この頃アイデンティティという言葉を良く耳にする。
一体何だろう。「変化する環境の中で自己がさまざまな役割を演じるとき、そうしたさまざまな〈私〉を統合する変わらない自己」をアイデンティティと呼ぶそうである。それでは〈私〉のアイデンティティとは何だろうと考えると困ってしまう。あちこちでアイデンティティという言葉をを振り回している人達は本当に理解して使っているのか疑問になってくる。結局アイデンティティとは自分自身をしっかりと見つめることである。自分が何なのかを明らかにすることである。「汝自身を知れ」と言われるが、まさにそのことがアイデンティティなのである。
自分自身を見つめて、自分自身が何なのかを明らかにすることは非常に難しい。
身につけている時計ひとつをとってもアイデンティティなのかも知れない。何故その時計を身につけているのか、その時計でなければならない理由は何か、その時計によってどんな自己表現をしているのか、未来永劫その自己表現を貫くことができるのか、等々を考えてみるといかに自分のアイデンティティが不確定なものでフラフラと落ち着かないかが如実に実感できる(それがアイデンティティかも知れないが、情けないことである)。過去自分が愛用してきた時計の歴史を見てみると、その場限りの思いつきと安易な妥協でしかない。ある時はかっこいいから、安いから、高級だから、見栄えが良いから、高機能だから等であるが、そこには「統合する変わらない自己」なんてまるで存在していないようである。自分の身につけている時計で自分のアイデンティティを語れるようなしっかりとした自己を持ちたいものである。
このように、自分自身のどこの一部をとってもアイデンティティを主張できるのが理想である。
そして、それぞれが集まって「統合する変わらない自己」すなわちアイデンティティとなるのであろう。しかし、私にはそんなものは見当たらない。ただ存在する自分という素材そのものしかない。結構素材そのものも自己主張という反応を示してはくれるが、それは統合されたものではないし、統合するのは自分自身の精神活動によってであろう。どう考えても私の自己は統合されていない。それほど精神活動が活性化していない証拠だろう。しかし、他人が見ると〈私〉という個人が明確に認識できるようである。尊敬すべき優秀な個人ではないだろうが、とにかく〈私〉を認識し〈私〉の行動に納得してくれる。時には意見の食い違いもあるがその違う部分が〈私〉なのだろう。それでも〈私〉はアイデンティティを認識することができない。
〈私〉のアイデンティティを現そうとしたら多分百科事典数冊分くらいになるかも知れない。
一言で現すことはできない。これについてはこう、それについてはそう、あれについてはああ、と言う具合に個別に現わされるものであろう。アイデンティティとは、自分自身に誠実で、その自分自身の考え方、判断結果を大切にし、自己主張して行くことではないかと思う。その中でどうあるべきかを徹底的に追及することにより「統合する変わらない自己」が生まれると思う。私のアイデンティティは大自然につながっている。私の考え方や判断基準は大自然に学んでいる(つもりである)。わからなくなったら大自然の摂理に立ち返って考えてみることにしている。それでは大自然のアイデンティティは何かと問われても答えられないのと同じで、私のアイデンティティも答えられない。これもひとつのアイデンティティであろう。
日本のアイデンティティとは何だろう。
「統合する変わらない自己」として存在するのは日本の歴史であり文化だと思う。これをしっかりと伝承していかなければ日本のアイデンティティは消滅してしまう。アイデンティティは新しく作り出すものではない。新しく作り出せるものは「統合する変わらない自己」ではあり得ない。「統合する変わらない自己」はすでに存在しているもので、その存在を大切にして変わらないように外部に対して主張し守って行くのがアイデンティティである。強烈な自己主張をすることでもなく、特異性を打ち出すことでもない。結果としてそのようになる場合もあるだろうが、それはただ確固としたアイデンティティを堅持しただけであり、結果として周囲との違いが明確になっただけである。それでもアイデンティティは存在し、異質である周囲もこれを認めざるを得ない。なぜならばアイデンティティそのものが存在意義なのだからである。そんな気概を持って日本のアイデンティティを明確にして堅持して行く必要がある。
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