悠々time・・・はなしの海     

大学院であまり役に立ちそうもない勉強をしたり、陶芸、歌舞伎・能、カメラ、ときどき八ヶ岳で畑仕事、60代最後半です。

建築家・吉村順三の「ことば」

2005-12-12 14:27:00 | 文学・文芸・芸術
   


    <東京藝術大学名誉教授・文化功労者吉村順三の
        グーリーティングカード「森の中の家」>

       ローマ字のサインは、
       お嬢さんの隆子さん(チェリスト)
       奥様の多喜子さん (バイオリニスト)
       本人順三

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       奥様とは、太平洋開戦直前の1941年、順三が
       アメリカから日本へ帰る船(竜田丸)に乗り合わ
       せていた。奥様は留学先のアメリカ(ジュリアー
       ド音楽院)から帰国の途中。


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  <吉村順三のことば>

  「朝日ジャーナル」1965年7月11日号


   建築家として、もっとも、うれしいときは、建築ができ、そこへ
  人が入って、そこでいい生活がおこなわれているのを見ること
  である。

   日暮れどき、一軒の家の前を通ったとき、家の中に明るい灯
  がついて、一家の楽しそうな生活が感ぜられるとしたら、それ
  が建築家にとっては、もっともうれしいときなのではあるまいか。

  家をつくることによって、そこに新しい人生、新しい充実した生
  活がいとなまれるということ、商店ならば新しい繁栄が期待さ
  れる、そういったものを、建築の上に芸術的に反映させるのが、
  私は設計の仕事だと思う。つまり計算では出てこないような人
  間の生活とか、そこに住む人の心理というものを、寸法によって
  あらわすのが、設計というものであって、設計が、単なる製図
  ではないというのは、このことである。 


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朝日ジャーナル寄稿文
   <建築と設計ー私はなぜ新宮殿の設計から手を引くか>


1960年、吉村順三は、「皇居新宮殿」の設計者に選定され「基本設計」
を完成させたが、「実施設計」の段階に入ってから宮内庁が、後は宮内庁
営繕部が行う、として、基本設計者の設計の趣旨が変形されていったため
吉村は設計者の立場を明確にするために辞任した。

  吉村順三の芸大時代の教え子、
    永橋為成中央設計事務所元代表取締役の著書によると

    シンプルにして日本の宮殿に相応しい雰囲気を醸し出そうと
    する吉村にとって、ヨーロッパ流の飾り立てた宮殿という
    考えをよしとすることはできなかった、という。

   「建築設計の仕事は大ぜいの人々の協力のもとに終始一環、
    ひとりの設計者の責任においておこなうことが正しいと、私は
    信じている。ことに、宮殿といったような、芸術的性格をもっとも
    必要とする建物においては、この原則は必ず守られなければ
    ならないと思う。なぜならば、宮殿は、真の創作でなければ
    ならず、またすべての創作は、これを創造するものが、一貫
    した誠意と熱情をかたむけて、最後まで仕事をすすめていか
    なければならないからである。」(朝日ジャーナル)   


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    <昨今の状況を振り返り>

   誰が責任を持っているのか分からないような無責任な設計体制、
  きれいな言葉で飾り立てているが、その実、心の通った思想のな
  い設計、人命を軽視した違法建築の横行、を思い、吉村順三の
  人間的な「ことば」を今一度思い起こすべきであろう。 


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