友愛労働歴史館の解説員便り

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松岡駒吉と「健全なる労働組合主義」

2006-10-05 12:36:11 | Weblog
 本稿は、政策研究フォーラム発行の月刊誌「改革者」10月号から転載したものです。ご一読いただければ幸いです。なお、月刊誌「改革者」(定価650円)は、政策研究フォーラム(理事長:堀江湛尚美学園大学学長。学者・文化人・労組役員等で構成)が発行しています。定期購読を希望される方は、03-5445-4575に申し込みをお願いいたします。

友愛労働歴史館から見た社会運動(第6回)

 松岡駒吉と「健全なる労働組合主義」
                    (友愛労働歴史館解説員 間宮悠紀雄)

■松岡駒吉とその時代
 松岡駒吉は明治二一(一八八八)年四月、鳥取県岩美郡生まれ。機械工として海軍工廠などで働くが、一八歳の時洗礼を受けてクリスチャンとなっている。大正三年、北海道室蘭の日本製鋼所で友愛会に加入、鈴木文治会長の要請で上京し、友愛会専従となった。
松岡は大正一四年、総同盟関東労働同盟会会長に就任、翌年、東京製綱との間に団体協約を締結。昭和二年には野田醤油争議を指導している。昭和七年、総同盟会長に就任し、「健全なる労働組合主義」を総同盟の基本原理とした。以後、昭和一五(一九四〇)年の総同盟解散まで会長を勤める。
戦後、労働組合の再建に努力し、昭和二一年に総同盟(日本労働組合総同盟)を再建し、会長に就任。片山内閣の衆議院議長なども勤めた。昭和三三(1958)年八月死去。享年七〇歳。著書に『野田大労働争議』、『労働組合論』などがあり、評伝として『松岡駒吉伝』(中村菊男著)などが残されている。 
■「労働組合主義」とは
 松岡は、官憲と共産主義が猛威を振るった一九二〇~三〇年代(大正中頃から昭和初期)の日本労働運動を指導し、いわゆる「健全なる労働組合主義」を確立したと言われる。では松岡が唱えた「労働組合主義」とは如何なるものか。
『日本労働運動の先駆者たち』(労働史研究同人会編)の「労働組合主義の現実と苦悩ー松岡駒吉」によると、松岡は「産業人としての労働者」という理念を持ち、労働者を「共同精神、独立、社会的責任、常識」を持つ産業人に訓練する場が労働組合である、考えていた。そして労働組合の目標を、「国民生活の向上につながる産業の発達」と捉えていた。
松岡が労働組合非合法の時代に、その理念と目標を実現させるために進めたのが、労働組合を承認させ、団体交渉権を認めさせ、団体協約(労働協約)を締結することであった。
彼が東京製綱と締結した団体協約は、①従業員は原則として日本労働総同盟員であること、②会社は組合を公認し、団体交渉権を認める、③労働条件の改善に関しては一般製鋼産業の条件を考慮すること、④組合は不良組合員に対して責任を負うこと、⑤会社は従業員を優遇し、組合は作業能率の増進に努力するとの五項目で、ここに松岡の団体協約論のすべてが含まれており、労働組合主義が表現されている。
さらに松岡は、労働争議や左翼勢力との闘いの中で、労働組合主義を確立していった。野田醤油争議では、①団体協約の再確認、②争議の統制、③組合基金の必要性を教訓として学び、労働組合主義に現実的な肉付けを行った。さらに松岡は、団体協約を否定し、労働組合への支配・介入を狙う左翼勢力と対決して、彼らの革命ごっこと言葉遊び(イデオロギー)から労働組合の自主性を守り抜き、健全な労働組合主義を確立していった。
■「産業人としての労働者」
いま「労働組合主義」は魅力に欠ける。それは労働組合が法認されて当たり前の存在になり、団体交渉を行い、労働協約を締結することが、自明のこととなったからである。しかし今日なお、労働運動や労働組合には多くの課題がある。非正規労働者の激増、労働組合の力量や組織率の低下などがあり、新たな運動理念の提示が求められている。
そこで浮上してくるのが、松岡が言う「産業人としての労働者」の理念である。これを今日的に言い換えれば「労働者の人間的成長と職業能力の向上」なる。労働組合がその活動を通して、一人ひとりの労働者の人間的成長を図り、同時にエンプロイアビリティ(雇用される能力)の向上を実現できるならば、狭い意味での労働組合主義の限界を超え、労働運動を再生することができよう。それは松岡駒吉がめざした道を歩むことである。