オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

子供は素直で汚れがない?

2006年11月29日 | Weblog

我々が子供に対するイメージは「素直で純粋無垢で汚れがない」であろうか、

 確かに素直で純粋無垢で汚れがないのは認めるが、神様みたいな善人で聖人君主であることは認めない。子供の中の真実の姿をもって即ち「善」であるというのは賛成しかねる。真実とは厳しいものであるし、善も悪も真実には変わりない。子供は善も悪も含めて「素直で純粋無垢で汚れがない」のである。性善も性悪も含めて兼ね備えている。この性善の部分を助長して性悪の部分を矯正してゆくのが教育である。性善も性悪も兼ね備えたまま育て上げるのが教育ではない。性悪の部分を矯正できないで大人になって罪を犯すのが犯罪者である。

ところが、子供は生来のまま育てれば理想的な人格に成長すると思っている人が居る。

 私は、生来のまま育てたらただの動物として育つと思う。ただの動物として育った人間は確かに個性的かもしれないが、どう考えても人格者だとは思えない。どうしてこんな誤解が生まれるんだろう。たぶん「子供の生来のままの姿を大事にしなさい」という忠告をそのまま鵜呑みにしたのではないかと思う。子供の創造的な芽を大人の一方的な思い込みで摘み取らないことを戒めたものだと思う。型にはめられた教育に対して反論しているかもしれない。しかし、「創造的な芽」は善の方向にも悪の方向にも伸びる。これを適正に判断して矯正してやることは教える者の責任である。

教える者が自信を失っているのかもしれない。

 自分の「適正な判断」に自信が持てないのかもしれない。だから矯正することを躊躇するのかもしれない。いい加減な矯正ならしない方がいいと思っているのかもしれない。もっと言えば「創造的な芽」を見つけることさえ怠っているのかもしれない。創造的な芽を見出せなければ助言さえすることはできないし、評価し賞賛することもない。そんな人が「子供は生来のまま育てれば理想的な人格に成長する」と思い込んでいる、いやそう確信したいと熱望している。しかし、そんなことは決してない。

子供は大人が思っている以上にしたたかである。

 子供を教育するのは、全身全霊を込めた真剣勝負の人格教育である。油断すると子供のエネルギーに根負けしてしまうほどのパワーを持っている。善いことも悪いことも含めてである。ある時は善いことに走り、ある時は悪いことに走る。じっとしている間もない。だからこそ、善いことは善いと、悪いことは悪いと助言し、たまには矯正してくれる人が必要なのである。躊躇している暇はないし、自信があろうとなかろうと、自分の人生経験に基づいた考え方をぶつけてゆくしかない。教える人の基準で子供は育ってゆくし、一人だけの基準や画一的な基準で閉鎖的な教育をされたら、それこそ子供の創造の芽を摘み取ってしまう。いろんな人に接していろんな基準と付き合うことで子供は成長する。

子供の教育を閉鎖的な学校に封じ込めていないだろうか、

 子供の教育は社会のみんなでやるものである。そういう意味で学校は閉鎖的であってはならないし、全ての教育は学校で完結するという思い込みも捨てなければならない。学校は集団生活と学問を教えるところで、本来はしつけ教育をするところではない。しつけ教育は主として親のやることである。学校は個人のしつけ教育をやっている時間と人力はないし、個人まで手が届かない。個人にまで手が届くのは、やはり親である。ところが、学校がしつけ教育をしようと躍起になっているが、物理的にできないのでジレンマに陥っている。そして、学校を教育に関しては何でもかんでもできる理想の聖域としている感じがする。決してそんなことはないし、学校は教育の一部しか受け持っていない。何でもかんでも学校に押しつけるのは間違っている。

学校では悪は一切ない聖域だと思っているし、思い込んでいる。

 社会から隔絶された理想の聖域だと思っている。だから、社会から隔絶し乖離し閉鎖的になって行く。社会も学校に対してそのように期待している。社会は悪に充ち満ちており、子供の教育はこんな社会から隔絶した理想郷で行うべきだと考えている。しかし、子供といえども社会と関係し社会から感化を受け、いずれかは社会に飛び立ってゆくのである。この悪意に充ち満ちた社会と切り離して教育は成り立たないし。また子供を学校という閉鎖的な聖域に閉じこめてしまうと、学校内で居場所を失った児童は何処にも逃げ場がなくなる。家庭も地域も社会もこの閉鎖的な学校にまかせっ切りにしてしまっては児童がかわいそうである。

学校は地域や社会に開かれたものであるべきである。

 子供は学校とのつながりに加えて、親兄弟とのつながり、近所友達とのつながり、地域とのつながり、社会とのつながりなどが必要である。それぞれに分担して子供の教育の場を提供するのが理想であるし、またそうすべきである。学校が、教育委員会が、国があまりしゃしゃり出ないで、学校が教育の一機能として役立っていれば何も問題ない。全てを取り込もうとするところに問題があり、全てを統制しようとすることに無理がある。物理的に無理なことをやろうとすると大幅な効率化が必要であり、効率化は画一化につながり、教育の質は落ちる一方であり、先生も生徒も不幸を招くことになる。

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