オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

聞き流していたけれどもずっと気になっていた言葉

2020年12月14日 | Weblog
はっきり言ってくだらないことである。

 小学校で顕微鏡で観察するため、「ツユクサ」を家から持って来て下さいと先生から言われた。私はまじめに「ツユクサ」を持っていった。ところが、持って行ったのは「ミズツユクサ」でツユクサではなかった。それを先生から冷静に指摘された。その雰囲気が何となく馬鹿にされたような気がして、いまだに気になっている。なんで今になっても気になっているんだろう。

「ツユクサ」は園芸品として流通している。

 しかし、「ミズツユクサ」は野生で、園芸品としては流通していない。そんな「ミズツユクサ」を持って行ったことに対して引け目感じたからなのだろうかとも思う。その当時の先生にも何となく馬鹿にしたような雰囲気がプンプンと感じられた。だからいまだに気になって仕方ないのであろう。還暦を過ぎるこの時期にあって未だ忘れきれないでいる自分がいる。

人間の思い込みとは困ったものである。

 でも、この思い込みが自分のアイデンティティなのである。これを考え直そうとしてもなかなか無理なようである。教育とはこんなことなのだろうと思う。結局は他人に自分の信じることを植え付けることが最初の教育だと思う。それが正しいか間違っているかはその後の本人の主体性によって変わっていくのだろう。それでも、最初の植え付けることがなければ教育は成り立たないと思う。

教育はその時だけで終わるわけではない。

 引き続き、いろんな人達の教育があって正しい認識に落ち着くのであろう。認識機能に異常がなければ人々は正しい方向に導かれるのだろう。それなのに、なんでヘンテコな人達が発生するのだろう。それは、やはり、いろんな人達、すなわち我々が関与する努力をしてないからだろう。いろいろな事件が発生して、それを自分達と関係ないことと済ましてはならない。我々も何らかの行動を起こさなければならないのである。

私は25年以上近所のコースをウォーキングしている。

 自慢ではないが、この間ごみを捨てたことは全くない。このことは自慢できることだと思っている。しかし、よく考えてみると、ウォーキングのコースに落ちていたごみについては見てみない振りをしていた。これが果たして正しいことなのかといまだに思っている。積極的にゴミ拾いすることが最終的なあるべき姿だと思う。そうは言っても得体のしれないゴミに手を出す勇気は今のところないが、何とかしなければならないと思っている。

何で「ツユクサ」と「ミズツユクサ」の違いにいまだにこだわっているのだろう。

 そんなことはどうでもいいのである。私が当時持って行った「ミズツユクサ」もツユクサであることを認めて、今回の顕微鏡で観察するのに適しているのは本来の「ツユクサ」だと言ってくれればよかったのだと思う。そんなことに変なこだわりがあるし、ちゃんと説明されなかったことによるわだかまりがあるような気がする。大元は大したことではないのである。

これから思いを展開すると、

 メディアの報道の姿勢である。このどうでもいい不満を徹底して報道すると、一つの誤った情報を作り上げることができる。これを問題ないこととして解消するためには、「ミズツユクサ」と「ツユクサ」の違いをはっきりさせることである。これによりわだかまりは解消する。ところが、メディアはわだかまりをそのまま継続して次の新たな情報を流し続ける。だから不安は増大するばかりである。我々は心して立ち向かわなければない。

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