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大学院であまり役に立ちそうもない勉強をしたり、陶芸、歌舞伎・能、カメラ、ときどき八ヶ岳で畑仕事、60代最後半です。

清少納言(6)<この草子、目に見え心に思ふ事を>

2005-11-02 01:50:00 | 文学・文芸・芸術
枕草子論も大分長くなったので、今回と次回で収束することと
したい。今回は、枕草子の文体と、成立過程、そして宮仕え論
について考えてみたい。

<枕草子の文体と独創性>

枕草子は、清少納言の自由で、独特な形式の随想文学というこ
とになっているが、長短三百余の章段から構成されている内容
は、日記回想章段と類聚(るいじゅう)章段と随想章段に分ける
のが一般的である。

このうち、類聚章段とは、「うつくしきもの」、「あはれなるもの」
や、「山は」、「木は」などのように、ある標題のもとに次々と
連想を繰り連ねるもの、を指している。先に一般的、といったが、
中には単純にこの三つに分類しがたいものもある。
有名な「春は、曙」などは類聚ともとれるし、随想ともいえる。

一般的に類型化された美観としては、既に、桜に鶯、長雨の中の
不如帰、龍田川の紅葉、人気のない冬の山里、などは伝統的な四
季の構図である。しかし、清少納言は、新しい組み合わせの美を
独自の発想に基づいて創ったといえる。代表的なものとして取り
上げられるのは、(その1)の冒頭に載せた第一段、

「春は、曙。やうやう白くなりゆく、山ぎは少し明かりて、
 紫だちたる雲の細くたなびきたる。」

であろう。この時代としては例を見ない、自由な発想と独特な
表現形式であったのである。


 <<<和歌より散文<<<

清少納言は、歌よりも散文の方が好きであることは、枕草子を読
めば明白であるが、むしろ、あまりにも歌人として高名な父元輔
をみているため、和歌の後継としては気が引けたのではないか。
宮廷王朝文学では必ず和歌で返す場面でも、清少納言は何ヶ所
かでいろいろ言い訳を云って詠わず、見事な文章で返している。
いや、そうではなく、独創的な文章がうまいことに対しての溢れん
ばかりの自信がそうさせたのかもしれない。

第二百二十八段、
「・・・中略・・・、夜ふけて、月の窓より洩りたりしに、人の
 臥したりしどもが衣の上に、しろうてうつりなどしたり
 しこそ、いみじうあはれとおぼえしか。さやうなるをり
 ぞ、人歌よむよむかし。」

(ある晩秋、奈良の長谷寺に参詣する途中の小さな家に
 泊まり、深夜、ふと目を覚ましたときの情景)

深夜、窓からさしこむ月光が、眠っている人々の夜具を
しらじらと照らし出す。夜のしじまの中の旅の仮寝の心
細さよ。普通なら、こんなとき、人は歌を詠むだろう。
     *****
ここで終っていて、歌は詠まない。しかし、私(清少納
言)には歌ではなく、散文によって、和歌に匹敵する興
趣を紡ぎだすことができる、という強い自負が込められ
ているのである。


<<<資質と定子の存在<<<

枕草子は、清少納言の資質によるものであるが、同時に、
中宮定子に巡りあうことによって花開いたものである。
各章段を読み解くうちに、清少納言は自分より年若い
一条天皇中宮定子の高貴さと、理知的でありながら機知
とユーモアと慈愛に満ちた人間性に魅了され、圧倒され、
そして、深い敬愛の眼差しで定子に仕えたことが想像で
きる。その一点に集約した気持ちが枕草子となって凝縮
されたものである。


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<枕草子の成立過程>

この随筆はどのような心境でかかれたものであろうか。
最後の跋文(ばつぶん、三百十九段)には、次のように
書かれている。

「この草子、目に見え心に思ふ事を、人やは見んとすると
 思ひて、つれづれなる里居のほどに書き集めたるを、
 あいなう、人のためにびんなきいひすぐしもしつべき
 所々もあれば、よう隠し置きたりと思ひしを、心より
 ほかにこそ漏り出でにけれ。」

簡単に言うと、私の目にふれ心に感じたことを、とりと
めもなく書き集めたもので、他人には不都合な文言もあ
るので、隠しておいたのだが、いつの間にか、世間に
洩れてしまった、ということである。

その後に続くことばとして、世間の常識にとらわれずに
自分の思うままに書いたので、・・・・・ 私の心の浅いこと
を見透かされるようで、心配だ。左中将(源経房)が私
の里に来られたときに、うっかり敷物と一緒に出してし
まったために、流布してしまったものらしい。

    *******

後にこの原本は返却されたが、これが広まって、評判と
なっていったもののようである。今我々が読んでいる物
には、その時点(多分、996年、長徳2年ごろ)以降
の出来事も含まれているので、その後も追補して、中宮
定子がなくなった後、1001年(長保3年)頃の完成
ではないかと推測される。



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<宮仕えについて>

二十四段
「おひさきなく、まめやかに、えせざいはひなど
 見てゐらん人は、いぶせくあなづらはしく思ひやられて、
 なほさりぬべからん人のむすめなどは、さしまじらはせ、
 世のありさまも見せならはさまほしう、内侍のすけなど
 にて、しばしもあらせばや、とこそおぼゆれ。」

意味は大体、次のようになろうかと思う。

「将来性がないからといって、ただ真面目に(夫や子供の
 幸福のためだけに)生きているような人は、私には納得
 がいかないし、軽蔑する。やはり、それなりの身分の人
 の娘などは、宮中に出仕し人々と交わらせ、世間の有様
 も見せて慣れさせ、内侍のすけ(後宮の組織)などにて
 しばらくお仕えさせておきたいものだ。」

 さらにつづけて、
「宮仕えする女性を軽薄で良くないという男性こそ問題だ。
 もっとも男性がそのように言うことについては無理から
 ぬこともあるが、・・・中略・・・
 宮仕えした女性が国守の妻となり、夫が五節舞姫を出す
 ことになった時などには、田舎暮らしで宮中の慣わしな
 どを見たこともない夫に内助することは奥ゆかしいもの
 だ」などど述べている。

 五節の舞とは、新嘗会・大嘗会の豊明節会(とよのあか
 りのせちえ)の五節の舞に舞姫を公卿と受領とが出す習
 しがあった、とのこと。宮中の模様としては九十段に記
 載がある。
 
   **************

清少納言は、当時の女性としては、相当先進的な考え方
の持ち主であったと思われる。中略とした部分を含めて、
1000年前の女性が、現代女性が言うようなことをズバリ
発言しており、驚く。

つまり、これが、清少納言の「宮仕え論」なのである。
現代風に言うと、開けている、ということか。もっとも
この、家に収まらない先進的な考え方が、武勇の聞こえ
ある夫、橘則光との離婚の原因だったのかどうかは分か
らない。

ついでに云うと、この段の最後のことば「・・・奥ゆかしい
ものだ」は、原文では、「心にくき物なり」である。

これが清少納言の宮仕えに対する出仕前の考え方である。

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この章、終わり。次回は最終章。

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