オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

アリとキリギリス

2023年03月25日 | Weblog

有名な童話である。

 普通に理解すれば、気候が良いときにキリギリスは歌を歌って楽しく過ごし、その間にアリはせっせと働いて巣を作り、食べ物を運んで、冬が訪れると、キリギリスは食料もなく、寒さに震え、困ってしまうが、アリは自分の巣と貯蔵した食料で楽しく過ごす、と言う話である。そして、話し終わって子供に「キリギリスでなくアリのように生きましょう。」という教訓を述べるのが一般的である。果たしてそうなんだろうかと思う。

みんながキリギリスのような生き方をしたら、冬には困ってしまう。

 だからといって、キリギリスは冬以外の気候のいい時には楽しい歌を提供してみんなを喜ばせていたのである。この事によって、周囲を幸せにしていたのである。アリもキリギリスと一緒になって、歌を聞く側になって働く合間に楽しめばよかったのである。そのために、巣作りや食料貯蓄が少々疎かになっても何も問題ないはずである。働くだけが目的ではなく、働くことも含めて幸せになることが最終目標である。

そして、冬になったら、キリギリスに楽しませてもらった分のお返しをすれば良いのだと思う。

 そして、来年もまた、キリギリスに楽しませてもらうことになる。これで、みんなが幸せになる。もしかしたら、冬の間もキリギリスの楽しい歌が聞けるかもしれない。何でこのお話の中で、アリは春、夏、秋にキリギリスの楽しい歌を無視して、楽しむことも忘れて懸命に働いていたのだろう。働くことが楽しかったのだろうが、楽しみはもっと他にもたくさんあるし、生きることだけが目的でもない。できれば、アリも楽しく歌う余裕があっても良いのではないかと思う。

世の中が格差社会になっているという。

 一部の人が富を独占し、多くの人が貧困に苦しんでいる。そうであれば、独占した富を困っている人に配分すればいいと思う。配分というと物理的に分配するだけになるが、救済とか布施の心である。困っている人達をお布施の心で救済する事業を起こすのである。みんなが最終的に幸福になるのが最終目的であり、そのことに社会貢献できることが自分の幸せでもある。富を独占していても何も幸福にはなれない。これによってみんなが幸せになる。

人を楽しませ幸福になる事業で金儲けはできない。

 多くの人達は金儲けにならない、人を楽しませ幸福にするような仕事をしているのである。だからお金持ちになれないし、別にお金持ちにならなくても良いのである。それでも金儲けの上手い人がいる。金儲けというより集金能力の高い人といった方がいい。個人の実力かもしれないし、天性の才能かもしれないし、偶然に恵まれた運かもしれない。その事自体は何も悪くない。でもその集中したお金を社会の幸福のために使おうではないか。金儲けできなくていいではないか。金儲けが目的ではない。

我々が生きてゆく中での行動は2つに分かれる。

 一つは、目的をもって行う行動であり、もう一つは目的なく行う行動である。何でもかんでも目的を決めてその目的のために猪突猛進するわけではない。時には目的もなく漠然と行っている行動もある。そして、多くの幸せは後者にある。いわゆる「遊び」である。確かに一目散に一つの目的を追求すれば効率もよく効果も高く、最終的には金儲けもできるだろうが、そこに幸せは薄い。そして、多くの自己犠牲を強いられる。自分の現在を犠牲にして未来に投資しているようなものである。その投資したものは何に使うのだろう。

一つの目的のための行動における幸せは薄い。

 もっと多様なものに多くの幸せが眠っている。それを発掘するのが人生の楽しみでもある。多くの人はその楽しみのために生きていると言っても過言でない。反対に、目的に縛られたものに豊富な幸せがあるとは思えないし、最終的には幸せは金には換算できないし、金勘定した途端に幸せは消え失せてしまう。みんなで楽しく生きようではないか。アリもいてキリギリスもいて、お互いがその存在感を活かせれば良いのであるし、どちらかというと、キリギリスの行動をもっと正当に評価すべきである。キリギリスこそ幸福の使者である。

すべての人が幸せのために働いて、すべての人が幸せになればいい。

 自分の幸せのために、他人の幸せのために、社会の幸せのために、世界の幸せのために、宇宙の幸せのために、すべての人が貢献できればきっと素晴らしい未来があるような気がする。お金ではなく幸せが大切なのであり、幸せのために生きるのである。すべての人々がこのような考え方になれば、世の中はどんなにか幸せになることだろう。そして、幸せを担保するのが「信用」でもある。「貨幣」ではなく「信用」が世の中の価値を決定するような世の中になれば画期的に世界は変わると思う。この「信用」を「貨幣」の代わりにできるしくみが創り出せないものだろうか?いずれはそうなるのであろう。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« マスク着用の基本方針? | トップ | 認知症 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事