オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

一を聞いて十を知る

2006年06月11日 | Weblog


学校で教えることが多くて、時間が足らないと言う声を多く聞く。

 何故教えることが多くなってしまうのか、何故時間が足らなくなってしまうのか、その理由を考えてみればいいと思うがどうだろう。昔から「一を聞いて十を知る」と言う言葉がある。教育を受ける若者が「一を聞いて十を知る」能力を持っていれば教えることは十分の一以下に、教える時間も十分の一以下になる。余った時間は若者が考える時間にすればいいのである。「十を教えて十を知る」ではいくら教えてもきりがないし、教えた十のことしか知らないが、「一を聞いて十を知る」能力を持った若者は、時間の経過とともに十が百、千、万と際限なく知識が増殖し、しっかりとした自分の世界を築き上げることができる。

「一を聞いて十を知る」能力を若者に与えるような教育をしなければならない。

 十でなくても、五でも三でも、少なくとも二以上のことを知る能力を与えない限り知識の増殖は起こらない。あとは時間の問題だけである。早期熟成型もあるだろうし大器晩成型もあるだろう。「一を聞いて一しか知らない」若者には、一から十まで手取り足取り何でもかんでもいちいち教えなければならない。今の教育は「一を聞いて一しか知らない」若者を育てて、能力の低い効率の悪い若者に詰め込み教育をやっているのではなかろうか。だから学校で教えることが多くて、時間が足らなくて、結果として能力の低い若者が世の中に出回っているのではなかろうか。詰め込み教育で覚えさせられたことは、新しいことを覚えるために昔の記憶は消去しなければならない。かけ算九九を忘れた若者、分数や小数が理解できない若者、指示されない限り行動しようとしない若者等々、その弊害ではないかと思えてくる。


「一を聞いて十を知る」ための、「一」は何だろう。

 それは、十を知るための「素材」であり「道具」である。かけ算九九を覚えさせたら、かけ算九九の使い方もあわせて教えなければならないし、その道具としての便利さを教えてやらなければならない。「暗記させて試験をしてそれでお終い」では何にもならないし、そんな御利益のないかけ算九九はすぐに忘れてしまう。重要なのは後者の「かけ算九九の御利益」のほうであり、かけ算九九を暗記することではない。暗記したものを「素材」や「道具」として使い込んでいるうちに、いつの間にか身についてしまうものなのではないだろうか。便利な道具は肌身離さないはずである。このことによって、若者は「一を聞いて十を知る」能力を身につけることができるのであり、一生涯でかけ算九九から増殖した知識は計り知れないものになる。

よく「学校教育で教わったことは何の役にも立たなかったし、いつのまにか忘れてしまった」と言う人がいる。

 これは、教わったことを活用して実践に移す方法を教えてないからだと思う。ただの試験のための暗記は簡単に忘れてしまうし、暗記しただけでは実践に移すことは不可能であり、少なくとも暗記したことを実践の場で具体的に確かめる行為が必要であり、行為を確かなものにするためには試行錯誤や繰り返しも必要であり、現実の場で実用してみることも必要である。こういう考え方が欠落しているため「学校教育で教わったことは何の役にも立たなかったし、いつのまにか忘れてしまった」と言う結果になるのではないかと思う。学校で教わったことは教わった通りにしか活用できないこともない。いろいろな応用が可能なのであるし、本質的な考え方は人格を形成する一部に組み込まれるのである。決して無駄ではないし、無駄にしてはいけないのである。


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