友愛労働歴史館の解説員便り

当館は2009年8月で一時休館いたしました。しかし資料の収集・研究、PR活動等は継続します。再開は2012年8月1日!

西尾末広生誕の地、女木島での「原点の集い」に参加!

2007-09-18 14:12:42 | Weblog
■西尾末広の生涯とそのメッセージについて特別報告!
 9月15日、香川県高松市の女木島で行われた「原点の集い」に参加してきました。「原点の集い」は、旧民社党青年部有志が毎年開催しているもので、女木島にある西尾末広氏銅像の清掃活動を中心とする集いです。女木島は高松市の沖合いにある小さな島で、鬼が島物語(桃太郎の鬼征伐)で知られています。
 私は今回の「原点の集い」に招かれ、「戦前期の西尾末広とその周辺の人びと」と題する特別報告を行いました。また、友愛労働歴史館の活動などについても紹介を行ってきました。
 西尾末広氏は民社党創設者として知られますが、同時に戦前からの労働運動リーダーでした。彼は明治24年に女木島で生まれ、大阪に出て旋盤工となり、その後、友愛会に加入し労働運動のリーダーとして活躍しました。
 大正15年の社会民衆党(安部磯雄委員長、片山哲書記長)結成に参加。昭和3年の第一回普選には社会民衆党公認候補として大阪から出馬し、見事に当選しました。以後、労働運動家、政治家として活躍し、戦前期の労働運動、無産政党運動を代表する一人となりました。
 戦後は日本社会党創立を主導し、片山哲委員長を助け、書記長に就任。昭和22年の片山連立内閣では、官房長官に就任しました。昭和35年には民社党を設立し、委員長に就任。昭和42年に委員長辞任。そして昭和56年、死去。享年90歳でした。私の特別報告「戦前期の西尾末広とその周辺の人びと」は、以下の内容です。

      ―戦前期の西尾末広とその周辺の人びとー

1.西尾末広(1891.3.28~1981.10.3)の生涯
 ①労働運動の時代
 大正4年、友愛会加入。翌5年、職工組合期成同志会結成。大正8年に友愛会再加入、労働運動リーダーとして活躍。大正13年2月の総同盟大会(方向転換宣言)で提案説明・質疑を一手に取り仕切り、評判となる。同4月、ILOに鈴木文治代表の随員として米窪満亮らと参加。会議後、ソ連、英国を訪問し、革命後のソ連の実態、労働党政権掌握直後の英国の労働・政治運動の実態を見る。ソ連に失望、英国に共感し、帰国。同年、総同盟主事に就任。翌14年5月、共産系組合を除名(総同盟第一次分裂)。その後、大阪に戻る。
 ②無産政党の時代
 大正15年の社会民衆党結成に参加。昭和3年の第一回普選に社会民衆党から当選。同5年に再選。昭和7年、社会大衆党結成に参加。昭和13年、スターリン発言で国会議員除名、補選で復帰。昭和15年、斉藤隆夫反軍演説問題で社会大衆党除名。
 ③社会党・民社党時代
 戦後、日本社会党を結成し、書記長に就任(委員長・片山哲)。昭和22年の片山連立内閣で官房長官、芦田内閣で副総理。昭和35年、69歳で民主社会党を結成し、委員長に就任。昭和42年、委員長辞任。昭和56年、死去。享年90歳。
 彼の著書として『大衆と共に』、『西尾末広の政治覚書』などがあり、また『西尾末広伝』(江上照彦著)、『風雪の人 西尾末広』(加藤日出男著)などがある。

2.西尾末広の周辺の人びと
 ①鈴木文治―友愛会創設者、日本労働運動の父
 ②松岡駒吉―西尾とともに友愛会・総同盟を支えた人、総同盟第二代会長
 ③金正米吉―西尾の生涯の友人、総同盟第三代会長で関西の実力者
 ④賀川豊彦―キリスト教伝道者、日本社会運動の父、友愛会・総同盟の幹部
 ⑤安部磯雄―社会民主党、社会民衆党の生みの親、日本社会主義運動の父
 ⑥片山 哲―社会民衆党書記長、片山内閣首相

3.先達者からのメッセージ
 ①西尾末広のメッセージ
 ②いま大切な友愛会スピリットへの回帰-人間の尊厳、進歩と発達―
                                 以上

労働省の誕生(1947年9月1日)と米窪満亮初代労相!

2007-09-03 16:11:35 | Weblog
■1947年の参院選、衆院選で社会党が第一党に!
 1947年4月20日の第1回参議院選挙で社会党は47議席を獲得し、第一党になりました。この選挙で総同盟からは全国区で赤松常子(婦人部長)と原虎一(総主事)が、また地方区でも4名が当選し、勤労者・国民の期待に応えました。
 続く4月25日の第2回衆議院選挙では143名(総同盟から23名)が当選し、社会党は第一党となります。このとき社会党書記長を務めていた西尾末広は、「えらいこっちゃぁ」と叫んだと言われています。第一党とはいえ比較第一党にすぎず、保守系議員数は社会党を大きく上回っていましたし、また左右対立を繰り返していた社会党には政権を担うだけの準備が整っていなかったからです。
 しかし、社会党は民主党・国協党との間に連立政権を樹立します。片山内閣の誕生です。首相となった片山哲は、戦前の社会民衆党の書記長を務めていた人物であり、また内閣官房長官に就任した西尾末広は、戦前の総同盟幹部であり、社会民衆党の代議士でした。そして初代衆議院議長を務めた松岡駒吉は、総同盟会長でした。このため片山内閣は、社会民衆党・総同盟の内閣であったと言えます。
 片山内閣は日本で初めての社会主義政党主導内閣であり、多くの勤労者から期待されましたが、吉田自民党や党内左派の抵抗で混迷を重ね、最後は補正予算案否決(予算委員長は社会党左派の鈴木茂三郎)で崩壊し、八カ月の短命で終ってしまいます。
 党内対立で崩壊し、国民の信頼を失った社会党は、四九年の総選挙で大敗し、芦田連立内閣を経て誕生した保守政党に長く政権独占を許すことになります。
■労働省の設置(1947年9月1日)
 片山内閣のとき労働省(現厚生労働省)が設置(9月1日)されます。今から60年前のことです。労働省は「労働者の福祉と職業の確保をはかり、もって経済の興隆と国民生活の安定に寄与」するところであり、初代労働大臣には海員組合出身の米窪満亮が、政務次官には土井直作(総同盟)が就任しました。
 就任直後の米窪労相は、生産復興運動、ヤミ撲滅、労働争議の平和的解決の3項目からなる米窪構想を提起し、労働側の協力を求めています。しかし当時、産別会議が強力で、米窪労相は苦労を重ねたと伝えられています。
■米窪満亮の生涯(1881年9月16日~1951年1月16日)
 米窪満亮は長野県の出身で明治21年の生まれ。中学校卒業後、東京高等商船学校に入り、明治45年から大正2年にかけて、練習船で世界一周の訓練航海を行いますが、この時の航海日誌が朝日新聞に「大成丸世界周遊記」として連載されます。これが改題され、出版されたのがベストセラーとなった小説『海のロマンス』です。
 米窪はその後、日本郵船に入社しますが、この時、海員の待遇の悲惨さを雑誌「海と人」に「マドロスの悲哀」として発表したため、日本郵船を追われることになります。
 その後、米窪は海上労働者の待遇改善要求の運動に取り組むこととなり、大正11年には海員組合に招かれ、国際部長、副組合長などを務めます。昭和3年、第11回国際労働総会に労働代表として出席。昭和6年には日本労働倶楽部の書記長に就任し、同倶楽部が日本労働組合会議となり、昭和15年に解散に追い込まれるまで書記長を務めます。
 また、昭和2年、社会民衆党の中央執行委員となり、翌3年の第一回普選には同党から立候補しますが落選、続く昭和5年の衆議院選挙でも落選してしまいます。昭和7年、統一した社会大衆党から立候補し、初陣を飾ります。
 戦後、米窪は海員組合の再建に取り組み、また日本社会党結成に参画し、兵庫県から衆議院に出馬して連続当選を果たします。片山内閣のとき無任所の国務大臣として入閣し、労働省が設置されると初代労働大臣に就任します。1951年、69歳で死去。(以上、フリー百科辞典『ウィキペディア』、その他参照)
                           以上