うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

神の眼

2006年05月15日 | 語る!
神を信じる意味というのは、神様の眼で自分を見てみるという練習なのだろう。神がいるとかいないとかは問題ではないと思う。
自分はいつも直線でしか自分や周りを見ることが出来ない。Iがamであり、Youがareであり、それ以外の他者は、isでありという自分の視線。私は(am)で、特別なあなたは(are)だけれど、それ以外は一緒くたの(is)。たくさんいれば(are)であるという視線である。(I)である私は、いつも(you)を自分の輪の中に入れ、一直線の視線を結ぶ。そうして他の(is)の人を輪の外に置く。いつも私はあなたへと向かってしまう。輪の中にいるあなたが私を見てくれていなければ、この輪は意味のないものになり、(I)も意味を見失う。それを、神が見たらどう見えるだろうと考えてみようとするところに意味がある。高い高いところにある神の眼で見れば、すべては(is)である。そう考えて、神の眼で自分を見れば、随分、楽になるところがある。自分をも含めて俯瞰したら、自分が誰かのためとか思ってしていることも、結局は「自分がしたいと思ったこと」であり、その意味で、「自分のためにしている」ことであるということが分かる筈だ。「自分のためにしていること」なのであるのだから、その思いが伝わろうが、届かざろうが、それは「私の悲しみ」にはなっても、「相手の責」ではないのだ。輪はいつでも、違う場所で結べるのだ。
折に触れ、神のいない時代というものを考えることがある。神が見えない時代といってもいいだろう。長い間、人間は神を心に持っていた。それは、神が存在するとかしないとかということではなく、そう思って生きていくのが生き易かったからだろう。神のようなものを考えずとも、きちんと生きていける人はそう多くはない。しかし、今の世の中で神を信じることは難しい。神の眼で見るという練習の場を失った私たちは、[I〕と〔you]に縛られ、そのくせ迷子のようだ。深夜の店に人は溢れ、部屋は散らかされたままになり、職を持たず、今日の享楽のみを求める。報われぬ好意は報復と変わる。
私たちは俯瞰の眼を持てなくなっている。「罰が当たる」とか、「お天道様に申し訳ない」とか、そんな言葉はかび臭くなってしまっている。知恵なき貧しき人という生き物が、この世に生きながらえる杖であったはずの「信仰」が見えなくなっている今という時代。私たちが持つべきものは何なのか。聞きなれた「神」が見えないならば、何を「神」とすればよいのか。
知恵のない人、杖のない人が救われぬ流れが加速していると、私には感じられてならない。そうして、知恵や杖を持った人の一部が、持たざる人を利用し「持たぬことが悪い」といって憚らぬ流れが渦巻いている。
楔を打ち、土嚢を積まねば、堰は切れかけている。それはあまりに悲観的な考えに過ぎるのだろうか。
コメント (16)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする