オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

誰が悪いのか、誰が反省すべきか

2018年07月26日 | Weblog
オウム事件や相模原殺傷事件がメディアで騒がれている。

 悪いのは事件を起こした張本人であることは間違いないし、罪に相当する罰を受けるのは当然である。まずは犯罪人であることを明確に証明しなければならない。罰はその後についてくる。罪状に応じて罰も変わるであろうが、まずは罪を犯したことは事実であり、これを逃れることはできない。たとえ精神状態や身体状態がどうであってもである。犯した罪そのものを正当化することはどう考えても無理であり、正当化するためにはそれなりの万人が納得できる理由が必要である。一番やっていけないことは事実誤認であり、事実認定にあたっての感情移入であろうが、最終的な結審では「情状酌量」ということもあるし、個々の善悪の判断は裁判に携わった人達の良心に委ねられる。 裁かれる対象は「人間」であり、科学的かつ論理的だけでは割り切れない部分もありそうである。

オウム事件は宗教に基づいた犯罪である。

 オウム真理教は歴とした宗教として認められていた。宗教界の事件であると私は思っている。なぜ宗教的観点からオウム事件を語らないのだろうと不思議に思っている。宗教界の重鎮がこぞってオウム事件について意見を戦わせなければならないと思う。社会的なカルト集団として片づけるのではなく、マインドコントロールと言う訳の解らない言葉で説明するだけでなく、オウム真理教が宗教としてどうであったのか、果たして宗教と言えるものであったのか、インチキか本物か、なぜ信者を妄信させることができたのか、など解らないことはたくさんある。ただ生起した事件の事実を詳細に調べ上げても宗教的な部分は浮かび上がってこない。しかし、この事件は宗教界で起きたものである。宗教界の関係者はこの事件が生起した責任の一部を負うことを認識すべきだと思う。日本の宗教界が低迷しているために起きた事件であるとも言える。日本国民全員を救済し世界平和を実現する宗教の存在そのものが疑わしいために訳の解らない新興宗教が台頭してしまったとも言えなくはない。

オウム真理教が台頭した時に、大いに宗教論争があってしかるべきだった。

 日本の宗教界にその力はなかったようである。宗教的な正当な評価がなされれば、その実体が明らかになり、信者も冷静な判断が可能になったであろう。漠然とした期待感をもって何となく入信した信者が、予備知識もなく教団の言われるままに行動し、最後はがんじがらめに拘束されて行動している姿が可哀そうでもある。考えてみると、宗教については日本では何も教育を受けていないのである。葬式と法事の時にお坊さんから説教を聞くくらいである。私は宗教家ではないので、何も言える立場にないが、日本人の宗教観についてもっと地に足をつけた考え方、思想を植え付けていくべきだと思っている。それは宗教家もしくは宗教に関係する人達の仕事だと思う。私はオウム真理教とは全く無関係で、この教団が犯罪を犯し、社会的な事件になったたところからしか知らない。宗教に起因した犯罪集団がとんでもない社会的事件を起こしたとしか認識していない。その宗教の何たるかはほとんど知らないし、教義も思想もわからない。ただメディアで報道される教団トップや信者の奇怪な行動を知らされて外見で判断するのみである。

相模原殺傷事件は健常者が知的障害者を殺傷したものである。

 犯罪を犯したのは健常者で、被害者は知的障害者である。障害者は何も悪くない。なぜ健常者が障害者を殺傷したのかを考えなければならない。当然、悪いのは事件を起こした張本人である。しかし、我々健常者にも責任の一端はあると思う。正直言って、自分でも障害者に対して優生感を持っている。障害を持っている部分については障害のない自分が優生だと思うのはしょうがないし事実だろう。しかし、障害そのものが個性だと言うこともできる。健常者の論理で戦わせれば障害者は不利な立場に立たされるが、障害者の論理で戦えば健常者が不利になるかも知れない。健常者と障害者が違いがあることは事実なのである。違いの部分は区別しなければならないのである。ただ、区別はしても差別はしてはならない。健常者も障害者も同等なのである。できることはできるしできないことはできない。できるのであればそれを強制して阻止することは誰にもできない。できなければ誰かに頼んでやってもらうしかない。意識しない部分での健常者の優生感がこの事件の火種なのではないだろうか。健常者は大いに反省しなければならない。

「生」と「産」と言う漢字がある。

 「産」の中にも「生」がある、どちらも「うむ」「生まれる」と言う意味である。「生」は土の中から若芽が出ているのを表したものだそうで、「産」は上が顔の形を表し下が生まれるである。生を受けて産まれ出るまでどんな人間かは解らない。生を受けたものとしてはみんな平等なのだろう。産まれ出て形となったところで障害者と健常者に分けられ、健常者と言えども障害者になるかもしれないし、老人になればいずれ誰もが障害者になって行く。障害者、健常者の差別はなく、みんな平等に一緒になってともに暮らしていかなければならないし、健常者は障害者のことを理解し、障害者は健常者のことを理解しなければならない。区別はあっても物理的に隔離したり、差別してはいけないのである。区別は一つの個性としてとらえなければならない。優生感を持てば序列を持ってしまうし、序列下の者はのけ者にされたり無視されたりであるが、優生感にキリはない。どこまでものけ者や無視が行われ、もっとひどい場合は虐待や殺戮となり、最終的には組織や集団や社会を否定し破壊することとなる。くわばら、くわばら・・・。

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