友愛労働歴史館の解説員便り

当館は2009年8月で一時休館いたしました。しかし資料の収集・研究、PR活動等は継続します。再開は2012年8月1日!

特別企画「社会民衆党と鈴木文治」展

2006-11-30 22:33:53 | Weblog
「鈴木文治―没後60年」展・特別企画のご案内

       特別企画「社会民衆党と鈴木文治」

 友愛労働歴史館は現在、「日本労働運動の父 鈴木文治―没後60年、その人と生涯―」展(2006年10月25日~2007年3月12日)を開催中ですが、特別企画として12月5日(火)から26日(火)までの間、「社会民衆党と鈴木文治」展を開催いたします。
 これは大正14年に普通選挙法が発布されたことを受け、無産政党運動が起り、社会民衆党が昭和元(1926)年12月5日に結成され、今年で80年を迎えることを記念したものです。
 社会民衆党は安部磯雄(早大)、堀江帰一(慶大)、吉野作造(東大)の3教授の呼びかけに応え、当時の総同盟が中心となって設立した無産政党(現在の革新政党)で、中央執行委員会議長に安部磯雄、書記長に片山哲を選出し、国民政党的性格を持ってスタートしました。
 昭和3年の第1回普選で社会民衆党は19名の候補者を擁立し、安部磯雄・鈴木文治・西尾末広ら4名の当選者を出して、無産政党当選者8名中の半数を占めました。鈴木は大阪6区から立候補し、初陣を飾っています。
 社会民衆党は昭和7(1932)年7月、全国労農大衆党と合同して社会大衆党となり、わずか6年の活動に終止符を打ちましたが、戦後の昭和20年11月、日本社会党として復活。さらに昭和35年には民主社会党(後の民社党)となり、その歴史と思想は現在の民主党へ引き継がれています。

<社会民衆党と鈴木文治展>
 と き 2006年12月5日(火)~2006年12月26日(火)
      (開館は10時~16時)
 ところ 友愛労働歴史館(友愛会館6階)
 展 示 社会民衆党関連資料、鈴木文治関連資料、その他
 その他 入館無料。見学希望の方は、事前に下記までご一報下さい。
     友愛労働歴史館紹介ビデオ有り、希望により解説員の説明有り

         友愛労働歴史館 〒105-0014 東京都港区芝2-20-12
                 財団法人日本労働会館内℡050-3473-5325、
                 労使研℡/Fax03-3453-5386/03-3451-1710
                 Eメール yuai@yuairodorekishikan.jp
                 HP http://www.yuairodorekishikan.jp/ 

西尾末広と現実主義(進歩との調和)

2006-11-03 17:31:06 | Weblog
 本稿は、政策研究フォーラム発行の月刊誌「改革者」11月号から転載したものです。ご一読いただければ幸いです。なお、月刊誌「改革者」(定価650円)は、政策研究フォーラム(理事長:堀江湛尚美学園大学学長。学者・文化人・労組役員等で構成)が発行しています。定期購読を希望される方は、03-5445-4575に申し込みをお願いいたします。

友愛労働歴史館から見た社会運動(第7回)

 西尾末広と現実主義(進歩との調和)
                    (友愛労働歴史館解説員 間宮悠紀雄)

■西尾末広とその時代
 西尾末広は明治二四年、香川県女木島に生まれ、若くして大阪に出て旋盤工となる。大正五年、職工組合期成同志会を結成。大正八年、松岡駒吉の勧めで友愛会に再加入し、翌九年に友愛会大阪連合会主務(専従)となり、労働活動家のスタートを切る。
 西尾は大阪電灯、藤永田造船所、川崎・三菱造船所争議などの争議指導と検束を繰り返す中で、指導者としての経験を身に付けていく。やがて西尾は上京、松岡駒吉とともに鈴木会長を支える二本柱として、友愛会・総同盟の発展に尽力していく。
 大正一五年、社会民衆党創立に参加。昭和三年の第一回普選に出馬し当選。以後、西尾は政治活動に比重を移していく。昭和一三年、衆議院での所謂スターリン演説で議員除名。戦後、日本社会党を結成し書記長に就任。片山内閣の官房長官、芦田内閣の副総理を務める。昭和三五年、民主社会党を結成し委員長に。昭和四六年政界引退、同五六年死去。
 西尾の自伝は、戦前の労働運動・無産政党時代を記した『大衆と共に』、戦後の政治活動を記した『西尾末広の政治覚書』がある。また、西尾を描いたものとして『西尾末広伝』、『風雪の人 西尾末広』などがあり、友愛労働歴史館に保存されている。
■西尾末広の「現実主義」とは
 『大衆と共に』の中で西尾は、「私は後年、時には革命的方向に魅力を感ずることもあったが、常に現実主義の立場に終始」したと記しており、それは「監獄生活で読んだ書物によって得た確信」による、と回想している。
 大正九年の藤永田造船争議で収監された折り、西尾を差し入れられたダーウィン『種の起源』、コール『労働の世界』などを熟読しており、これらの書物と労働運動の経験の中から「現実主義の確信」を築き上げていったのであろう。
 西尾の現実主義を表現したのが、反共主義と労働組合主義ではなかったか。昭和史に関する多くの著作を著している保阪正康氏は『政治家と回想録』の中で、西尾末広について「その姿勢は一貫していて反共と労使協調」であったと記している。
保阪氏の「反共」を、社会と労働の現実を無視して革命的言説を弄していた当時の夢想的な左翼急進主義者への反発と読み解くならは、それはたしかに西尾の「確信」であった。「反共」とは民主主義の同義語であり、進歩・漸進主義の一表現であったからである。
 また、保阪氏の「労使協調」を、「労使の対等・協力」と読み解くならば、それもたしかに西尾の一つの「確信」であった。当時の総同盟は転換宣言を掲げ、労働組合の自立と公認、団体協約締結運動という「健全なる労働組合主義」を実践していたのである。
■進歩と現実の調和の中で
 保阪正康氏は、「西尾末広は、戦後の政界にあってはきわめてヌエ的な政治家と見られていた」と書き出した後、「だが現実に東西冷戦に終止符が打たれてみると、西尾の主張していたファシズムや共産主義を全体主義と捉えて排斥しゆるやかな社会改革を進めるという改良主義は、もっとも妥当性のある政治的選択だったという感がしてくる」と記している。
 「反共と労使協調」と括られた西尾の現実主義は、実は「民主主義と労働組合主義」のことであり、「進歩と現実の調和」にあったことが分かる。西尾末広は、友愛会以来の理想(人格の向上・完成)を持ちつつ、労働者の要求を第一とする現実的労働組合主義者であったのである。
                                   以上