友愛労働歴史館の解説員便り

当館は2009年8月で一時休館いたしました。しかし資料の収集・研究、PR活動等は継続します。再開は2012年8月1日!

労働運動、社会運動を支えた賀川豊彦!

2009-03-17 10:07:18 | Weblog
■4月2日から「賀川豊彦と労働運動」展を開催!
 友愛労働歴史館は4月2日から特別展「賀川豊彦と労働運動」展を開催いたします。これは現在、東京と神戸を中心に行われている「賀川豊彦献身100年記念事業」を側面から支援するためのものです。
 キリスト教伝道者、社会運動として知られる賀川は、100年前の1909年に神戸のスラム街で活動をスタートさせており、これを顕彰するための取り組みが「賀川豊彦献身100年記念事業」です。
 友愛労働歴史館の「賀川豊彦」展は、幅広い賀川の活動のうち、特に労働運動に的を絞った展示・解説をめざしており、私は当館のただ一人の職員(解説員、ボランティア)として現在、準備を進めています。
 それにしても驚くのは清貧に生きた賀川豊彦が、意外と「金持ち」だったことです。また、多くの資金を労働運動や社会運動に拠出し支え続けた、その無私の精神です。
■莫大な印税収入で社会運動を支えた賀川豊彦!
 賀川豊彦が労働運動に直接の関わりを持ったのは、大正6年から大正10年程のことですが、当時の労働運動に大きな影響を与えました。隅谷三喜男はその著『賀川豊彦』で、「賀川が労働運動に対して大きな影響力をもっていた、ある意味でもっとも大きい要因は、労働運動に対する資金援助であった」と述べています。
 隅谷は「この時代、労働組合は資金的に貧弱で、争議の指導者は争議で解雇されればたちまち生活に窮した。この面倒を一人ひとり見てやり、運動上のまとまった資金を提供したのは賀川であった」と書いています。
 多くの賀川関連書籍が紹介しているところですが、賀川は『死線を超えて』や『太陽を射るもの』などの莫大な印税収入があり、これを労働争議の被害者救済や労働学校などへ提供したようです。
 村島帰之(毎日新聞記者、大阪労働学校講師)は「賀川豊彦氏の社会事業とその特異性について」の中で、賀川の『死線を越えて』の印税の使途について、以下のように記述しています。
 賀川が印税の多くを社会運動に注ぎ込み、自らは清貧の生活をおくったことが分かります。なお、仮に当時のお金1万円を現在の5000万円とすると、賀川が神戸の三菱川崎争議の後始末に拠出したお金は現在の金額で約1億7500万円、労働学校基金に拠出したお金は約2500万円となり、大変な金額であることが分かります。
 『死線を越えて』(印税10万円)
   神戸労働争議後始末費用・3万5千円
   日本農民組合費用・2万円
   鉱山労働運動費用・5千円
   友愛救済所基本金・1万5千円
   消費組合設立費用・1万円
   労働学校基金・5千円
   その他の社会事業費・1万円
                                   以上