うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

ソーホーコーセーとしてのブログ

2006年01月13日 | ことばを巡る色色
お正月でしたね。日本中。さ、そろそろ、書き始めましょう。

何かのウンメーで、ブログを書くことになり、早、250日。ちょっと、振り返ってみましょ。
ブログってなあに。

自分がブログを始める前まで、ブログって、新しい形の一般人からのニュースだと思っていた。マスコミ等が伝える「ブログ」ってのが、アメリカで盛り上がっている(マスメディアではなく、それぞれのインサイダーからの情報提供と、それへの、他分野のインサイダーからの情報再構築)というものであり、私の理解もそんなものだったからだろう。たとえば、マスメディアでは少子化が問題視されているが、産婦人科医から見た少子化の問題点はこうだとか、保育士から見たらこうだとか、そういったものとしてブログをとらえていたわけだ。それはブログが、
・個人による情報発信
・それに対する双方向の情報交換
・情報交換による、情報提供者間のコミュニケーション
を容易に可能にするものだからであろう。
今までのマスメディアが提供する情報は当然一方向的なものであり、それに訂正を加えることも、感想を加えることもできなかった。その意味でブログは新しい情報発信手段としては、優れたものだ。

さて、私たちは、ブログによって、果たして「欲しい情報」を「欲しい形」で得ることができるようになったろうか。当然、「欲しい情報」は、十人十色であり、それがすべて満たされることがないのはわかっている。一台でも多く商品を売る方法だったり、明日の石神井公園のイベントだったり、心温まるおとぎ話だったり、当たる馬券だったり、たとえそれらのひとつでも満たされ、そうして、その書き手、読み手と、コミュニケートしながらより精度の高い情報へと育てていくということが今のブログによってなされているのだろうか。
貴重な情報を教えてくれるブログはある。私の知らない世界を見せてくれる。しかし、そこに読み手と書き手によって、「命のある議論」がなされている形跡はなく、読み手はみな観客だ。
確かに、読み手と書き手が熱く言葉を交わすブログはある。しかし、それは、個と個のコミュニケーションであり、今日学校であった友達とメールしてるのと変わらない。知ってる同士(会ったことはなくても)が、馴染みのおしゃべりをしているのだ。
まったく知らない人の情報に触れることはできる。しかし、その目的はなんだろう。その人との「コミュニケート」を新しくはじめようとしているだけではないのか。「出会いたい」という目的ではないのか。
確かにインサイダーの情報は、「日記」という形で公開される。だが、それは、個人の日々の営みであり、自分と楽屋に向かって書かれる。。「野次」はあっても、「議論」は、本当にわずかだ。

そう、そうなんだ。「新しい形の双方向情報発信」なんて、日本のほとんどが、求めていないのかもしれない。求められているのは、「コミュニケーション」「ふれあい」なんだな。
求められているのは、「完全無欠な情報」なのだ。「双方向の議論」なんかではなく。

不特定多数に向かって「書く」ということは、かつて職であった。「語部」といわれるように、何代もの血脈をささげる技であった。それが今、私のような下々にまで降りてきて、私は不特定多数に向かっている。私はそれに対峙したいと思っているが。そんな堅苦しいことは言わんでも、という考えも多いだろうが。

硬い語り口になってしまったが(次回はやわかいお話にしますね)
ブログよどこへ行く?と私は思っている。
コメント (4)
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