友愛労働歴史館の解説員便り

当館は2009年8月で一時休館いたしました。しかし資料の収集・研究、PR活動等は継続します。再開は2012年8月1日!

副島伯爵の揮毫「惟一館」!

2009-09-28 15:56:21 | Weblog
●アメリカで発刊された『惟一館献堂式の記録』
 新友愛会館建設(2012年竣工予定)へ向け、まもなく友愛会館・ホテル三田会館が解体されますが、これらの建物の前身であるユニテリアン教会・惟一館について一言述べます。
 明治20年、明治政府高官や福沢諭吉らの招請により来日したユニテリアンは、その活動拠点となる惟一館を明治27(1894)年3月、東京・芝に竣工します。その竣工式(献堂式)の模様は、クレイ・マッコーレイ牧師によりアメリカ・ユニテリアン協会(A.U.A.)へ報告され、『惟一館献堂式の記録』としてまとめられています。
 序文でマッコーレイ牧師は、「このパンフレットは日本におけるユニテリアンの本部、惟一館の建設ならびに、使節団の支援により設立された先進学院についての記録として、特別に準備されたものです」と述べ、以下、丁寧な説明を行っていますが、惟一館の内部構造については次のように記述しています。
 「建物の内装は必要な机、椅子、棚、テーブル、その他の設備が施されました。集会室には説経壇とそれにあわせた椅子があり、これは水戸藩の領地で昔から伝わる有名な古木を使用しています。建物全体は電灯を使用しています。塗装していない木の色、壁や廊下の天井に当たる光、また羽目板の漆喰塗りに当たる光、黄褐色や灰色、黄緑色、薄黄色、など色々な色調をかもし出し、それが大変ユニークで賞賛されています。集会室は簡素な点や、家具や色調との調和が特に喜ばれます。特に人目を引くものは、教壇中央の後ろにある大きな黒いパネルの上に、金色の古風な漢字で書かれているもの、ホール献堂の標語“至誠 正義 雍穆”で、その上には、尊敬すべき副島伯爵の手描きによる「惟一館」の名が、美しい額に納められています。日本人は、こうした歴史上良く知られた、尊敬すべき人物による手描きの宝物を持つことに、特別の誇りを持っています(間宮繁子訳)」
●副島伯爵の揮毫「惟一館」
 これにより「惟一館」の書が、副島伯爵の揮毫によるものであることが判ります。副島伯爵とは明治政府の参議・外務卿などを務めた副島種臣のことで、書家として「豪快な書」を書くことでも知られています。
 この頃、明治政府は教育勅語(明治23年)を発布し、天皇中心の国家体制を強め、反キリスト教の姿勢を明らかにしていました。しかし、惟一館に副島伯爵が揮毫した書「惟一館」が飾られたということは、明治政府の中にもまだユニテリアンやユニテリアン・ミッションに好意的な人々がいたことを示すものと言えます。
 ユニテリアン教会・惟一館が竣工した4カ月後、日本は清国と戦争状態に入り(日清戦争、明治27年7月~明治28年3月)、国家主義・軍国主義は大きな高まりを見せていくことになります。
                              以上


福沢諭吉の祝辞「現代の道徳の必要性」!

2009-09-04 15:59:40 | Weblog
●惟一館献堂式での福沢諭吉の祝辞「現代の道徳の必要性」
 友愛労働歴史館は現在(2009年9月4日)、引越し準備で大忙しです。引越し、移転作業が一段落したら、①友愛会から同盟までの民主的労働運動資料、②社会民主党・社会民衆党から民社党までの社会主義運動資料、③ユニテリアン関連資料の収集・保管、調査・研究などに取り組んでいきます。そして先達者の様々なメッセージを読み解き、再発信していきたいと思っています。
 そこで友愛労働歴史館のデジタル・ライブラリーに掲載中ですが、明治27年の惟一館献堂式における福沢諭吉の祝辞を紹介いたします。福沢諭吉は労働運動にも社会主義運動にも無縁のリベラリストですが、明治政府高官らの招請によりアメリカから来日したユニテリアンを支え、日本に定着させた大恩人です。後にユニテリアンの安部磯雄や鈴木文治らが惟一館で日本の社会主義運動、労働運動をスタートさせたことで、福沢諭吉は結果として日本の社会運動ゆかりの人となりました。
 
        「現代の道徳の必要性」
                      福沢諭吉
 人生における道徳の必要性は今、議論の領域を超えて求められております。現在日本では、道徳こそが最も重要なものであります。西洋文明が到来して以来、変化が我々の慣習全てに、瞬く間に広がっています。封建主義が立憲政体に屈し、新たな風習や習慣が過去のものに取って代わりつつあります。勿論、多かれ少なかれ、その結果我々の社会秩序に混乱が起きています。個人も社会も拠り所としている道徳については、その規範が不明瞭になってきました。我々は古いものと新しいものとの岐路で困惑しております。しかし、開国したこと、あるいは政体の変化は、人々の心の在りように根本的な影響をもたらすものではなく、道徳律が完全に消滅するわけではありません。
 我々日本人は、いまもって日本人であり、過去の日本人と同じものです。我々の先祖にとっての道徳は、我々にとっての道徳と同じものです。我々の周囲で起きた事柄によって、道徳の基準が変わったのかというと、質量ともに変わっていません。改革の影響は、むしろ水を激しくかき混ぜた時の効果に似ています。水は同じ水ですが、鮮明でなくなります。我々はこれを不透明と称します。今、大いに必要なのは、我々の生活が静まり、道徳律が再び明らかになり、我々が個人として、また一つの団体として、真っ直ぐに正しい道を前進できることです。これが私の長年の願望であります。
 道徳律の問題については、多くの議論があります。一国民として、我々は三つの宗教を持ってきました。神道、儒教、仏教です。近年は、西洋からキリスト教がもたらされました。これらの信仰はそれぞれ独自の価値を持ってしかるべきでありますが、私はどの宗教に対しても、批判をしたことは一度もありません。それぞれの道徳律は同じであるべきだと思うからであります。即ち、善は善であり、悪は悪だからです。
 私はいずれの宗教に対しても公平な姿勢を保ってきましたし、それぞれの繁栄を期待してきました。しかしながら、これら全ての宗教が教えている人生の教訓を実践しようと努めており、そのことが私の周囲の人々の助けになるであろうと思っています。目から得た教訓は、耳から得た教訓より優っているというのが、私の好む信念です。実践された徳は多くの議論よりはるかに力強いものであります。議論ではなくむしろ実践こそが世界を変えるでありましょう。
 道徳律は今、興味の尽きない議論のテーマです。道徳律を出発点とするものがいかに少ないことでしょう。まことに嘆かわしいことです。皆さんの校長、マッコーレイ氏は私の友人の一人です。彼の日々の行いは、世界中に知れわたっています。彼の信念と行動は、調和しています。道徳律を科学の真理を通して明らかにすること、日本の人々が道徳的な生活に、自分たちの進むべき道をはっきりと見出してくれることが、彼の目的です。私は心から、彼に賛同します。この学校の生徒全員が校長の教えを入念に学ぶと共に、信念に基づいて生きることによって、自分たちの行為を測るよう望みます。彼らは校長の生き方や教えに従って進むでありましょう。
                              以上