友愛労働歴史館の解説員便り

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労働省の誕生(1947年9月1日)と米窪満亮初代労相!

2007-09-03 16:11:35 | Weblog
■1947年の参院選、衆院選で社会党が第一党に!
 1947年4月20日の第1回参議院選挙で社会党は47議席を獲得し、第一党になりました。この選挙で総同盟からは全国区で赤松常子(婦人部長)と原虎一(総主事)が、また地方区でも4名が当選し、勤労者・国民の期待に応えました。
 続く4月25日の第2回衆議院選挙では143名(総同盟から23名)が当選し、社会党は第一党となります。このとき社会党書記長を務めていた西尾末広は、「えらいこっちゃぁ」と叫んだと言われています。第一党とはいえ比較第一党にすぎず、保守系議員数は社会党を大きく上回っていましたし、また左右対立を繰り返していた社会党には政権を担うだけの準備が整っていなかったからです。
 しかし、社会党は民主党・国協党との間に連立政権を樹立します。片山内閣の誕生です。首相となった片山哲は、戦前の社会民衆党の書記長を務めていた人物であり、また内閣官房長官に就任した西尾末広は、戦前の総同盟幹部であり、社会民衆党の代議士でした。そして初代衆議院議長を務めた松岡駒吉は、総同盟会長でした。このため片山内閣は、社会民衆党・総同盟の内閣であったと言えます。
 片山内閣は日本で初めての社会主義政党主導内閣であり、多くの勤労者から期待されましたが、吉田自民党や党内左派の抵抗で混迷を重ね、最後は補正予算案否決(予算委員長は社会党左派の鈴木茂三郎)で崩壊し、八カ月の短命で終ってしまいます。
 党内対立で崩壊し、国民の信頼を失った社会党は、四九年の総選挙で大敗し、芦田連立内閣を経て誕生した保守政党に長く政権独占を許すことになります。
■労働省の設置(1947年9月1日)
 片山内閣のとき労働省(現厚生労働省)が設置(9月1日)されます。今から60年前のことです。労働省は「労働者の福祉と職業の確保をはかり、もって経済の興隆と国民生活の安定に寄与」するところであり、初代労働大臣には海員組合出身の米窪満亮が、政務次官には土井直作(総同盟)が就任しました。
 就任直後の米窪労相は、生産復興運動、ヤミ撲滅、労働争議の平和的解決の3項目からなる米窪構想を提起し、労働側の協力を求めています。しかし当時、産別会議が強力で、米窪労相は苦労を重ねたと伝えられています。
■米窪満亮の生涯(1881年9月16日~1951年1月16日)
 米窪満亮は長野県の出身で明治21年の生まれ。中学校卒業後、東京高等商船学校に入り、明治45年から大正2年にかけて、練習船で世界一周の訓練航海を行いますが、この時の航海日誌が朝日新聞に「大成丸世界周遊記」として連載されます。これが改題され、出版されたのがベストセラーとなった小説『海のロマンス』です。
 米窪はその後、日本郵船に入社しますが、この時、海員の待遇の悲惨さを雑誌「海と人」に「マドロスの悲哀」として発表したため、日本郵船を追われることになります。
 その後、米窪は海上労働者の待遇改善要求の運動に取り組むこととなり、大正11年には海員組合に招かれ、国際部長、副組合長などを務めます。昭和3年、第11回国際労働総会に労働代表として出席。昭和6年には日本労働倶楽部の書記長に就任し、同倶楽部が日本労働組合会議となり、昭和15年に解散に追い込まれるまで書記長を務めます。
 また、昭和2年、社会民衆党の中央執行委員となり、翌3年の第一回普選には同党から立候補しますが落選、続く昭和5年の衆議院選挙でも落選してしまいます。昭和7年、統一した社会大衆党から立候補し、初陣を飾ります。
 戦後、米窪は海員組合の再建に取り組み、また日本社会党結成に参画し、兵庫県から衆議院に出馬して連続当選を果たします。片山内閣のとき無任所の国務大臣として入閣し、労働省が設置されると初代労働大臣に就任します。1951年、69歳で死去。(以上、フリー百科辞典『ウィキペディア』、その他参照)
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