エッセイ的な何か

エッセイ的な「何か」です。
エッセイなのかコラムなのかダイアリーなのか自分でもよく分かりませんが「何か」です(笑)

少子化問題?

2007-01-31 | ちょっと考えた事

「少子化問題」について。
以前にも、書き込みしたことがありますが(すでに、諸事情で削除しちゃいましたが)、俺はむしろ「少子化」は歓迎すべき自体で、地球規模・全世界規模で環境問題や人口爆発について考えると、「少子化」を推し進めるのが、これからの向かう方向性だと思っています。
社会保障云々・・・・確かに重要な問題だけど、結局それって「目先しか見ていない」と感じてしまいます。
だって、そうでしょ?見立ての甘かった、一昔前の日本政府が作った、社会保障制度の崩れを、なんとか繕おうと必死で、そのために老人を養うべき子供を増やせ・・・って。
俺は、個人的に考え方の方向性が逆というか、昔からの決まった方向しか見えていないというか・・・・、子供を増やすよりも、寿命が延びて、人工比率での割合が増えた「高齢者が活躍する社会」をどうして目指そうとしないのだろう?と、そこが疑問でしょうがないです。
60歳・・・・まだまだじゃないですか。
しかも、定年後まだまだ働きたいという人が沢山居るという話ですし、そういう高齢者がまだまだ活躍して、経済的な面でも高齢者自身が支えるという構図が見えないのかなあ。
政治屋なんて、60歳で「新人」呼ばわりですよ?
まあ、とは言っても、俺自身はなるべく早く仕事を引退して年金で悠々自適の生活を送ることを夢見てますけどね(笑)
俺は早く仕事を辞めたいけど、世の中には働きたい高齢者が沢山居るはずです。

少子化って・・・本当に問題?それ以上に人工が増えすぎである事のの方が、世界規模で見て、よっぽど深刻な問題に見えますけどね。


特技

2007-01-29 | ちょっと考えた事

前回の記事「比較」とリンクする内容ですが、たまにプロフィールなどで「特技」という項目を目にします。
俺は毎回この「特技」という項目を見て疑問に思うことがあって
「いったいどのレベルを持って特技を謳っていいのだろう?」
と感じています。

何事も下をみればキリがないですが、上を見てもキリがないわけで、例えば特技「料理」だとすると、いったいどの程度の腕があって特技を謳っているのかと。
俺からしたら、いわゆるプロ。ある意味頂上付近を極めて初めて「特技」と名乗れるんじゃないか?と思ってるのですが、それだと基準が厳しすぎるのでしょうか?
でも、上には上がいるわけで、中途半端な知識や技能で「特技」を名乗るのはおこがましいというか、そう感じてしまうんですよね。
だから「料理」であれば自分で店を持てるくらいになって始めて「特技」を名乗れるんじゃないかとか、車の運転であればA級ライセンスを持っているとか、英会話だと本当に英語でなんの淀みもなく普通に会話が出来るくらいになってはじめて「特技」と言えるんじゃないかと、個人的にはそう思ってます。

「そんなこと言ってたら特技なんて持てないよ」

俺は、その通りだと思います。
軽はずみに「特技」を謳うべきではないと・・・と言うのも、俺は「俺の特技はこれです」と言われたら、単純にそういうレベルをその人に期待しちゃいますよ?
これは逆も言える話で、俺が「○○が特技だ」と口にした以上は、かなりのレベルを期待されてもしょうがないというか、それで当然だと。
だから、きちんとした自信と実力を備えてからでないと、簡単に「特技」を口にすべきでない・・・と自分ではそう思ってます。
でも、そうすると「なんだおまえ、特技の一つもないのか?」なんて、言われることもありますけど、きっとここは価値観の違いなんでしょうね。
今のところ、特技はありません。


比較

2007-01-28 | 「生き方」「在り方」みたいなもの
ある目標を掲げて、それに向かって取り組む場合、この時の目指すべき到着点というか、正否の判断基準はその自分の掲げた目標であって、要は「敵は己自身」という事になると思います。
一見、当たり前の事に思えますが、いざ現実となるとコレが自分自身の理想との比較ではく、他人との比較になってしまう場合が多々あるように思われます。
わかりやすい具体例を挙げると、例えばテスト。

テスト前に自分で掲げた目標が、例えば80点とします。
そして、その受けたテストはいつもより難易度の高いテストで、結果は70点。
ただ、周囲も軒並み通常より悪くて平均点も低めで、70点でも上位5人以内の成績だった。

具体的な数値で出るという意味で、テストを引き合いに出しましたが、例えばこんな場合。
「80点に届かなかった」と悔やむよりも、「今回は難しかったから」とか「周りもみんな悪かったから」と、周囲と比較して、そして5位以内に入ったということもあって「今回はまあ、それでもよし」とする方向に意志が向く場合が強いんじゃないだろうか?・・・という話です。

と、ある技能・知識習得のための研修を受けた時の話です。
ちょっと理解に苦労した事項や、話を聞いた分では分かったけれど、覚えなければならない事項が多岐に渡り、すべてを覚えきれるのは困難だと感じた部分などがありました。
俺は「自分ではこれだけ吸収しよう」と意気込んでた部分が達成できなかったので、これからの勉強も必要だなと自分への戒めとして感じたんですが、周囲の話を聞くと「最初は誰でもそんなもんだよ」とか「最低○○程度まで覚えれば良いんだよ」とかいう話が殆どで、まあそれもその人の基準がそこにあってそこまでを達成すれば良いと思ってるのならそれで良いんだろうけど、それと+して「どの程度まで覚えた?」とか「だよなあ、覚えきれないよなあ」とか「やっぱりその程度で良いんでしょ?」とか。結構周囲を気にした話題が登ってました。

例えば、順位の付く試験かなにかの為の勉強で、そのうち上位何人に入ればOKのような・・・その為の勉強ならまだしも、最終的にはすべて仕事上必要になる知識というか、そのような物で、他人云々に関係なく自分で覚えなきゃどうしようもない。そんな性質のものなのに、そういう他人と比較して何になるのだろう・・・と。

まあ、要は自分のふがいなさを認めたくないというか、正当化したいというか、ありのままに受け入れる覚悟が不足しているんだろうと言うことだと思うんだけど。
俺も完璧に出来たワケじゃないし、まだまだ勉強の必要性を感じたんだけど、ただ、最低限、それをうやむやにしたくないなあと。自分の不足部分は不足しているとしっかり認めようと、俺はそう思ってます。
戦うべき相手は、他人でなく自分。そこを見失わないように・・・

最近の「ヤレヤレ」な話題

2007-01-25 | 世の中の出来事
最近ニュースで目にした「はぁ~、ヤレヤレ」と思った問題。
そう
「納豆問題」と「給食費未納問題」

なんというか・・・・、本当にあれこれ言うのも疲れるというか、そんな感じですね。一言で言えば「ヤレヤレ」って感じ。
┐( ̄~ ̄)┌ ←こんな顔文字ありますね。まさにこんな感じです(笑)

特に給食費未納問題は、今朝ニュースでちょっと目にしましたけど・・・払わない親へインタビューしてて、その解答が凄い。
・給食も時間割にあるのだから学校が負担すべき
・義務教育だから給食も負担すべき
・まずいから
・自動車を買ったから給食費が払えない
・低所得者で払わない人が居てずるい
      ・
      ・
      ・
     etc

・・・って、じゃああんたは自分の職場で、毎日の自分の昼飯代も必要経費で出せって会社に言ってんのか?
いやいや、こういうのは一部のバカ親の言ってることであって、相手にするのも疲れるな。世の中にはまともな常識を持った親の方が多いはずだ。
こういうのが話題になると、世の中こんなバカな親ばっかりなのかと思っちゃうけど、マスコミに踊らされてはいけない。
でも、こういうバカが増えてきてるのも事実みたいです。
「子供が子供を育ててる」
まさに、そういう感じですね、これを見てると。

ほんと、┐( ̄~ ̄)┌ヤレヤレ
今回は、もうこれで終わり!!怒るだけ疲れますね、ほんと。

動物愛護

2007-01-16 | ちょっと考えた事
恥ずかしながら、「動物愛護法」(正式名称:動物の愛護及び管理に関する法律)なるものが存在すると言うことを今日知りました(笑)
てっきり、今までそういう条例があるものだと思ってましたから、各自治体で動物の保護に関して定めているものだと思ってました。
今日のニュースで、「猫を虐待した42歳の男が逮捕」というのがあって、それで初めて知ったんですが・・・・
確かに無意味な殺生は良くないと思うし、良くないと言うのは実際自分がそれをされたら嫌だから、命あるものをむやみに殺したり、虐待するのをやめましょうというのは悪いことでは無いし、それはそれで良いと思う。
ただ、こういう法律があると「『愛護』の対象となる動物とその他の動物の明確な区分はどこにあるの?」とか「『虫』にだって命はあるけど?」とか、どうにもそう言うことに考えが及んじゃうんですよね。
別に保護することが悪いと言うつもりはありませんよ。ただ、牛や豚などは「食べるために飼育して殺す」からOKだというなら、猫を食べるために殺したらOKなのだろうか?とか考えちゃったりするんですが、「猫を食べるために殺した」と言えば、「さらに酷いヤツだ」という事になるでしょうね?
だとしたら、牛や豚を食べる為に殺すのと、猫を殺す事の差は何なんだろう?とか。
きっと、食肉用に飼育された牛や豚を、いざ殺すその場面を見ると「残酷だ!」とか言う人が多いんだろうなあとか思ったり。その課程を上手く省いて食肉用に加工されて現実味が薄れてから目に付くから、食べる時には平気で食べるけど、きっと殺すシーン見ちゃったら、しばらく食べられないという人多いんだろうなあとか。

改めて、誤解の無いように念のためもう一度ここで述べますが、動物を愛護してむやみな殺生をやめようと言う事には賛成ですし、なにも猫を殺しても問題ないだろうと言うことを言いたいのではないんです。
命の重さというか、他を犠牲にして成り立っているこの世の中の仕組みを考えると、人間の行っている「動物愛護」ってなんなんだろうとか思ったりしてみた。・・と、いう事です。
特に答えはありませんし、そもそも世界の仕組みが他の犠牲の上に成り立つ弱肉強食が根底に有る以上、この種の問題は常に何らかのジレンマを抱えることになるんだと思います。だから、そもそも答えなんて無いかもしれませんが、ちょっと向かい合ってみましたというか・・・まあ、戯言なんですが。
でも、少なくとも無意味な殺生を出来るだけ少なくするに超したことは無いとは思いますよ。だから「動物愛護法」が悪いというつもりは毛頭ありません。


内面は外見に現れる

2007-01-15 | ちょっと考えた事
今日では無くて昨日だけど、美容室に行って来ました。
「一ヶ月以上になるかな?」と思っていたら「前に切ってから40日ぶり」とのこと。
大体一ヶ月+αが俺の髪を切る周期みたいです。
ところで、「人を見た目で判断するな」とか「外見より中身」なんて言葉、たまに聞くのですが、思うに「外見は内面の現れ」でもあると俺はそう思います。
今は「整形」や「プチ整形」なんて言葉も聞きますが、まあ顔の輪郭や造りを変えるのはそうそう簡単に出来ることではないので、顔の造りについてはあまりどうこうと言うつもりはありませんが、髪型あたりはかなり自由に変えることができますね。
そして、どういう髪型を選ぶかもその人個人の自由であって、今の髪型を選択しているのはその人自身の選択によるものなんだから、その人の好みとか性格なんかが大きく反映されて形となって現れる部分が髪型だったりするのでは無いかとも思ったりします。
以前、前のブログの時に「俺は女性の髪はストレートが好み」なんて事をチラっと書きましたが、髪を切ってもらってる最中も、他に客が居なかったのもあって、ちょっとお店の人と好みの異性の髪型の話になんかなったりして「俺の場合髪型で判断する割合が高いですよ。髪型というと外見だけ見て好き嫌いを言ってるように思うかも知れないけど、例えば『俺がこういう髪型が好きだ』と言ったら、『じゃあ彼氏がそう言うならそういう髪型にしようかな?』という人を彼女にしたい。髪型自体に好き嫌いも確かにあるけど、彼氏のためにそう思ってくれるという『気持ち』が嬉しいじゃないですか?」と言ったら、店の人がもの凄く納得して「なるほど。言われてみればそうだ。」としきりに頷いてくれてました。
まあ、向こうは客商売だし、単に合わせてくれただけかもしれませんけどね(笑)
高校生の時なんかも、茶髪に染めて来て先生に注意されて「人を外見で判断するんじゃねえ」とか言ってたヤツも居ましたが、人を見た目で判断して欲しくないのならば、逆になぜ茶色に染める?見た目じゃ無いならお前自身染める必要がないんじゃないか?とか思ったりもしました。
別に、黒だから良いとか茶色はダメだとか俺は言うつもりは無いし、むしろ「髪の色をどうしようと個人の自由だろう?」と俺は思ってますけど、「世間一般に黒い髪は誠実に受け止めてもらえる傾向にある」というのは、もはや常識なので、それを踏まえて黒にするのも、はたまたそれをしってて別な色に変えるのも・・個人の自由ですが、そこにはやっぱりそれを選んだ人間の内面・人間性が表れているんじゃないかなあ・・・と思います。
顔の形とか、身長とか、足の長さとか・・・そういった部分はどうしようもない部分もありますので、そこら辺を捉えて身体的特徴をあれこれ言うのは、やっちゃいけない部分ですね。内面が外見に現れるのは・・髪型、ファッション、そして体型(体重)かな?ここは自分で変えることが出来る部分ですからね。
ただ、髪の少ない人をどういう言うのはまた別問題。それはタブーですね。

恋愛は一種の「奇跡」

2007-01-12 | 恋愛関連
恋愛というものは、当然の事だけど相手があって成立します。
相手も自分と同じ人間。様々な事を考え、様々な価値観をもって行動しています。
恋愛に限らず他人とのコミュニケーション全般について言えることだけど、だからこそ、同じ行動をとっても相手によってはその受け取られ方も違うだろうし、会話にしたってそう。
ゲームと異なり、実際の人間を相手にする場合は確実な「正解」なんてものはないし、人付き合いの難しさというのはその点にあるのだと思います。(常識や慣習、法律などで、これはやっちゃダメだとか、こういう事は人としてすばらしい・・なんて言う、有る程度の基準はあるかもしれませんけど)
こんな事、改めて言われなくても当然の事で、誰でも分かる事だと思いますが、どうにも恋愛の当事者になると、そこが見えにくくなる模様。
恋愛というのは、相互交通であって、いくらこちらが一方的に相手を想っていてもそれだけじゃ成立しません(『片思い』も恋愛と言えば恋愛の一形態ですが、『片思い』では『恋愛が成就した』とは言えませんよね)こちらが相手を想い、相手がそれに答えて相手も自分を想ってくれる。それで初めて成立するのですが、相手がこちらを想ってくれるかどうかは、当然の事ですが、それは相手が決めること。
自分に出来ることは、相手に想ってもらえるよう、自分を磨く努力をすること・・位だと思います。決して自分を好きになるように押しつけることは出来ないし、暴力や脅迫等の手を用いるなんてもってのほか。
自分で出来ることを精一杯した上で、それでも相手に好きになってもらえなかったら・・・そりゃ、諦めるしかないでしょ?と、俺は常々そう思ってます。
「潔さは美徳」っては俺の価値観ですが、そういう自分の価値観からも、ダメだったら素直に諦めるべき。というのが俺のスタンスです。
「相手のことを諦め切れない」という話を良く耳にするんだけど、「諦めきれないもなにも、相手がこっちを思ってくれないならどうしようも無いじゃん?」と毎回思うのですが、仲の良い友人だとなかなか面と向かってそうも言えなかったりして「そっか~、それは辛いね。」位の当たり障りない会話になったり(笑)
どうにも、そう言う状況(恋愛が叶わないという状況)に置かれた人は「努力すれば何とかなる」と思う節があるみたい。「こうすれば相手は俺のことを好きになってくれる」という方法が必ずあると思っているらしい・・・いや、そう思い込みたいだけなのかもしれないけど・・・
相手にしているのは「物」じゃなくて「者」なんですよ。努力ではどうにもならない場合もあるし、いくら想っても受け入れてもらえない事がある。それが人を相手にすると言うことだと思うし、恋愛とは基本的にそういうものだと思う。
俺が好きな、ちょっとばかり昔の某ドラマで
「自分が好きな相手が自分のことを好きになってくれるって、奇跡だよね?」という台詞が忘れられません(一字一句この通りでは無いと思いますが。笑)
まさしくその通りだなあ・・と俺は今でも思ってるのですが、何となく恋愛をゲーム感覚で簡単に考えすぎな人が多いような?と感じる事もあります。
どうあがいてもダメな場合があるからこそ、それが成った時の喜びが大きいわけで、一種の「奇跡」ですよ。「奇跡」(笑)
そう思えばこそ簡単に「浮気だ」「価値観の違いだ」なんて事でケンカになって、すぐに別れ話になることも無いんじゃないかなあとか思うんですけどね。

でも、諦めず何度もアタックを繰り返した結果、最終的に結ばれた・・という場合もあるんですよね。
それについては、俺なりに「多分こいう理由なんだろうな~」という考えはありますが、個人的にはもし俺がそう言う立場なら「潔さは大切である」という自分の信念に基づいて、ダメならばそこできっぱり諦めちゃいます。
まあ、ストーカーとか他人に迷惑を掛けない限りは、想い続けるのも個人の自由でしょうけどね。

予算

2007-01-10 | ちょっと考えた事
今日も風の強い一日でした。天候自体は曇ってたり、時折雪がパラついたり。
風が強かったので「寒い」という印象はあったけど、気温自体は0℃~2℃の表示。雪もたまに霰が降るくらいで積もるまではいかず・・・やっぱり今年は暖冬ですね。

最近車で走っていると道路やら電線やらの工事がやたらと目に付きます。
年度末恒例の光景で、要するに今年度中の予算を使い切ろうと言う事ですね。予算が余ると次の年度の予算が削られるとかいう話を聞いたことがあります。
昔から思ってた事だけど、というか俺に限らず俺の周りの連中もみんな同じ事を言うんだけど、この予算のシステム果たして変えられないものなのか?と言うこと。
今年余ったのなら、そのまま翌年に繰り越せば良いだけの話なんじゃないの?
それに、前年度の予算が余ったから翌年度削るとか、前年度足りないから翌年度増やすとか、そういう考え自体おかしくないか?
毎年毎年やることは違うんだし、たまたま大きな工事など必要ない年度だってあるだろうし、逆に大きな行事などがあって特に予算が必要な年だってあると思う。前年度がどうだからとかじゃなくて、「今年度はこういう予定があるから、それに必要な予算はこれくらい」という形で、その年度の事業計画に沿って予算を決めるのが妥当なんじゃないだろうか?と、素人ながらにそう思うんですが。
だから、前年度云々じゃなくて必要だと思われる年度は多く、そうじゃ無いときは少なく。これって当たり前ですよね?前年度の余ったのなら、それをそのまま繰り越して使えるようにすればいいじゃないかと思うんだけど、その年度に使い切らなきゃ何の不都合が生じるんだろう?そこら辺のところ、正当な理由があるなら是非とも物を知らない俺に教えて欲しいものだ・・と、そう思います。
理解不能なルールですね、本当に。

疑問点の追求と潔さ

2007-01-07 | 「生き方」「在り方」みたいなもの
俺は「納得の出来ないことは、その疑問点はとことん追求する」性格です。
職場などにおいて、上司等と意見が衝突した場合「屁理屈を言うな」というような形で、「力(権力)」で一方的にねじ伏せられてしまうの良くあることですが、かなり嫌な感じです。
一方俺は、自分の中で「潔さは美徳である」という価値観も持っています。
己の非は素直に認めるべきだと思っていますし、そういう人間でありたいと思い続けています。「開き直り」「逆ギレ」などをする人間は俺の最も嫌いなタイプの一つですね。
己に非がある場合は素直に認めよう・・とは思うのですが、納得の出来ない物事に対しては無条件でこちらが退く事はできません。自分は自分でそれが正しいと思うからこそ行ったワケであって、俺の方が悪い、俺の方に非があると言うなら、どういう理由で、なぜ俺の考え・行動に非があるのかきちんと俺を納得させて欲しいわけです。
だから、俺が何かを主張したときにそれに反発してもらっても全然OKだと思ってますし、ひょっとしたら俺に非があるかも知れない。俺がそれに気付いてないだけなのかもしれない。
そう言う場合は、俺を「ぐぅの音も出ない」ほど完膚無きまでに、俺の非を指摘して欲しいと思うし、俺を議論で叩きのめして欲しいと思うし、そして俺に納得させて欲しいと思う。・・俺に非がある場合はね。
ただ、仕事場では、どうにも俺が納得しきれないままに力でねじ伏せられてしまうことが殆どですけどね。そこは「お金のため」と思って我慢することにしてますが。
そういう事で「自分で納得出来る非」ならば素直に認めたいと思う。自分に非があるのにそれを認めない事は、逆に凄く惨めで格好悪いことだと思う。でも、納得出来ない内は当然認める事が出来ないし、そうなるまでは俺も反論するし議論にもなる。
意見が衝突する場合は、単純にとことんまで疑問点追求の為の論争を交わしたいなあと思うのだが、現実社会では役職の上下だとか、論争に憎悪の感情を持ち込んで来る場合が多くて、後の人間関係とか色々と邪魔になる要素があって「純粋な論争」をする機会というのは滅多に無い。
そう言う意味ではブログはバーチャルであり、匿名性が高いからこそ、そのような事が出来る数少ない場の一つかもしれませんね。
今のところ、幸いにしてブログ運営上でそのような論争に発展することは殆どありませんけどね