12歳の少年が幼児を殺した事件があった。
細部マスコミで取り沙汰されていたが、どう考えても事故ではなさそうだし、怒りや恨みでもなさそうである。淡々とした平静状態で日常生活の延長として結果として殺人を犯している。原因は何だろうと考えてみるが、単純に言えば、「人を殺してはならない」ということをしっかりと教え込んでなかったのではないかと思う。自分と他人の関係で他人から殺されそうになったような経験もなく、無体な暴力を受けたこともなく、一方的に意志や行動を強制されたこともない。たとえあったにしても手厚く防護された隔離された状態での経験で実体験として強要され暴力を受け殺される側の立場に立って考えることができなかったのではないかと思う。
人間対人間の直接の関係を大事にしなければならない。
取っ組み合いの喧嘩をしてもいい、罵詈雑言をぶつけ合ってもいい、虐めても虐められてもいい、その中で正常な人間対人間の関係が育っていくと思う。世間の風潮として「争い」を努めてなくそうもしくは避けようという意識が強い。はじめから完成された非の打ち所のない人間なんて存在しないし、人間は最悪の状態から最善の状態に這い上がろうとする時に最大のエネルギーを生む。深い谷底まで落ちる必要性を説いているわけではないが、日常生活の山谷において実体験としての経験の積み重ねがその人の人格を形成して行くと思う。その過程で山谷を避けることばかりを追求していたのでは人格は育たない。
青少年の人格形成の上で重要なことは、
多くの人との交わりだと思う。無知な人でも、乱暴な人でも、横暴な人でも、わがままな人でも、変わった人でも、そしてすばらしい人格者でも、老若男女問わず交わりを持つことだと思う。その中で何が良くて何が悪いかを自分なりに峻別して行くことがそのまま青少年の人格形成になる。良いお手本もあれば悪いお手本もある、当然目指すところは良いお手本である。そのお手本を示すのが両親であり、先生であり、近隣住民であり、ひいては日本国民である。みんなで青少年を善導してやらなければならないと思う。また、人との交わりが日常的にできるような社会環境を作るべきである。そのためには子供を家庭や学校に閉じこもらせずに社会に向けて大いに解放してやる必要があると思う。
「教育」には三つの要素があると思う。
一つは社会性を育てるしつけ教育、二つは一人前になるための職業教育、三つは知識をつけるための学問教育である。この頃の教育は「学問教育」ばかりに偏重し過ぎている。もっと、しつけ教育、職業教育を見直すべきである。しつけ教育、職業教育は実生活に根付いた実体験教育でもある。この部分が欠けているように思える。実体験とは実社会での体験であり、実社会の体験とは多くの人との交わりから生まれる。実体験は学問とは異質のものであり、人間や社会や自然を相手にした際の生きるための知恵である。家庭でのしつけ教育、学校での集団教育も重要であるが、それを生きたものとする社会教育をもっと充実する必要があると思う。
この頃の社会は人と人の絆が弱くなっている気がする。
子供社会を例にとれば、徒党を組んで行動しているのをあまり見ない。多くても2~3人で対等な関係で行動している。ガキ大将という言葉は久しく聞かないし、近所でも見たことがない。子供同士で喧嘩しているのをあまり見たことがない。みんな大人しい優等生ばかりである。大人社会を例にとれば「核家族」であり、一般的には両親と子供が家庭の単位であり、隣近所との付き合いも疎遠である。町内会も形だけで、昔の家長や村長(むらおさ)や長老のような町内会長もいない。当然全員が共同して何かをする場も少ないし、参加意識も薄い。子供が運営する町内の子供会も有名無実で実質大人が仕切っているし、子供が主体となって近隣社会に貢献するような場も機会も与えられていない。
このような環境の中で子供は成長しているのである。
悪いことや良からぬことをしていても誰も咎める者がいない。反対に過保護の中で自分の好き勝手に社会生活を謳歌している。イヤなことは避けて通れば良く、誰も強制する者は居ない。反対に大人から見た「好ましくないもの」からは大人が防護し排除してくれる。そして子供はただ勉強(学問)をしてればいいと言うのである。学問ができれば優等生としてチヤホヤされる。そのようなエスカレータに乗っかって子供は成長して行く。自分の足を使って大地を直接踏みしめて歩こうとはしないし、回り道や道草をしようともしない。そして一番問題なのが大人がそれを望んでいることであり、子供が忠実にそれを果たしている現実である。
獅子は我が子を鍛えるために千尋の谷に落とすという。
人間の子供も徹底的に突き放されぶちのめされるような体験が必要なのかもしれない。少なくとも、子供同士の競争や人間同士の感化を積極的にやらせて社会生活をする上での作法やきまりをしっかりと体得させる必要がある。基本的には自由に放任して時々良い方向に善導してやるくらいでちょうどいいと思う。放ったらかしは問題であるが、いちいち細かいことまでを手取り足取り教えるのも問題である。自分で考える習慣がつかないし、実体験としての経験が積み上がって行かない。他人に任せっきりも問題である。教えようとしているのは人と人の交わりであって、誰かが真剣になって対峙してやらなければ心は通じない。
人は一人では生きられない。
一人で生きれると思ったら大間違いであり、そんな甘い考えの者がいたら保護の手を取り去って本当に一人で生きさせてみることである。甘えが許されるのは誰かの手厚い愛情と庇護に守られているからである。他人の痛みがわからない者がいたら自分が他人から痛めつけられる経験をさせることである。自分が他人にしていることがどんなにひどいことかを実感できるし、やったことはやり返されるという対等の立場での社会生活を生き抜くための気構えを持つことができる。他人との関係で自分が浮き彫りになり、自分が形作られて行く。
善悪判断と「できるからやる」「できないからやらない」とは全く別である。
自分より弱い者を殺すことは可能である。自分より強い者には反対に殺されるかもしれない。だからといって弱い者を殺すことを是認してはいけない。よく考えると弱い者は過去の自分(乳幼児時代)であるし将来の自分(老齢者時代)でもある。その自分が殺されることを思わなければならない。もし弱い者を殺すことを是認したら現在の自分も将来の自分も消滅してしまう。自分が消滅しても構わないと言う人は精神的に病んでおり正常ではない。人はよりよく生きるために努力しているのである。対等の他人を殺すのも対等の他人から殺されることを覚悟しなければならない。どう考えても人を殺すことは良くないことであり、「人は殺してはならない」。
人はみんなのおかげをもって生きている。
今の自分が存在するのも、過去の弱い自分を支えてくれたたくさんの人達のおかげであり、将来自分が生き続けれるのも、将来の弱い自分を支えてくれるたくさんの人達のおかげである。そして今の自分は、過去の自分を支えてくれた人達への恩返しと、将来の自分を支えてくれる人達への感謝のために、自分のできる精一杯の社会への貢献をしなければならない。今の自分がみんなのために何ができどんな役に立つかをまず考えなければならない。そこがすべての出発点であり、その延長線上に過去へも未来@へも「みんなのおかげ」が広がっている。自分さえよければ、今さえよければ、他人に迷惑をかけなければ、自分は他人と関係ない、等という考え方は危険でさえある。
果たして、今の青少年は精神的にも肉体的にも叩きのめされた体験を持っているだろうか
徹底的に虐めぬかれた体験を持っているだろうか、衆人環視の中で恥ずかしい思いをした体験を持っているだろうか、同僚と取っ組み合いの喧嘩をしたり腹を割って話し合ったりした体験を持っているだろうか。そして、それらの体験から逃げることなく問題や課題に立ち向かい自分を取り戻して見事に克服し、新たな自信を積み重ねているだろうか。どうもそうでないような気がするし、世間の風潮もそんなことから目をそらし避けて通ることを推奨しているような気がする。「何も辛くて苦労するようなことや揉め事には関わらなくてもいいんだよ」と言って青少年のご機嫌を取っているようにしか見えない。これでは逞しい青少年は育たないと思う。
恥ずかしながら自分の過去を振り返ってみると、
子供の頃、例えば性に関する知識や体験はどのようにして獲得していたんだろう。少なくとも両親や先生からではない。両親や先生では年齢や環境や考え方が離れすぎて「仲間」になれないのである。性に限らずいろいろな悩み事や相談は5、6歳年上の隣近所の年長者であったり、両親の親戚や知人関係の同年代又は年長者だったり、同年代の仲の良い友達だったり、年上兄弟の友達であったように思う。いずれもお互いに悩みを持ち共有できる者同士である。そういう中で直接に又は雑談や猥談の中で自然にまるで赤ちゃんが言葉を覚えるように学んでいった記憶がある。下手に「仲間」でない人が大上段に「性教育」をすると、実体験を伴わない単なる知識教育になってしまう恐れがあり、動かしようのない一方的な押しつけはいびつな観念を植え付ける結果になってしまうと思う。精神的な教育は固定された死んだものではなく動きのある生きたものである必要がある。
大人の「AはBである」という決めつけは生きた教育にはならない。
「A男はBだと言っている」「C子はFだと言っている」そして「私はKだと思う」という中でお互いに共通の共有できる概念が育って行くと思う。常に開かれた知識であり、ファジーではあるが核となる部分はしっかりと包含した実体験に基づく知識でもある。結果的には「AはBである」という結論になるかも知れないが、なぜAがBなのかを自分の実体験をも含んで理解することが重要である。そうでなければ「AはBである」ことは知識として知っていても実行動はこれを全く無視した方向へ突き進んで行っても止める意志を持たない人間になってしまう。
神戸そして長崎の少年による殺人事件は、
いろいろな憶測をもってマスコミ等で語られつつあり、語られたが、一般大衆は犯行動機、理由、精神状態などについて納得できる説明を執拗に求めるものである。不完全な状態のままにしておくことができないのであり、何らかの筋書きを作って自分の中で納得させ安心したいのだと思う。最終的には特異な事象であり自分達には直接関係ないという安心できる結論を得たいのだと思う。マスコミ等はこれに迎合している傾向があると思う。客観的に考えると発作的な衝動によるものかも知れないし、たまたま結果的に死を招いただけかも知れない。結果として死を伴ったという理由だけで特異かつ奇怪な重大事件として取り上げるのも冷静さを欠く。もしかしたら心の中の真相は犯罪を犯した本人も承知していないのではないかと思う。
この殺人事件そのものが少年にとって人生最大の試練である。
そのことをしっかりと理解させ、試練を克服させなければならない。言い訳と自己中心の説明だけで終わらせてはならない。自分が何を考え何をやったかを克明に認識させ、殺害した相手の気持ちになって、自分が周囲にどんな害悪を与えたか、自分の罪がどれほど深いか、現実のこととして具体的に繰り返し教え込まなければならない。少なくとも自分の犯した罪の意識と、そのことに対する謝罪の気持ちは持ってもらいたい。ここでこの罪の認識をいい加減にし、目をそらさせるようなことがあれば、これまでと同じことであり、堂々巡りを繰り返すだけである。これまでも殺人に至らない段階で、悪いことをした時点でしっかりと悪い行いを認識させ正してゆくような教育が必要だったのである。そういう機会が与えられなかったこと又は失っていたことが今回の結果として殺人を犯した悲劇ではないかと思う。
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