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オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

保険について思う

2008年07月31日 | Weblog

私は昔から保険が大嫌いだった。

 今現在も掛け捨ての生命保険しかかけていない。保険金額は、私が死んでも家族が次の生活を確保できるまでの期間の生活費を基準としている。私が死んだら家族は大金持ちになり遊んで暮らせるなんてとんでもないと思っている。子供が小さい内は養育費も学費もあり、残された家族が大変だろうと大きめの保険をかけていたが、子供も大きくなりそろそろ自立する時期になって身分相応に見直したばかりである。

若い頃は女性の保険外交員(美人が多かった)が、

 ひっきりなしに保険を勧めてくれた。その度に保険の要否について議論したが、一人として私を説得できる人はいなかった。特に貯蓄と一体になった保険やいろいろな特約のついた保険は絶対と言っていいほど受け入れなかった。受け入れたのは「掛け捨ての生命保険」だけであった。しかも、独身の時は葬式代と死んだときの後始末に必要なくらいの生命保険しかかけていなかった。

ひと頃は、

 「保険は投資ですよ」「貯金よりも有利ですよ」「税金の控除が受けれます」などと言う売り込みもあった。しかし、「保険」は万一の時の災難に備えるものであり、「貯蓄」や「投資」は将来の夢のために蓄えるものである。最初から本来の性質が違うと思い続けていた。「保険」と「貯蓄」や「投資」を一緒にして考えるのはどう考えても合点がゆかなかった。死ぬことを前提として夢は語れない。「もし死ななかったら自分のために貯蓄として使えますよ」といっても、そこには「夢」はない。今生きている延長にあるのが「夢」であり、辛うじて生きながらえたあとの「夢」ではしょうがない。

「保険」は「保険」として、

 「貯蓄」は「貯蓄」として区別して考えた方がすっきりするし、「保険」と「貯蓄」の目的はそれぞれ違う。漫然とただ「金」の話だけすると両方とも同じように感じるが「金」に使用目的を設定すると違ってくる。「保険」はその恩恵を受けられる時期が決められないが、「貯蓄」には目的があり目標があるし、それに応じて時期も決まってくる。どちらかというと「貯蓄」が「保険」を包含していると思う。「貯蓄」は「保険」にも使えるのである。個人の貯蓄では保証しきれないものをみんなで資金を出し合って保証するのが「保険」であると思う。

端的に言えば「貯蓄」は全部自分の金になるが、

 「保険」は事故が起こった時しか金にならない。ただし、保険金額は掛けた金の何十倍何百倍にもなる。それでも(掛け金>事故の確率×保険金)には変わりない。これが崩れると保険会社は潰れてしまう。基本的には保険会社は安心を売るのと同時に、不安を喚起してお客を獲得する商売でもある。通常は人々が一般的に抱く不安は現実の不安が生起する数学的な確率計算よりも大きい。この差でもって保険が成り立つ。この差を曖昧にしてお客を獲得するための貯蓄併用でありいろいろな特約であると思う。

保険の掛け金を貯蓄するとずいぶんな金になる。

 期間が長ければ長いほど貯金はたまる。右肩上がりの経済成長の時は、保険の保証が得られて満期には掛け金以上がそっくり返ってくるような保険もあった(ただし、20年後30年後の経済情勢や貨幣価値は全く予測できないが・・・)。保険会社は預かった掛け金を運用すれば十分利潤が得られると言う目論見であっただろうが、バブルがはじけた今、このような保険会社がみんな経営不振に陥って保険商品の中身はガラリと様変わりし、客離れが激しくて、新規契約も減少している。当然と言えば当然だが・・・。

このような話をすると、

 保険の外交の人は「そうは言っても月々の掛け金をきっちり貯金できる人は少ないですよ」と言って「保険」を勧める。要は「お客さんは自己管理能力がないので保険会社が代わりに管理してあげますよ」と言っているようなものである。私はこれに猛反発して「保険」も「貯蓄」も自己管理の下でやることを決意し現在に至っている(あまり金は貯まっていないが・・・)。万が一の時の責任が重すぎて自分だけでは負いきれない場合も保険は有効であるが、これも貯蓄や投資ではなく掛け捨てが妥当であろう。

保険が掛け捨ての生命保険だけの人は珍しかったようで、

 どこへ行っても保険の外交員がしつこく勧誘にきた。あまりしつこいので「保険は嫌いだ」「信念として掛け捨て以外はやらない」とキッパリと宣言したら、保険の外交員間で情報交換しているのかそれ以来パッタリと勧誘に来なくなった。保険の外交員とおしゃべりできるのは楽しみのひとつでもあったので惜しいことをしたが、懐かしい思い出となってしまった。

1年ほど前、経済コンサルタントと言う人から、

 自分の生活費の収支を診てもらえる機会があったが、保険の掛け金が多すぎると言う指摘を受けた。私でさえ掛けすぎだと言われているのだから普通の人はもっと掛けすぎではなかろうかと思った。「遺族に莫大な財産が残せるような保険は掛けすぎです」と彼は主張していた。目安は家族の2~3年くらいの生活費くらいであろうか・・・。

「保険」も自分の利益のことだけを考えると欠点ばかりが目立つが、

 みんなのためと思えば欠点が薄らいでくる。昔の「頼母子」のように相互扶助的なおっとりとした感覚があればギスギスしなくて済む。どこを向いても「金儲け」に走る人や団体ばかりではイヤになってくる。私の保険嫌いも根本には保険会社の金儲け主義にある。大衆の不安を商売道具にして金儲けをたくらみ、うまくいかなくなれば放っぽり出して知らん顔をするようでは万一の時には役に立たず、最初から「保険」ではない。「金儲けになりますよ」と声を掛けられただけで私は最初から相手にしない(儲かるのだったら自分でやればいい)。

金儲け主義でなく本当にみんなのために「安心」を売る事業であれば、

 自分の出した掛け金が恵まれない人に役立っているという実感があれば、万一の時本当に役に立つ保険であれば、もっともっと保険が好きになっていただろう。本来の保険は金儲けではなく相互扶助であり、その実績と信頼を売り物にしなければならないと思う。そんな保険会社が不良投資で倒産するなんて言語道断である。保険本来の目的を果たしていない。

政府も「介護保険」などを始めたようだが、

 「保険」本来の「相互扶助」という目的をはき違えないようにしてもらいたい。また、国民も高齢者の介護は本来身内でやるのが原則であり、重度の介護を必要とし個人で対応できない場合にのみ介護保険が適用されるのが本来の姿であることを肝に銘じなければならない。「高齢者はすべて介護保険まかせ」では本来の家族関係が崩壊してしまうし、全員にバラ蒔いたのでは各々の介護を薄くするか膨大な保険料を覚悟しなければならない。また、「保険」であれば強制ではなく選択の余地を残した任意でなければならないとも思うがどうであろうか。原則的には強制は確実な事実に基づいた内容にしか適用できないはずである。国民全員に強制するのであれば税金と同じで、税金で運用した方が理にかなっている。

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