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恥ずかしながら、大学は国文科だった。何がやりたくて国文を専攻したかったかというと、実は、「文体」がやりたかったのです。たとえば、夏目と鷗外は、文体が違う。何行か読むとそれがわかる。いったいその違いはどこから来るのかを知りたかったのである・・・しかし、卒業論文の課題を決める段階になり、それを考えるのはあまりにも難しいということに気づいた。ま、そういうわけで、卒論は、形容詞の名詞化接尾辞における意味の相違についてなんてところで、お茶を濁してしまった。難しそうに聞こえるけど、100マイルくらい逃げてしまった訳です。
画家がその人らしさを一目でわからせるように、プロの技は、「その人」であることが大切だ。文章もまたしかり。ああこの人のなんだわって思わせたら、もうプロの領域に片足を突っ込んでいる。しかし、文章には、色や音がないので、なかなか大変な技である。漢字、ひらがな、カタカナのバランス。語彙、句読点の打ち方、文の長さ。これらが、その人らしさを決める要素となるのだろうが。
私はなかなか気のきいた、おしゃれな文章はかけない。だが、文を書く上で気をつけていることは、ある。
まず、第一に、書き過ぎないということ。文を書いていると、これで本当に伝わっているのだろうかとか、本当はこんなことも知ってるし、こんなことも書きたいのさと、過剰に自分を出してしまいたくなる。そういう文は、後で読み直すと、「わかって、わかって」が表に出てしまい、「とてもうるさい」ものになってしまっている。伝えたいことは、できるだけ短い言葉で書くべきだ。そのために、どの言葉が一番、自分の気持ちに近いのかを丁寧に選んでいかなければならない。それを怠ると、グダグダと長ったらしい説明になってしまう。そうして、「普通の文」を書こうと心がけることが大切だ。これは私の好みなのだが、文章は、文字だけで伝えられるべきものだと思う。だから、絵文字は入れずにいたい。絵文字を使えば簡単に「らしい雰囲気」を表せることも多いが、それにより損なわれてしまうものは少なくない。どうしても、特別な意味合いを持たせたいときは、「ゲンセンチョウシュウ」のように、ひらがなやカタカナで書いてみたりすればよい。しかし、それも、極力少なくしたい。文字が主張を強くすれば、それが先走ってしまい、内容が薄れてしまうからだ。同様に、行間を空けるのもなるべく避けたい。話題が転換するときはやむをえないが、あまりに空の行が多いのも、かえって息苦しいし、過剰な余韻を求められているようで、重ったらしい。
ちょっとした工夫をするといえば、通常は打たないところに読点(、)を打つことで、息遣いを表したり、長い形容詞を作ったり(うすら悲しい、というようなもの)することぐらいだ。
装飾過剰な文章というのも確かに面白い。しかし、それは凡人向けではないような気がする。体の中にリズムを持っている人の過剰さは面白いが、そうでない人は、むしろ装飾しない文章を書く方が、いいのではないかと思う。
読み返してみると、どうも私は色気のない文章しかかけない「心がけ」を持っているようだなんだなあ。よそのブログを読むと、世の中には随分、面白い文章を書く人が多い。よその方々はどんなことに気をつけて文を書いているのかちょっと聴いてみたいな。
画家がその人らしさを一目でわからせるように、プロの技は、「その人」であることが大切だ。文章もまたしかり。ああこの人のなんだわって思わせたら、もうプロの領域に片足を突っ込んでいる。しかし、文章には、色や音がないので、なかなか大変な技である。漢字、ひらがな、カタカナのバランス。語彙、句読点の打ち方、文の長さ。これらが、その人らしさを決める要素となるのだろうが。
私はなかなか気のきいた、おしゃれな文章はかけない。だが、文を書く上で気をつけていることは、ある。
まず、第一に、書き過ぎないということ。文を書いていると、これで本当に伝わっているのだろうかとか、本当はこんなことも知ってるし、こんなことも書きたいのさと、過剰に自分を出してしまいたくなる。そういう文は、後で読み直すと、「わかって、わかって」が表に出てしまい、「とてもうるさい」ものになってしまっている。伝えたいことは、できるだけ短い言葉で書くべきだ。そのために、どの言葉が一番、自分の気持ちに近いのかを丁寧に選んでいかなければならない。それを怠ると、グダグダと長ったらしい説明になってしまう。そうして、「普通の文」を書こうと心がけることが大切だ。これは私の好みなのだが、文章は、文字だけで伝えられるべきものだと思う。だから、絵文字は入れずにいたい。絵文字を使えば簡単に「らしい雰囲気」を表せることも多いが、それにより損なわれてしまうものは少なくない。どうしても、特別な意味合いを持たせたいときは、「ゲンセンチョウシュウ」のように、ひらがなやカタカナで書いてみたりすればよい。しかし、それも、極力少なくしたい。文字が主張を強くすれば、それが先走ってしまい、内容が薄れてしまうからだ。同様に、行間を空けるのもなるべく避けたい。話題が転換するときはやむをえないが、あまりに空の行が多いのも、かえって息苦しいし、過剰な余韻を求められているようで、重ったらしい。
ちょっとした工夫をするといえば、通常は打たないところに読点(、)を打つことで、息遣いを表したり、長い形容詞を作ったり(うすら悲しい、というようなもの)することぐらいだ。
装飾過剰な文章というのも確かに面白い。しかし、それは凡人向けではないような気がする。体の中にリズムを持っている人の過剰さは面白いが、そうでない人は、むしろ装飾しない文章を書く方が、いいのではないかと思う。
読み返してみると、どうも私は色気のない文章しかかけない「心がけ」を持っているようだなんだなあ。よそのブログを読むと、世の中には随分、面白い文章を書く人が多い。よその方々はどんなことに気をつけて文を書いているのかちょっと聴いてみたいな。
私は、書き手のレベル・読み手のレベルで感じ方が変わると捉えてます。
ですから、新聞記事じゃないですが、大きな文字で、息がつけるよう自分自身が読みやすいようにと配慮しています。目で追うことが辛くなっています。センテンスも短い方がいいな。
でも文字サイズは変えられませんね。
主義主張がはっきりしているときと、そうでない時。はたまた何も考えず打ち込み始めて思いつくままに書くときとで、文体も句読点の数も、改行の度合いも、空行数も変化しています。
きっと体の中にリズムを持っていない自分は不可解で面白くないでしょう。文体や歌手の抑揚はリズムであり癖であり個性だと思います。
自分の頭の中でこの人はこういう人だと整理がつくアイデンティティが明確な人は覚えやすく、毎回気楽に読めるのでしょう。
けんちゃんのを読んでて気づいた。上のは、自分の文章について書いたんですが、私は、自分の思い入れ過剰なとこが、息苦しいんですよね。自分で書いてて、おなかいっぱいになっちゃうんですよ。あらまあ、こんなに思い入れたっぷりに書いちゃって、って自分が恥ずかしくなっちゃうんですね。でも、あんまり、みっちり空行なしで書いてる私のも、別の意味で息苦しいかなと、思う。精進いたしまする。
>自分の頭の中でこの人はこういう人だと整理がつくアイデンティティが明確な人は覚えやすく、毎回気楽に読めるのでしょう
その通り!!確かに、そういう文章って読みやすい。でも、だからといって、そればっかりが言い訳でもないってのが、面白いとこでもあるんだけどね。
ブログの文章を書くとき一番わたしにとって大切なのは、楽しんで書く、ということ。あるいはストレス発散とか。
って、えらそうなこと云って、別に文章がうまいわけじゃないんですけど。
今電車のなかで、これから国語ゼミに行ってきまーす。
すまん、誤変換ですね。粗忽ものです。特に、コメント欄は、私、多いです、誤変換。
師匠に支障をきたす(う、うつってきた)
ギビさんの文章はとってもいい。ゼミなんてとる必要があるの?って思う。どなたかが「ギビ節」と言ってらしたけど、たまらなくいいと思う。
内緒で聞きたいこと。ものすごくギビさんの文章が好きなんだけど、どのお話も後半6分の1くらいが、なんとなく、現実へのフィードバック部分になってるよね。あの部分がないほうが私としては、好きなんです。ぼんやり終わってしまうような不安があるんでしょうか?
あくまでも、私の好みだから、深く考えないでね。
でも、本当にファンです。大作家になって、サインをください。
夢のなかから出られないお話をかいてみました。
ギビ節、とか云ってもらえるのはほんとありがたいです。
わたしの書くお話の大半は電車の中での空想や寝ているときの夢から生まれます。だから現実に帰ってくるのかもしれませんね。
てゆーか夢オチ。
私レベルで読みきれるわけがないのが、納得です。
文体とか技とか・・・
すごいなぁ。
文章は大のにがてなんで、箇条書きにするんですが、
それでも、意図を明確にするのは、だめー。
あー、ためいきばかりなり。
こちらの blog で、修行を積みたいと思います。
トラックバックありがとう。
今すぐ、君のところに行くよ。
お話を送ってくれるなんて、
すぐ、君のところに行くよ。
とにかく、文は、わからなくては意味がない。
だから、わからない文はだめです。
伝えたいものがあるから、文を書くのだから、わからなければ伝えられないから、わからなくてはダメです。
私も、修行させていただきます。