
give and take というと本来の英語では取引の場での妥協や譲歩の意味で使われるが、
日本では「相手に何かを与える代わりに自分も相手からもらう」という交換の意味で使われる。ギブアンドテイクは日本では「受けた恩には恩で返してもらう」ということであり、反対の言い方をすると「恩も受けていない人に恩を返す必要はない」ということであり、「恩を受けた人と受けていない人がいれば当然恩を受けた人を優先する」ということでもある。「恩」が「仇」となっても考え方においては同じである。ただ、日本の場合は特定の個人を対象とした「ギブアンドテイク」でなく、不特定多数の世間を対象とした「ギブアンドテイク」の考え方が強いのではなかろうか・・・。「世間体を気にする」「世間様に申し訳ない」というのが日本の考え方であり「情けは人の為ならず(全部自分に還ってくる)」という因果応報の考え方である。
欧米はチップの社会といわれる。
これはギブアンドテイクの典型である。まずは形だけでも「ギブ」のポーズを見せてチップを出す必要がある。無関係の人とチップをもらった人では「テイク」の度合いが数倍違ってくる。当然と言えば当然である。挨拶代わりにチップが乱れ飛ぶことになる。しかし、日本では大衆の面前でおおっぴらに現金を渡すことははしたない行為という風習があり、堂々とチップを渡すことにはためらいがある。その代わり、気の利いた袋にしたためてさりげなく見えないところで「心づけ」渡す。恩着せがましいことは嫌われる。
外国では「袖の下」は当然のこととしてまかり通っている。
海外旅行をした人からその現場に遭遇して腹を立てている人を多く見かけるが、これが本来の「ギブアンドテイク」であり、取引の手段として「袖の下」が使われる。それが当然であればその価値観で物事が収束し、公然と行われ、ギブをする努力をしなかった人には当然テイクはない。それを当然と思っていない人たちにすれば違和感を持つ。そして、その違和感を持つ人たちも見えないところで期待を込めて「袖の下」を使っている。ただあっけらかんに大衆の面前でオープンに実行することに抵抗があるだけである。
「袖の下」と言うと「賄賂」を連想するかもしれないが、
ここではそれほど悪質なものを言っていない。自分の権限で実行できることで、AでもBでも大勢に影響がないのであれば、ギブアンドテイクの精神を発揮して選択することもできるし、結果は同じでも迅速に丁寧に気持ちよくサービスすることもできる。これは当然のことである。大勢に影響のあることを無理して強権を発動してギブアンドテイクの精神を貫くことは当然認められない。ましてやこれが不正であればこれはれっきとした犯罪である。悪いことをする人はこのギブアンドテイクの精神にかこつけて不正をはたらく。不正そのものは正当な理由を証明できない限り犯罪である。機会が平等であることは、「みんな平等」ではない。個人の特性に応じて機会が平等でなければならない。
ギブアンドテイクの精神は人格者でないとうまく使えないし、
正当な判断力のない人には権限は与えられない。権限を行使した人は当然結果には責任を持たなければならない。ギブアンドテイクの精神も使い方を誤ると犯罪として追求されることになる。また、ギブアンドテイクを見守る人たちは、特別の扱いを受けるためにはそれなりの代償を払うのが当然であると考え、それなりの代償を払ったのなら仕方ないと判断する。自分も特別扱い(テイク)を受ける必要があれば代償(ギブ)を払わなければならない。特別扱いの必要がないのであれば必要のある人に譲ることは当然の行為である。ただし、特別の扱いを受けるのにも理由が必要で、これを正々堂々と説明できなければならない。これが人権侵害であったり不正行為であってはならない。
「求めよさらば開らかれん」という聖書の言葉がある。
これもギブアンドテイクの精神に通ずるものである。神でさえも求めようとする人にしか手をさしのべてくれない。ましてや人間であれば自ら自分の道を切り開こうと努力もしない人に手をさしのべられるはずがない。それがたとえ「チップ」や「袖の下」であろうとも・・・。これがギブアンドテイクの考え方であろうか。日本で言うところの「袖擦り合うも多生の縁」に近い考え方である。「袖が擦り合った」のが「チップ」と考えればその精神は一緒であるが、偶然袖が擦り合ったことと、意志を持ってチップを出すことに違いがある。
「チップ」や「袖の下」の話は置いておくこととして、
例えば我々が何かを要求するとき、その要求を実現するために自ら何らかの努力をしているだろうか・・・。ただ一方的に要求を叫んでいるだけで、具体的な実現の努力は何一つ実行していない場合が多い。その要求の一部でも自ら実現する意気込みを持ち、構想を描き、足りない部分を明確にして、どのような手段でどこに対して何をどういう手順で要求するのかというような具体的な努力をしなければならない。問題だぁ、何とかしてくれぇ、あれがほしぃ、これがほしぃという赤ん坊のような要求だけでは聞く側も困ってしまう。
また、このような未熟な要求をしている人が、
要求を実現させた人に向かって「不公平だ」「不正だ」「えこひいきだ」と一方的にわめき散らすのもどうかと思う。不正は不正として立証しなければならないが立証されない限り問題はない。私は何も袖の下や賄賂を薦めているわけではない。ただ、政治的な決着がついた時、不利益を被った人たちが闇雲に何でもかんでもその決着に不正疑惑や談合・裏取引を持ち出すことに対して少なからずの疑問を抱いているだけである。心にやましいことがなければ提案内容が悪かったか要求のやり方が悪かったとしてあきらめるしかないはずである。本当に不正であればこれを立証する努力をしなければならない。反対に政策を担当する側の政治的な決着に対する説明が十分でないことにも問題はあるとは思われるが・・・。
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