オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

正義について

2016年04月24日 | Weblog

正義には2種類ある。

 周囲から強制された正義と自ら湧き出してくる正義である。通常自分で信じている正義がどちらなのかはよくわからない。きっかけは強制から始まり自分の中で育った自らの正義感を通じて醸成され、新たな正義感を作り出してゆくのだろう。どこまでが強制でどこからが自分の中から生まれたのかはわからないし、一つ一つを過去の経緯から分析検討することも不可能である。今現在の自分なりの正義感があり、その正義感を周囲の状況に合わせて修正してゆくのだろう。

「これが正義だ!」と主張する時、

 それが集団の正義か個人の正義かを見極める必要がある。集団の正義は集団に属しない人にとっては正義でない可能性があるし、その集団がその正義を強制することもできない。強制された場合は断固として自己の正義を守るために戦わなければならない。集団の規模がどれほどかも気になるところである。大多数の集団がある正義を主張する場合、少数側が対抗する正義をもって戦うのは相当の困難を伴う。それでも戦わなければならない。納得できない安易な妥協は禁物なのである。

「正義だ!」だけで真実であるとの証明にならない。

 正義のために戦う場合は、誰の正義なのかを明確にする必要がある。ただ単に「正義」をぶち上げて、その正義を既得権化して他に強制することはできない。ある正義は他の正義と相矛盾するのである。ある立場からの正義は他の立場からは正義でない可能性がある。ある集団の正義は他の集団の正義とは限らない。そこの辺を冷静に判断しながら正義を主張し、対抗する正義に対しても敬意と尊敬を持つことも重要である。自己の正義が全てではないのである。

正義のために戦うのはかっこはいいが、

 正義の味方を自任して、誰の味方をしているのか忘れている人達がたくさんいる。もっと言えば、主張している正義が果たして本当の正義か疑問に思えることばかりである。本当の正義であれば一方的に強制することはないはずである。また強制しなくても賛同してもらえるはずである。強制すること自体がその正義の真偽が疑われる。自分達で正義と思い込んで半ば強制的に周囲を巻き込んで活動している人達は少しは考え直さなければならないと思う。


自分達の考え方を一方的に「正義」と主張するのもおかしい。

 自分達の集団が、または自分が、「これが正義だと考えている」というのが正しい。「あなた達にはあなた達の正義があるだろうが、私達はこれが正義と考えている」というのが冷静な考え方であろう。そしてどちらの正義も正しくもあり間違いもある。そして、正義と正義の戦いもある。自分の帰属する組織の正義を守るために対抗する組織の集団を裏切る場合もあるのである。裏切りは自分の帰属する集団への忠誠でもある。いずれにしても自己の立場を冷静に見極め、明確にすることが重要なようである。

テレビや映画で正義の味方が悪人をバッタバッタと切り倒してゆく。

 悪人にも悪人の主張があるはずであり、切り倒されている個人にはそれぞれに家族があり、家族を養う善良な父親でもあるはずである。いくら正義の味方でもこんな行為は許されない。勧善懲悪はいいが、何が善で何が悪なのかの判断は何時誰がやっているのだろう?そしてその判断は果たして正しいのだろうか?そんなことを考えると。「正義の味方」は幻想で、空想の世界にしか存在しないようである。切り倒すという乱暴なやり方にも問題がある。見ている方は憂さ晴らしにはなるが、あくまで創作であることを肝に銘じなければならない。そして、安易に正義の味方気取りしないよう自制しなければならない。






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