オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

私見と公論

2011年12月17日 | Weblog

私見が集って公論になることはない。

 私見はあくまで個人の自分一人の意見であり、公論は公平な議論の結果得られた世間一般の意見である。私見になくて公論にあるものは「議論」である。私見をただ集めるだけでは議論する前の意識調査に過ぎないし、これをもってさも「公論」だと決め付けてしまうのは乱暴である。反対に、このような意識調査は如何様にでも操縦する事ができる。その役割を果たしているのが「マスコミ」である。本来はマスコミは公論を作り出すための情報提供をすることが使命だが、マスコミそのものが「公論」らしきものを作り上げて、国民を扇動し、その影響の効果を国民の意識調査で確認しながら世論なるものを牽引し誘導しているような気がしてならない。これが国益のため日本国のために有益であり、公論として問題なければいいが、そうでなければ本来の公論が不在となってしまう結果となる。

政治のあり方を国民投票で決めようと言う意見がある。

 このネットワーク社会であるので、時宜に適した国民投票も可能であり、手法としてはあり得るが、議論を尽くしていない状態での国民投票は意味がない。バラバラの状態での個人の意見の分布状態の統計にはあまり意味がないし、ある一方向のわかりやすい意見(単なる損得勘定や誹謗中傷)に引っ張られて、あらぬ方向の結果を招く事となる。それが正しいかどうかは判らないし、反対に正しくない事が多い。現に、例えば日本の内閣の支持率をマスコミが事細かく調査して報道しているが、調査のたびに上がったり下がったりである。これがもし公論と一致しているのなら、これほど急激に変動するのはおかしいだろう。公論として成熟していない証拠でもあり、何らかの断片的な情報に影響を受けてその度に揺れている結果を見せ付けられているに過ぎない。議論を尽くした結論はそれほど節操無くぶれることはないはずである。

議論を尽くすとはどういうことだろう。

 まずは、進むべき目標を決めることである。個人個人はバラバラの目標を持っているので、バラバラのままでは目標は決まらないし、個々のベクトルはあらゆる方向に発散してしまう。目標を決めるに当たって、課題を明確にすることが重要だろう。漠然とした抽象的な課題では目標を具体的に決めることは出来ない。そして、一つ一つの課題について真剣に議論してゆけば、全体として日本国のあるべき姿が見えてくるであろう。そのあるべき姿は個人の意見と一致しないかもしれないが、公論として認められ、国の方針として決定されれば、個人は日本国のあるべき姿に向かって努力するだろう。日本国の発展が個人の発展にもつながるし、国の発展なくして個人の幸福は得られない。「国」と言うと料簡が狭く感じるが、「世界」「宇宙」と言ってもいいし、「国」レベルでは「世界」「宇宙」の発展を目指すべきであろうし、その発展が国の発展につながる。

次に、目標を達成するための道筋を決めることである。

 これもいろいろな道筋があるだろうし、個人レベルで決められるものではない。個人個人がバラバラな意見を主張したのでは何も決まらない。個人個人をある程度集約した上位レベルで「公論」を作り上げなければならない。国の機関で言えば、地方自治体であり、司法機関であり、行政機関であり、立法機関であり、民間では法人であり団体組織であり、教育機関であり、研究機関などである。これらの長は議論を尽くして「公論」を作り上げなければならない。果たしてこれらの議論が十分になされていて、「公論」が出来上がっていて、この公論を元に有効な上位レベルのさらなる有効な議論が行われているのか眺め回して見ると、どうにも心もとない。全て「内閣総理大臣」にお任せ状態ではなかろうか・・・。任せられた大臣も議論の結果がなければ神頼みでサイコロを振ってその都度右か左かを決めるのが精一杯であり、決めないと「リーダーシップがない」「優柔不断」「責任回避」「負担先送り」などと揶揄されて人気を落とし、更迭される運命にある。

十分に議論されていないものに決断を下しても、その決定に意味はない。

 決めないよりもいいかもしれないが、決定内容が現時点で最適で国民が納得ゆくものにはならない。しかも、決定は場当たり的で、その都度決断を強要される。このような状況が続けば日本の将来は危うい。グローバル社会が標榜されている今、国際社会で競争力を得ることはできないし、総体としては非常に無駄が多く、効率性が落ちるし、当然努力指向の集中もできなくて、力を発揮することさえ難しく、落ち込むばかりである。まずは、十分議論を尽くすこと、そして、その議論の内容を国民に情報提供すること。このことによって国民の理解も得られるし、国民の指向方向をひとつに集中できる。そして、個人レベルでは政治に関心を持って、一人ひとりが議論に参加すること、議論の内容を理解して自立した個人の意見を持つこと、そして個人レベルでも議論に参加する機会を求めることだと思う。その意識が「公論」を作り上げる原動力だと思う。もうひとつは、上位レベルの「公論」を戦わせる機関や団体の代表を務める人達が大いに国民の意見を吸い上げて活発に活動することがさらに重要だと思う。手っ取り早く単なる一個人としての評論家や有識者の見解に頼るだけでは「公論」はいつまでたっても育たない。


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