらしいので・・・gooブロガーの俺にはそういうの出来ませんでした。

わからない5大理由

2008-04-16 | 「生き方」「在り方」みたいなもの
「上手いこと言うなあ」と思ったフレーズ。

『わからない5大理由
1 読まない 2 調べない 3 試さない 4 理解力が足りない 5 人を利用することしか頭にない』

だ、そうです。なるほど、なるほど。
すぐに「わからない」若しくは「できない」という人間の特徴を良く捉えていると思います。特に5番とか。

でも、これ元ネタ不明なんです。
このフレーズだけ紹介されていた文章を見つけて、そこから拾ったものなので、元々どこの、なんて言うサイトからの出典なのか分かりません。
ただ・・「へえ~」と思ったので紹介してみました。
そして、俺自身への自戒も込めて。少なからずこういう部分って自分にもあるかもしれないですからね。

「愛」と「恋」に関するどうでもいい考察

2008-04-15 | 恋愛関連

愛と恋ってそもそも違うのかな?何がどう違うのかな?という素朴な疑問からスタート。
まあ、今回はかなり「遊び」要素強めでお送りします(笑)軽く読み流して頂ければ・・

世間一般には

愛>恋

という図式が成立して認識されている場合が多いと思われます。
「恋が発展して愛になる」とか「ときめく感情が恋で、それを越えてもっと大きく相手を想うことすべてをもって愛」だとか。まあ、様々ありますね。
正直な所を言わせてもらうと、俺はそういうの、「別に愛でも恋でもどっちでもいいんじゃね?」位の感覚で「愛と恋ってそもそも別な感情なのか?」という懐疑的な立場でしたが、じゃあ実際どう違うんだろう?って思ったらちょっと気になってしまって(笑)

まあ、この際だから白黒はっきりさせよう。と思って、そんな時の広辞苑。
「愛」と「恋」ひいてみました・・・・今回は暇なことやってます、俺(笑)

まず「愛」
意味は一つじゃありませんでした。①~⑨まで9つの意味が載っていましたが、「恋愛」関連の「愛」はそのうちの②。

男女間の、相手を慕う情。恋。

と、ありました。恋!?。なんだ、結局、愛=恋じゃないか?俺の読み通りか!?ちなみに、他には人類愛とかそういう意味が載ってます。

で、一応「恋」も調べてみよう
「愛」よりは、意味は少なめ

一緒に生活出来ない人や亡くなった人に強くひかれて、切なく思うこと。また、そのこころ。特に男女間の思慕の情。

だそうです。なんと!!


これは意外な発見でした。
要点をまとめてみます。

・要するに、基本的には「愛=恋」である。
・ただ、愛には「恋愛」感情の他にも兄弟・家族愛等のような人類愛や、動植物への愛等、そう言った別の意味もある。「恋愛」という観点で見れば愛も恋も一緒だが、こういう背景を背負っている分、恋愛においても「愛>恋」とみられる傾向にあるのだろうと推測
・「恋」には、「一緒に生活できない人」や「亡くなった人」へ向けたものとの意味があった。なるほど、そこから「一緒に生活できない人=結婚前の恋人」「一緒に生活出来る人=結婚した夫婦」という分け方ができあがり、それと「夫婦>恋人」という考え方とが混じって「愛>恋」となったのかも
・亡くなった人へ向けられたものも「恋」というのは新しい発見。じゃあ妻に先立たれたとか、夫に先立たれたと言う場合の切ない気持ちも「恋」なのでしょう。
・「片想い」も極論すれば「一緒に住むことが出来ない人」だから、なるほど「恋」だなあ(笑)
・じゃあ、そう言う意味で流れを整理

「片想い」は恋→「両想い・恋人同士」まだ一緒に住んでないからここも、恋。同棲や内縁の妻なんてのはどうするんだろうね?(笑)→「夫婦」結婚してようやく一緒に住める、これで、やっと愛になった!?→「どちらかが他界」愛から恋へ

ふむ。
言葉を厳密に当てはめて考えると、こんな感じになるんでしょうか?(笑)
突っ込みどころは満載ですよね。「同棲・内縁の妻」の場合もそうだし、じゃあ「恋人同士には愛は無いのか?結婚しないと愛は語れないのか」とか、「夫婦でも別居したらどうなんだ?」とか。「死んでも好きだというのは、恋よりもむしろ愛だろ?」とか・・・・えとせとら。
まあまあ、でも今回はあくまで単なるお遊び感覚ですから、気軽に行きましょう。

恋愛感情は恋からはじまり愛になり、そしてまた恋で終わる

で締めてみると、なんだか格言っぽくて締まりの良い終わり方ですし(笑)

と言うことで、本当に「どうでもいい考察」でした。


「入学金未納の生徒を入学式に出席させない」問題について思ったこと

2008-04-14 | 世の中の出来事

今回は時事ネタです。

時事ネタをこのブログで取り扱うにあたっての前提事項

↑こちらの前提で、記事を書きますので参考までに。

最初に、このネタを知ったニュースソースを
千葉の県立高校、入学金未納の生徒を入学式に出席させず読売新聞
入学金未納2人、式出さず=「苦渋の選択」と県立高-千葉時事通信
<入学式>入学金未納の2人、出席させず 千葉県立高毎日新聞
入学金未納の2生徒、入学式に出席させず 千葉の高校(asahi.com)

俺はまず、この学校の対応は「当然のこと」だと思いました。
そして、毎日新聞の記事の中にあった

『教育評論家の尾木直樹・法政大教授(臨床教育学)は「極めて機械的、官僚的対応。学校側は2人だけではなく、生徒、保護者に謝罪すべきだ」と話している。


という一文を読んで、この尾木直樹という人に対して驚きというか、個人的な感情ですが怒りに似たようなものを感じました。要はムカついた。と言うことですが。

学校には全く非は無いでしょう、この件に関しては。

そう思う根拠を述べると、まずは

・入学式当日に必要なお金は3月の説明会で伝えている(毎日新聞)
・同校は新入生159人の保護者に対し、3月上旬に郵送した文書と同月中旬に開いた入学説明会で、入学式当日に入学料5650円や教材費など計9万円を持参するよう連絡。
・入学金などを式の当日に納めてもらうことは、合格証書を送付したときに説明書を同封し、3月17日に行われた入学者説明会でも連絡していた。(asahi.com)

と言うことで、事前にきちんと学校側からは連絡済みだったはずとのこと。決して「寝耳に水」の話ではなく、事前に知っていたならば「いきなりな話で用意できない」という事も無いでしょう。しかも、学校側は説明会・郵送の文書と、2段構えで通知しています。ここまでして学校に説明責任を果たしていないとは言えないでしょうね。
しかも、金額そのものが準備できない場合にも対応して

・経済的問題があれば相談するよう話した。(朝日新聞)
・用意できない場合は分納でも可能と説明した。 (読売新聞)
・、「持参するお金は一部でもいい。分納もできるので、経済的な心配があれば事前に相談してほしい」と伝えたという。説明会には2人の保護者も出席していたという。 (asahi.com)

とのこと。
学校側はここまでしていたのだったら、学校側のとった措置は適切だったと言えるでしょう。「機械的、官僚対応?」ふざけるなと言う話ですよ。ここまでしたのに納めないならば、納めない方にこそ非があるじゃないですか。甘えるなという話です。

とは言っても、もちろん生徒(子供)が悪い訳じゃありませんね。生徒自身は被害者でしょう。誰が悪い・・・そりゃ当然、その保護者。親でしょう、この場合。
きちんと説明を受けた、お金が用意できない場合の事まで説明してもらった、そこまでしてもらって、何もしなかったんだもの。「自己責任」とはちょっと違うけど、親としてやらなければならないことをやらず、その結果として子供に辛い思いをさせたという事でしょ?これ。

何か悪い事をしでかした場合、逆にすべき事をしなかった場合。今回は後者だけど、自己の行為についてはきちんとした「けじめ」はつけなきゃならないと思いますし責任はとらなきゃならない、ペナルティは必要だと思います。
「信賞必罰」ってやつですよ。
ただ、今回の場合は、そのとばっちりが子供に行っちゃったわけで、そこが、かわいそうだと言えばかわいそうでしたが、本来、そうならないためにも親はビシっとしてなきゃダメなんじゃないかと思います。

で、やっぱり俺は学校側の対応は正しかったと思います。
その生徒はかわいそうだけど、この親にはこのくらいしないとダメでしょう。甘やかしちゃダメです。人として自分の行為(不作為含む)には責任を持たないと。


時事ネタをこのブログで取り扱うにあたっての前提事項

2008-04-14 | ブログに関するあれこれ

今日は時事ネタで書きたいと思う件がありました。
ただ、その前に「これは言っておかなきゃなぁ」という前提事項があったので、まずはそれを書きたいと思います。
記事の中で書いても良かったんですが、これから先も時事ネタを取り扱う際には、同じ事が前提事項となるだろうと思ったので、ここで個別に一つの記事として書いておきたいと思いました。そうすれば、毎回毎回同じ事を書かなくても、この記事を参照ってことでリンクを一つ貼ればすみますしね。
・・と、ここまでは前提のさらに前振りでした。

と言うわけで本題に入りますけど、俺が時事ネタを扱う際にはその事案を知った経緯をまず明らかにします。「~新聞の記事より」とか「~放送されたニュースより」とか。
これは、まあ当たり前の事なんですけど、例えば新聞記事を読んで記事を書く場合、その記事は

あくまで○○というニュースを読んで(若しくは見て)感じたこと・考えたことを書いてます

と、言うことです。
一見当たり前の事のように思われるでしょうが、敢えて「読んで」の部分を強調したところに注目してください。
これって、敢えて説明しないと、当たり前の事のようで、でも当たり前のように誤解を受けている部分だと思うのです。

と言うのは、「読んで感じたこと」というのは、読んで字の如く

「その、元になったニュースソースに基づいて考察・思考したこと」

という意味です。それは

必ずしも「その事実について」では無い点

という所に注意が必要です。
ここを混同されて、誤解を受ける場合が多いと思うんです。

世の中で起きている事件事故、様々なニュース。これらの情報を得るのは殆どの場合、新聞なりテレビなりラジオなりのニュース番組やその他諸々・・・要するにマスメディアを通じての事だと思われます。
実際に自分が、その事件や事故があった現場へ直接行って調べたり、見たり、聞いたり、実際に体験したり・・・なんてのは、たまたま偶然にその場に居合わせた場合を除いては、殆ど無いことでしょうし、出来ないことでしょう。普段の仕事や生活だってあるわけですし。
日本国内の事だってそうですし、諸外国の事になると尚更です。
となると、時事ネタについて何かを書く場合は、どうしても、なにかしらのマスメディアによるニュースソースを元にして記事を書くのはしょうがないことであると共に、そうでもしないと個人ブログで時事ネタなんてそもそも書けないと言うことになってしまいます。
そう言うことから、

個人ブログで時事ネタについての考察・意見・感想を書く場合はどうしてもマスメディアを利用することになる、これは仕方のないこと

これが、まずは前提その1になります。

で、ここで一端話は別方向へ向きますが、マスメディアの報道というものは、ある時は行き過ぎた報道だったり、どちらか一方の当事者寄りの報道だったり、有る方向へ世論を向かわせるような情報操作のような感じを受けたり、最悪なのは事実自体をでっちあげたりする場合も、確かに無いわけではありません。
だから俺自身、「マスコミは100%信用できない」とは常々思っているところですし、「どこまで本当だろう?」とまずは疑って掛かる所からニュースは見てます。
でも、とは言ってもマスメディアにおいても、報道が社会に与える影響の大きさ、その意義、重要性、そして報道することに寄る責任等に関しては、プロでやっている以上それなりのものを持ち合わせている事だとは思います。特に時事ネタを扱う報道関連については。
全く有りもしないことを、好きなようにでっちあげてと言うことは、全くの無では無いにしろ、それなりの取材を行った上での事だとも思いますし、前提その1で述べた通り、それ以外知る余地が無いのですから、ある程度は信用しても良いのでは無いでしょうか?100%全てが全て真実とまでは行かないでも、疑いだしたら、世の中のニュースの全てが意味のない物になってしまいますからね。
と言うわけで

100%完全にありのままの真実を伝えているとは言えないかもしれないけど、ある程度は信頼しても良いのではないか?そうでないと、そもそも「ニュース」というジャンル自体が無意味な物になってしまうし、世間の出来事を知ることが出来なくなってしまう。根底から崩壊してしまうということになってしまうので。

というのが前提その2。

と、長々と書いて来ましたが、これで言いたいことの材料は揃いました。
そういう理由から、時事ネタを書く場合はあくまで

「ニュースソースに即して、それによって得た情報について考察をするということ」です。必ずしもその「事実」についてでは無いのです。

だから、予めそのニュースソースを明らかにして「ここから情報を得ました。なのでこの情報に即して俺はこう思います」と言うことを書きます。
と言うことは、当然にそのニュースソースに誤りが含まれていた場合、当然俺の主張も事実に対しては全くの的はずれな物となるでしょう。
もちろん、その場合はそれで間違いは認めるつもりです。

が、「あくまでその時のニュースソースに即しての考察なのだというのが、時事ネタを扱う場合の根本的な大前提なんですよ」と言うことを、記事を書く前にまず述べておきたいと思いました。
そして、だからこそその元となるニュースソース選びも慎重に行って行きたいとは思っているところです。


他我問題

2008-04-12 | ちょっと考えた事
前回の「俺の思考パターン」という記事を書いているときに考えが及んだもうひとつのこと。

これも、発端はDONTAKTさん経由で

思考速度が遅い理由(遥か彼方の彼方から)

思考についての思考についての思考(ぺったんぺったん)

の両記事を読んで、その時になんとなく思ったことです。

上記の両記事では「自分と同じクオリアを他人も感じているのか?」という「他我問題」に近い、それと似たような部分にまで話が及んでましたね。他人も自分と同じような思考をしているのか?という。
確かに、この手の話題はそういう部分を含みますし、自然とそこにも考えが及ぶところだと思います。

ただ、この手の問題は、たとえ自分と他人で、それぞれに本当は違う世界を見ていようとも、そしてそれを確かめる術がなかろうとも、それは互いにコミュニケーションをとる上ではまったくの無問題であって、コミュニケーションは普通にそのまま成立してしまうので、確かめる必要がそもそも無い。ということで、決着で良いんじゃないかな?と、俺は思ってます。

他人が何を見て・何を感じているのかを、そのまま体験することは不可能ですが、「クオリア」等において「他我問題」が問題となるのは、それによって「障害が発生しない」からこそですからね。
たとえば、同じりんごを見て、お互いに「赤いりんごだ」と言うように。この場合、実際に目にして感じている色そのものが違っていたとしても、それは表面には現れないし、それによって障害も発生しない。
もしここで、コミュニケーションに食い違いが生じ障害が発生したのならば、逆にそれによって差異を発見できるけれど、そうなると逆に「他我問題」なんかは、そもそも問題にすらならない訳で・・・・だから、支障が無いからこそ放っておくのが一番。深入りすると迷路に迷い込むだけ。ってところでしょうかね。

だから、結局は「答えを出す必要は無い」で決着で良いと、俺は思うんですけど、こういう役に立たない(リアル等において、実際に生きていくうえで何か必要になるか?という意味では、特には役に立たないという意味)事ほど、いろいろ真剣に考えてみると、楽しかったりするんですよね。

俺の思考パターン

2008-04-11 | ちょっと考えた事

4月10日、11日のDONTAKTさんで、それぞれ紹介されていた記事。

思考速度が遅い理由(遥か彼方の彼方から)

思考についての思考についての思考(ぺったんぺったん)

の両記事を読んで思ったことですが、

俺は言語でも確かに物事を考える部分はあるけど、それ以外で思考している部分の方が圧倒的に多いかも

と、自分の思考パターンを考えてみて思いました。

上記記事の両者とも、言語で思考している。若しくはそれが主だと書かれていました。と言うことは、こうやって文章を追う感じで思考を続けて行くって感じなのでしょうね。
と、すると俺は真逆ですね。
俺の場合は最初に全体像があります。こういう今書いているこの記事にしてもそうなんですが「これを書きたい、これを主張したい、これを言いたい」という、言いたいこと全体の漠然としたイメージが先にあります。結論が先にあると言った方がいいのでしょうか?
ブログを書くときの殆どがそれで、先に「こういう事を書きたい」という概念が存在していて、いざ記事を書く時になって、はじめてその概念に言葉を当てはめていくという感じです。
だから、書いている最中に
「ああ~もう!。こうじゃないんだよな、俺の言いたいことは。ちょっとニュアンス違うな」
と思い返して、文章を書き直すことは何回もあります(笑)。

それに、そういう思考パターンで考えることが多いから
「ほら、上手く言えないけど、こういう感じだよ。言いたいこと分かるだろ?」
という事も多いです。
これはリアルの会話においてもそうなんですが、「ああ、俺の頭の中のイメージをそのまま直接伝えたい」と、もどかしい思いに駆られる場面って多いんですよ。
言語そのもので思考しているならば、思考していることをきちんと言語化できるはずなんですけどね・・と言うか、言語化どころか、最初から言語で思考してるんですもんね。
でも、俺の場合上記の「上手く言葉では表せないけど、でも、ある概を持っている」という状況になる場合が多くて苦労してます。

論理的に物事をきちんとスムーズに説明出来る人ってのは、きっと言語で思考している事が多い人達なんでしょうね。
きっと、上記の両ブログの管理者さん達もそうなんじゃないかと思われます。

って、今回のこの記事自体も、俺の本当に伝えたいことを100%概念通り言語化できているか?といったら、かなり微妙で自信も無いんですけどね(笑)

でも、それじゃ逆に俺は「思考速度そのものは早い」という部類に入るのかな?まず先に全体像があるわけですし・・・ゴールからスタートするようなもんでしょうか。
でも、浮かんでくるものが早くても、それを言語に変換するのに手間取るから、アウトプットして表面に現れて、そして意思伝達するまでとなると、たいして差は無いのかもしれません。逆に、そこで手間取ることが多い分、駄目な部分が多いかも(笑)

とまあ、以上が俺の思考パターンでした。
参考までに、こんな思考パターンもありますよという・・・そんな話でした。


大学のイメージ

2008-04-10 | ちょっと考えた事

gooランキング。今回はこんなランキングやってました

大学に入学してビックリしたことランキング

で、このランキングを見て俺もビックリしました。という話です。

まず先に「大学」に対する俺の持っているイメージ。
いや、大学に限定せずに「大学を含む教育・学問に関するイメージ」と言った方が正解かもしれませんが、俺は

小学校~高校までの教育は学問をするために必要な「道具」(知識)を使いこなせるようになるための訓練をする場。そして、大学とは、高校までに訓練してきた道具(知識)を利用して、自らの疑問を解明するために研究・学問を行うところ。

と思っています。
だから、高校までの授業は、一方的に与えられた知識を詰め込む、若しくは知識の使い方の訓練(数学の問題とか)をするという方法で問題ないと思ってますし、大学からはいよいよ、それら道具を使って本当の学問をする場であると思うんです。
だから、高校までの授業と大学での講義・研究・学問は全く違うのは当たり前。

1位の「試験に教科書・参考書の持ち込み可能」や3位の「授業がいい加減」、8位の「受講する講義を自分で選択する」等を見ると特に思うんですが、大学って意外に

「単なる高校の延長」

と認識されているんですね。

俺は、今だからじゃなくて高校生の頃から、大学というと凄い特別なイメージを持ってたし大学生って大人だというイメージもあったんだけど、今の高校生~大学生になったばかりの人って、大学に対するイメージはこんなもんなんですね。

つまり、個人的に「認識の違いにビックリした」という話でした。


俺のブログも何なんだろう?

2008-04-09 | ブログに関するあれこれ

ブログに書きたい記事があって、それを考えていたら「その前に、この話題にも触れておいた方が良いな」ってことで書いたのが昨日の「カテゴライズ」という記事でした。
そして、いざ記事をかいてみると、書いている途中で元々何を書きたかったのかを度忘れしちゃって、書き終わった頃には「あれ?何を書きたかったっけ?ネタはあったのになあ・・・」という状況、思い出しそうで思い出せない、くしゃみが出そうで出ないような、なんとも消化不良な感じでした。

でも、まあしょうがないので、いずれ思い出すだろうと言うことで、一端そのことは脇に寄せて、ブログ巡りをしていたら、何というタイミング。俺が最初に書こうとしていたネタとかなり近い感じの記事を偶然に発見。それで思い出しました。

うちは何のブログなんでしょうタケルンバ卿日記
これは「るいんずめもりぃ」さんというニュースサイトより

この記事では、タイトル通り自身のブログがどういうジャンルに属している何のブログなのか?という事を話題にされていました。
俺が昨日、元々書きたかった記事というのも、それとは若干方向性が違うんだけど、ほぼ似たような内容の事でしたので、今回はこれからそれを書こうと思います。


俺の場合は、リアルではブログを書いていることを誰にも話してませんし、隠れブロガーというやつですので、「何のブログ書いてるの?」という話題にはなりませんが、最近DONTKTさんを始め、ブログ巡回には各ニュースサイトを利用させてもらってるのですが、こういうニュースサイトの存在に気付くまでは「自分の読みたいブログ」の探し方すら良く分かりませんでした。いや、今でもニュースサイトに頼ってる部分が殆どなので、相変わらず検索は下手だと思います。

というのも、俺は今自分でこうして書いている「エッセイ的な何か」のようなブログを読みたいのです。
と、書くと変な誤解を受けそうなので補足しておくと、別にナルシストとか自分の文章に酔ってるとか、そういうのじゃ全くなくて、そう言うつもりもなくて、こういう思考系?考察系?とでも言えば良いんでしょうか?そういう類の記事。
物事を色々な角度から様々に考えてみるというか、そういうブログが好きなんです。
そして、自分自身そういう方面が好きだから、いざ自分で書く記事もそれを目指そうとする。だから結果として、自分のブログもそっち方面のブログ(を目指しているブログ)になる。ということで、そういう意味で俺のこのブログは「自分で読みたいブログ」だと言うことです。記事の完成度、出来具合はともかくとして、方向性としての話です。

で、だとすれば、自分のブログと同じジャンル・カテゴリーのブログを探してみよう・・・と思った時

「ん?俺のブログって何のブログだ?」

という、「タケルンバ卿日記」の管理者さんと同じ疑問にたどり着いたワケです。
タケルンバ卿日記」の管理者さんの言葉を借りると「真面目な論考」という分類が俺のブログでも一番多いのかな?と、俺も思うんですが、その論考するテーマ自体に統一性は無く、毎回思い付いた事柄に対して考えたことを書いているだけなので、「論考する」という行為意外でカテゴライズするのは難しいかも・・・という、結論になりました。
そして、いざ検索するに際しても、だからといって「考察」や「論考」なんてキーワードを入れてもなかなか上手くいかないんですよね。だって、俺自身もそうだけど、自分で自分の記事に「考察」や「論考」なんて言葉、あまり入れませんから。
こういうキーワードは、第3者的視点の人が、そのブログを評価して使用する言葉だと思われますので、ニュースサイト関連では多く使われているような気がしますが。

実際gooブログでも「ジャンル」というものがあってそこからジャンル検索できるのですが、その中に「考察系」「思考系」「論考系」という類のジャンルはありません。一番近くて「レビュー」ですね。
ただ、その「レビュー」も「映画」「ドラマ」「本」「小説」「マンガ」等々・・・と、微妙に違うんですよね。

だから、結局俺のブログもブログ紹介にあるように、自分自身で
「エッセイなのかコラムなのかダイアリーなのか自分でもよく分かりませんが「何か」です」
という事で、結局よく分かりません。

と、言うことで、相互リンクしてもらってるブログや、すでに自分でブックマークしているブログ意外の検索は、やっぱりこれからも、各ニュースサイトさんにはお世話になると思います。ニュースサイト様々です(笑)
それにしても、ニュースサイト管理者の方は、毎回毎回どうやってあんなに良記事を集めて来るのか・・・そのアンテナの感度の高さには感心するばかりです。


カテゴライズ

2008-04-08 | ちょっと考えた事

物事をカテゴライズする行為というのは、その物事を「分かり易くする」という意味でとても有効な手段だと思います。
始めて触れる場合であっても、あるカテゴリーで検索した結果見つけた物だったりすると、予めおおよその見当を付けられるという効果が考えられるし、既に持っている資料もだたそのまま抱えているよりも、カテゴライズして管理しておくと後に利用しやすいし、分かり易くなります。

ただ、逆にこのカテゴライズという行為に捕らわれすぎて、逆に物事を難しく考えてしまっり、混乱しちゃったりすることもあります。
最近では、自分のこのブログを書いていて「はて?カテゴリーは何に該当するかな?」とか思ったりする事も多いです。
俺の場合、とりあえず頭の中にあるイメージというか漠然とした思考を文字に置き換えるという形でまず先に記事を完成させます。そして、その記事に見合ったタイトルをその後に考えて、最後にカテゴリー及びジャンル(gooブログには「カテゴリー」と「ジャンル」という区分があります。他のブログのシステムはよく分かりませんが、ブログによりそれぞれでしょうね)の区分をします。
そのカテゴライズの部分で、「こっちかな?」「いや、こっちにも当てはまるな」「でも、こっちの方が今回はだとうかな?」とか、そんな感じです。

しかし、よくよく考えてみたら(いや、考えるまでも無いことなんですが)、ブログに限らず、世の中に存在する全ての事物に関して、何かをカテゴライズするというのは、そもそも人間が自分自身にとって、その方が理解しやすく、扱いやすく、整理しやすくするために、自分で後付的にルールを決めて、それに従って区分しているに過ぎない事なんですよね。
世の中は「カテゴライズのルールが既に有りき」で始まった世界ではなく、存在する物はあるがままに存在しているだけ。それをカテゴライズするのは人間の勝手。と言うことです。
だから、上手くカテゴライズ出来ない物なんて有って当然だし、カテゴライズ出来ない物、どのように捉えて良いのか分からないものなんてのも無数に存在します。

ブログの場合を例に挙げましたが、ブログなんて自分で好きでやってて趣味みたいなもんで、そもそも自分でカテゴリーを自由に作成できる分には、多少「?」と思う部分があっても、さほど苦労することも無いだろうし、あまり支障は無いし、大雑把でもたいして問題有りません。
ただ、これが、学問だとか仕事に絡んでくるとなかなかに厄介なものになってくるんですよね。
特にテストなんかでは「次の○○は、a~bのどの種類に分類されるか?」とかいう問題をやった記憶ありますし、仕事でもある統計を取ったりする作業の時に「これって、こっちにもこっちにも被るんだけど、どっちに集計すればいいんだ?」なんて場面があります。

「aにもbにも当てはまる」若しくは「aにもbにもcにもdにも当てはまらないぞ」なんてものも当然あるわけで、たまにはカテゴライズに拘らず「ありのままのこと」はその「ありのまま」で捉えても良いんじゃないか?とか思ったりもするのですが、テストや仕事では正解が求められているので、その正解を覚えないといけません。まあ、幸いにしてそういった物にはおおよそ「正解」というものが存在しているので、それを覚えるように努力すれば良いわけですが、仕事やテストなどと言った必要で覚える分はともかくとして、それ以外の部分、ブログを始めプライベートであれやこれやをカテゴライズする際には

カテゴライズという行為に捕らわれすぎて、逆に物事を難しく考えてしまっり、混乱しちゃったりすることが無いように気を付けよう

と、最近は心がけています。
アクセスアップにばかり気を取られすぎて、ブログを書くのが苦痛になったり面倒になったりしないように・・という事を『「ブログのネタ」は考えない』という記事でも書きましたが、それと考え方の根本は一緒です。
目的と手段を見間違えないように。
カテゴライズが難しいなと思ったら、

ありのままのことはありのまま受け止めてみよう

と思っています。

って、あれ?ブログで書きたいネタが浮かんで、その前提としてカテゴライズの話が必要だなと思って、この記事を書いたんだけど・・・・その元々何を書きたかったんだっけかなぁ?俺(笑)
これを書いてる最中に忘れてしまいました。思い出したら書いてみます(笑)