オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

画像と映像と音楽と

2006年12月16日 | Weblog

画像や映像が意思を伝えるだろうか?

 この頃は何でもかんでも画像や映像がないものはない。画像や映像がないと完成品と思われず見向きもされない時がある。そして、何でもかんでも画像、映像付きである。しかし、画像や映像は意思を伝えない。意思を伝えるのはやはり言葉であり文字である。言葉や文字で伝えにくいものを画像や映像で伝えるし、ただの画像や映像では感じや印象や事実を伝える事はできるが、最初の言葉や文字がなくては意思を伝える事はない。

こう考えると、画像や映像は言葉や文字の副次品のようである。

 言葉や文字があって、この言葉や文字をよりわかりやすく伝えるために画像や映像がある。「百聞は一見にしかず」と言うことわざがあるが、これは事実を伝えるためのことで、意思を伝える事ではない。目の前で起こっている事実を言葉や文字で伝える事は難しいが、画像や映像はそのまま伝える事ができる。しかし、それは人間の意思ではない。そして、伝わるものは個人によって違うし、画像や映像の理解の仕方はそれぞれに異なる。

画像や映像で伝わるものは感覚である。

 それを見て感じたものである。それをどのように見るか、どのように理解するか、何を伝えたいのかを説明するのは、やはり言葉であり文字である。ところが、この頃言葉や文字が大事に扱われてなくて、画像や映像を見た感覚だけで理解しようとしているし、言葉や文字も短縮化されて、ただ単なる単語だけで理解しようとしている。人の意思とは複雑なもので、単語だけで表されるものではないし、世の中の出来事も単語だけで表現できない。そして、音楽も感情や雰囲気を表現するもので正確な意思を伝えるものではない。

画像や映像や短い言葉や文字で表されるものは誤解が多い。

 「解り易い」と言う事は「解ったと錯覚させている」ということでもある。本当の心のひだの機微にわたるまで理解しようとすれば、やはり膨大な言葉や文章が必要であるが、現代は効率化・合理化か知らないが、これらをすぐに省略してしまう。結局は何も理解されないで感覚だけで右往左往しているような感じである。そして感覚で走り始めた集団に対しては、これを制止することも止めてしまっている。熱が冷めるまで放置しておくのが現代のやり方のようである。誤解されても敢えて訂正しようとする努力をあまりしない。要はマスコミに抗することを辞めてしまっているのである。

世の中画像や映像が溢れかえっている。

 これだけの画像や映像が流されていると言う事は、これだけの誤解をばら撒いている事でもある。そして、その画像や映像にはほとんど言葉や文字のコメントはなく、あっても短いものである。これで正確に伝えられるとは思えない。現代人はもっとお互いに時間をかけて話し合う事が必要だと思うし、大いにその努力をしなければならないと思う。また、膨大な文章にも諦めないで目を通す努力をすべきである。次から次へ情報を画像と映像で流してゆくのでなく、じっくりと言葉と文章で熟考しながら理解してゆく事が重要である。何にもまして人と人との直接の対話を大事にしなければならないと思うこの頃である。

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