エッセイ的な何か

エッセイ的な「何か」です。
エッセイなのかコラムなのかダイアリーなのか自分でもよく分かりませんが「何か」です(笑)

過保護社会

2007-02-20 | ちょっと考えた事
たまたまHNKの特集で、公園の遊具が撤去されてどうのこうの・・というのをやっていて、それを何となく見ていました。2~3日前の話です。

公園で遊具を使って怪我をする児童がいて、それで最近は公園からどんどん遊具が撤去されているとのこと。
昨年だけでも、年間で全国3000箇所以上の公園で遊具が撤去されたとか。

この「怪我をして危ないから撤去」って考え・・・俺から言わせたら「アホか!?」と言いたくなります。全く、物事の本質が見えてない。
ようするに、自転車で転んで怪我をしたら「危ないから自転車なんてものは使用禁止にしちゃえ」。道路を歩いていて例えば電柱にぶつかったから「電柱なんて撤去しちゃえ」・・・まさしく、そういう発想。少しでも危険が及ぶ要因があれば、それをそのまま撤去しちゃえばいいという、何とも安易で貧困な思考だと思います。
危険と向き合い、どうすれば危険であって、その中でどう回避すべきなのかといった考えが全くない。
どんな物にだって、場合によっては危険が生じる可能性はあります。例えば調理実習での包丁や図画工作での彫刻刀だってそうでしょ・・・それを、どう使いこなすかが重要であって、「危険だから」と一括りに出来る物ではないと思います。でも、ひょっとして、最近はそういうのもやらせなくなってたりするのかな?

遊具自体に、そもそもの欠陥があって、適正に使用してたとしても必ず怪我をする・・・・そういう遊具なら撤去もわかりますが、そうじゃないでしょ?
俺だって子供の頃は遊具使って遊んだし、怪我も何度もしました。むしろ「なにやってんだ」と逆に叱られた記憶さえあります
まあ、撤去する行政よりも、すぐ「管理責任」だとか騒いで人のせいにしたがる社会風潮自体に「?」と首を傾げることが多い今日この頃。行政側も、なにかあれば直ぐ責任を問われるので、こういう問題があれば直ぐに撤去の方向に動くのでしょう。最近は自然災害ですらそうですからね。

で、そのHNK特集。
最初は、遊具が撤去される事を疑問視した立場で番組を進行していて「お、こっちサイド(俺寄り)の視点からだな」と思って見てたのに、途中からなんだか変な方向へ話がずれて、最後は怪我をしない、怪我をしにくい・・そういう遊具を開発するプロジェクトが動いているとかなんとか、そんな締まらないラストで終わってました。
せっかく自分のブログなので、ちょっと言いたい。
「はぁ?結局お前らも、全然本質が見えてないじゃねえか!!」

俺が思うに、怪我をすることが良いことだというつもりは毛頭無いし、当然怪我なんてしない方がいいに決まってる。
でも、だからといって、怪我の原因になるからと、周囲が神経質になって過保護になりすぎるのは、逆に子供のためにならないと言うか、広い視野で見てみると、子供から自己防衛する能力を奪う結果になるんじゃないかと思う。
ブランコにしろ、滑り台にしろ、ジャングルジムにしろ、高い所から落ちれば当然に痛いし怪我もする。鉄で出来た遊具にぶつかれば当然痛いし、怪我をする。
そんな事は、子供でも当然に分かることであって、そういう「痛み」を経験するから危険であることも覚えて行くんだと思う。
例えば、高いところから落ちても、下にマットを敷いているから安全な設計とか行ってるけど、子供の頃からとにかく「怪我の無いように」という観点からだけで、遊具を作ると、「高いところから落ちたら当然に痛い」という感覚すら鈍るんじゃないか?と俺は思う。

子供であれ、怪我は一種の自己責任的な部分をもたせて、バカなことをして危険な遊びをすれば当然に「危険」というリスクを背負うんだということ、そこを学ばせることも重要だと、俺はそう思う。

交通事故は、毎年必ず起こっている。死者も必ず出る。
交通事故が全くの0であるなんてことは、今の社会では考えられない。
公園の遊具が危険だから撤去しろと言うなら、じゃあ「危険だから車というもの自体廃止しろ」とどうして誰も言わないのか、俺はそれが不思議でしょうがない。不思議でしょうがないし、筋が通ってない。
いや、今の社会車は必要不可欠ですけどね。ただ、公園の遊具の事を撤去しろと騒いで、車が危険だと騒がないのは筋が通ってないだろ?と言うこと。

別に今更俺が公園の遊具で遊ぶわけでもないし、公園の遊具が無くなろうと、俺には直接の関係は無いんですけど、その撤去しろと言う理屈が納得できなくて、ちょっとこうして書いてみました。

恋人募集中

2007-02-18 | 恋愛関連
「誰かいい居ない?」「誰かいい人紹介して」
「いい人」って言われてもねえ・・・・

最近俺の周りでは、「彼氏募集中」の女性が多い。
逆に俺の知り合いの男性は、ほとんどが彼女がいたり、結婚してたり。
「バレンタインデー」の記事では、「女性からばかり告白なんてずるい」というような内容にも少し触れたけど、今までどちらかと言えば「恋人が居ない」と叫んでるのは往々にして男性が多い印象がありました。
「彼女が出来ない」とか、「いい人紹介して」とか「合コン設定して」とか・・・
でも、それは俺が男であって男同士でそういう会話をすることが多いからで、別に男性ばかりがそういう状況なのではなく、女性は女性でそう言う場合も多いんだなあと。男性も女性も一緒だと思う今日この頃。

しかし、「彼氏募集中」って良く言うけど、この言葉ってどうなんだろう?って思うことが良くあります。
「募集中」とは言ってても、しっかり査定する(笑)。それもすごい気合いの入った精査が。募集と言っておきながら、自分の望み通りじゃないと、そりゃもうズバっと一刀両断で「お断りします」。
結局、自分の好みの人じゃないとOKは出ないわけで・・それって募集?

募集するってのは、本来の定員に欠員が出て、それを補充するために必要だからとか、新たに始めるものの定員を募るとか、そういう意味合いだと思う。
だから、必要最低限、著しく不適切な人は排除するけど問題ない限りはOK・・というのが、本来の「募集」と、それに伴う審査なんじゃないかと俺は思ったりするんですが。
定員に対してそれより多数の応募が合った場合に限って、絞らないといけないから、より審査基準を厳しくして優劣をつけたりするんだろうけど、あくまで同時多数応募の場合だと思う。
そうじゃなければ、応募する側は、最初から有る程度の審査基準くらいは示すべき。だって、「来て欲しい」とお願いしてるのは「応募する側」なんだから・・・

でも、この「彼氏募集中」の「募集」って・・・・

これは当然「彼女募集中」にも言えることだと思う。
要するに、俺から言わせれば「おまえ自分で『募集』しておいて、その贅沢さ、わがままさはなんだ!?」と言いたくなる場面がよくあるわけで。紹介した俺の立場はどうなんだよ?みたいな感じで・・・・・
まあ、最近は紹介するようなヤツも周囲にはいなくなったので「ふ~ん、そっか。でもまあ、出会いってのは、こればっかりはどうにもならないからね。良い出逢い有ると良いね」くらいで、会話を流してみたり(笑)

別に、妥協しろと言いたいわけじゃなくて「下手に妥協したくないなら、下手に募集なんて言い方ヤメロ?」と言うことが言いたかったわけです。
なんだか「募集」って、通常よりも「いまならねらい目ですよ」的なニュアンスを含みますから・・・これで誘うだけ誘って、容赦なくダメ出しで終了は、ちょっと嫌な感じです。
多分、使ってる等の本人は気付いてないのかもしれないけど。
「募集」って言っておきながら、採点基準がおもいっきり厳しい人、周囲にいませんか?

「恋愛」よりも「言葉」のカテゴリかな?

「食べ物を粗末にするな」とは言うけれど・・・

2007-02-06 | ちょっと考えた事
粗末にするよりは大切にした方が良いと思う。
「当たり前」だと思うよりは「ありがたい」と感謝の気持ちを持つ方が良いと思う。
これは別に食べ物に限ったことではないけれど、そういう謙虚さというか、そういう心持ちは大切にしたいとは思う。そして俺は、素でそういう気持ちを持てる女性が好きだ・・いや、そこは今はどうでもいい話だけど(笑)

普段口にする食材。
おそらく、スーパーやデパート、他には八百屋さんなり肉屋、魚屋・・・ともかく、どこかかしらのなにかしらの「店」から購入しているのが大半だと思います。
自給自足・・な人も居ないことは無いと思いますが、今回は「店から買っている」という前提で話を進めたいと思います

お店のシステムとしては、仕入れて販売。
当然事前に注文を受けて、受けた個数を仕入れるワケではないので、おおよその、最近の売り上げなどからの予想で仕入れをしますね。ただ売り切れは困るから、多めに仕入れる。そしていざ販売し、売れ残ったら・・・・そう、全部廃棄処分です。
「食べ物を粗末にするな」と口にする前に、自分で食材を買っている店のこういう行為をどう考えるか?ということ。
でも、いざ注文制になって注文の数だけしか仕入れない・・等ということになったら、売る側も買う側も不便でしょうがないし、生活のあらゆる面で支障が出てくると思う。欲しい物が欲しいときに手に入らない。
無駄を省くという意味では、重要にぴったりの供給ということが理想だけど、競争社会ではそうも言ってられない。たんなる理想論にすぎない。売る側も買う側も、それが分かっているから、今のシステムで社会はなりたっていると思う。
それじゃ売れ残りは社員で分ければどうか?
これは不公平を生じるために、出来ない。
無駄にはならないが、企業としては一部にそういう不公平を生んではいけないし、企業として業として行っている事に「私情」を挟めないということも有ると思う。個人経営の商店ならば有りだけど。だから、売れ残りは廃棄する。
それはもう情け容赦なく廃棄処分。

さて、ここでもう一度考えてみる「食べ物を粗末にするな」
企業のしてることは許される?不公平を生まないための、仕事の一環だから?
企業の目的は利益追求、いわゆる金儲け。
金儲けの為なら粗末にしていいの?
さて、現実問題としてはしかたのない部分があるとはすでに述べました。別に企業を責めたいわけじゃありません。本当に一切の「粗末」を無くしたいならば、今の社会そのものを捨てて自給自足の生活に戻るより他は無いだろうし、それこそ無理な話。
で、かといって「だから食べ物は粗末にしてもいい」と言いたいのでも無い。それは冒頭で述べました。

「じゃあ結局何が言いたいの?」

俺なりの結論
「食べ物を粗末にするな」というのは、正論。粗末にするよりは大切にした方が良い。
ただ、世の中にはそういう現実もあるということ。
生と死、生かすと殺す・・「食べるためなら殺して良いの?」という疑問と同様、人間は常にこういう部分矛盾を背負っていると言うこと。そこを認識した上で発言したほうがいいんじゃないかな?と、そういうことです。
俺はまだ独身だけど、例えば自分の子供が結構捻くれてたりして(笑)自分が子供に「食べ物を粗末にするな」と言ったときに、今回のような点を突いて反論してきたらどう答えるべきか・・・・などと、そう言うことを漠然と考えたりして、ちょっと書いてみました。