友愛労働歴史館の解説員便り

当館は2009年8月で一時休館いたしました。しかし資料の収集・研究、PR活動等は継続します。再開は2012年8月1日!

鈴木文治、弱き者の友、一粒の麦として(雑誌「改革者」より転載)

2006-08-03 13:09:13 | Weblog
 本稿は、政策研究フォーラム発行の月刊誌「改革者」8月号から転載したものです。ご一読いただければ幸いです。なお、月刊誌「改革者」(定価650円)は、政策研究フォーラム(理事長:堀江湛尚美学園大学学長。学者・文化人・労組役員等で構成)が発行しています。定期購読を希望される方は、03-5445-4575に申し込みをお願いいたします。

友愛労働歴史館から見た社会運動(第4回)

 鈴木文治、弱き者の友、一粒の麦として    (友愛労働歴史館解説員 間宮悠紀雄)

■鈴木文治没後六〇年
 今年も八月一日、友愛会館で「友愛会創立を記念する会」が開かれる。これは大正元年八月一日に鈴木文治が組織した友愛会(後の総同盟、同盟。現在の連合)を顕彰するもので、今年が特別の意味を持つのは彼の没後六〇年に当たるからである。鈴木は昭和二一年三月十二日、戦後第一回総選挙に出馬中、急死している。享年六〇歳。
 鈴木と同郷の芳賀清明氏(元電力総連副事務局長)は、没後六〇年を記念して月刊誌「労働レーダー」に、「鈴木文治 心の風景」を十六回に亘って連載した。そして最終号で芳賀氏は、「弱き者の友として生きた鈴木文治の志と歩みは、私たちに多くの示唆と教訓を提示している」と締め括っている。
 鈴木文治の生涯は、吉田千代氏の『評伝鈴木文治―民主的労使関係をめざして』でも明らかにされている。クリスチャンの立場から書かれた同書は、鈴木文治の生い立ちから友愛会の創設、その死までを描き、「彼の使命、それは一粒の麦として地に落ち死ぬこと(ヨハネ福音書)であった」と結んでいる。
■「日本史」教科書が描く友愛会
 友愛会誕生は日本労働運動史上のエポックであり、大正時代を代表する一つの画期として高校「日本史」の教科書に必ず紹介されている。しかし、多くは簡潔な記述に止まり、その意義を論じているものは殆どない。例外はNHK高校講座「日本史」教科書(二〇〇六年度、テレビ放送有り)である。やや長くなるが、引用する。
 「友愛会の結成:明治から大正に改元された直後の一九一二(大正元)年八月一日、キリスト教の伝道にあたりながら社会問題に関心を寄せていた鈴木文治は、のちに日本の労働組合運動の中核となる友愛会をわずか一五人の参会者で立ち上げた。
 当時、労働者が「一般社会」から「職工風情」と蔑まれ、「社会の最下等動物」のごとく見なされていたことに対し、労働を国家や文明を支える「神聖」なものとしたうえで、労働者自身の「相愛扶助」「識見の開発、徳性の涵養、技術の進歩」「地位の改善」によって差別と偏見を取り除いていこうとしたのである。それは、工場主や資本家に対して、同じ人間であることを認めてもらいたいという人格承認の願いでもあった。友愛会は結成から4年余で会員数が二万人に達し、人格承認の要求がいかに多くの働く人びとの心をとらえていたかがわかる。お互いに対等・平等な人間として認めあうことの大切さに、人びとは気づき始めていたのである。」
■弱者の友、一粒の麦として
 NHK高校「日本史」教科書は、友愛会が提起した「人格承認の願い」を高く評価し、それが当時の労働者から圧倒的な歓迎を受けたことを記述している。芳賀清明氏は、鈴木文治が「弱き者の友」として生きた生涯を描き、その今日的意義を見詰めている。吉田千代氏は、「キリストの十字架をみつめ、人間労働者を愛して、その地位の向上と労働条件の改善をねがい続けた鈴木文治」の人生を、「まさに荒野に叫ぶ先駆者にふさわしい生涯であった」と締め括っている。
 いま歴史を振り返るとき、鈴木文治や初期友愛会が持つキリスト教色や東大出のエリート法学士が労働運動を指導したことに違和感を感じる人もあろう。しかし没後六〇年、その生涯に想いを馳せるとき、何れの人たちも彼が「弱き者の友」として生き、「一粒の麦」として生涯を終えたことは認めざるを得ないであろう。大切なことは、鈴木文治がめざしたものを、私たちもめざすことである。