オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

魂について

2017年01月28日 | Weblog
私は人間には、いや生物には魂があると思っている。

 物質ではない何かが個別に存在する。そう考えないと自分という存在の説明がつかない。この魂から創造的な固有の意識が生まれる。この意識こそ自分という存在の実体だ。意識は周囲の環境からの刺激に反応してこれまた固有に生まれてくる。この世に生を受けた時からのこれまでの逐次の意識の集大成が現在の自分である。それぞれの時間軸に沿って意識は形作られ、大量の記憶樹として存在し、この記憶樹は誰一人として同じになることはない。というよりも同じになることが不可能である。よって、固有の個人が存在が可能となる。

意識は時間軸で推移する。

 ある意識からある意識へ推移する時、意識の選択がある。そして過去の意識は記憶となる。記憶は時間軸に沿って時系列的に体系付けられる。選択は個人の固有の魂によるものと考えられる。どれを選択するかはたぶん自分にもわからないと思う。でもあるものを選択するのである。選択の元となるものは周囲の環境からの刺激である。視覚であり聴覚であり味覚であり臭覚であり触覚である。もしかしたらこれ以外の第六感があるかもしれない。とにかくこの刺激に対し固有に反応し固有の作用を自らに課すことになる。

はっきり言うと、意識の連続が自分の現在の存在である。

 それであれば、意識の連続を絶てば時間を止めることができる。意識の連続を絶つとは、同じことの繰り返しである。昨日も今日も一年前も一年後も10年前も10年後も同じことの繰り返しであれば時間は止まったのと同じである。計数的な時間は経過するが、意識の中の時間は止まったままである。これは面白いと思う。意識的な時間と計数的な時間は違うのである。年を取ったら時間の経つのが早くなったということをよく聞くが、反対で、止まった時間を計数的な時間で測るからそうなるのである。意識が繰り返されればその分時間はゆっくりと進むのである。

正しい意識は繰り返される。

 間違った意識はいつか淘汰される。そうであれば、時が経つにつれ意識は全てが繰り返される状態に収束する。意識が繰り返されるということは時は止まったままである。これでいいのではないか。間違った意識をたくさん持つ者は時が急速に経過する。間違った意識を多く持つ者は、過去に間違った選択をたくさん重ねた者でもある。こうして人の寿命は決まる。寿命と言っても計数的な時間である。意識的な時間の長い人は結果的に計数的な時間も長くなる。そして精神的にも充実した人生を送ることができる。

ありふれた繰り返しの晩年の人生を嘆くことはない。

 これこそ幸福で満たされた至福の時なのである。10年前と変わらない10年後を迎えている人は幸福なのである。そして、最低限10年前の幸福を享受しているのである。より良い幸福を求めるなら新たな反応に基づいて間違った意識の修正を試みればいい。そうすれば10年後はさらに幸福な人生が展開するであろう。しかし、その修正はほんの少しでいい。余生間もないのであればもう修正する必要はない。そして思い残すことは何もない。これが到達地点だったのである。

これは私の仮説である。

 しかし、今のところ私の中でこの仮説を覆すものはない。これはこれでいいのではないか。オブジェクト指向というプログラム手法がある。まず目標を目指す仮説を設定して、この仮説を実践・実証していくやり方である。人生の目標を自分なりに決めて、その目標を達成するための仮説を立てて、この仮説を実証してゆくこと、これを選択した私の魂を私の意識を貴重な存在に思える今日この頃である。そして、このことに賛同してくれる多くの周囲の人達がいることは私の確信を大きくし今後の行く末を左右することになる。

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