オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

空海の教え

2023年01月28日 | Weblog

先日ホームパーティーがあった。

 その席で、缶ビールを飲み終えて、そこのホストの人に話題を提供するつもりで、「アルミ缶のつぶし方を知っていますか?」と尋ねたら、怪訝な顔をされた。それでも目の前でサッとアルミ缶を潰して見せたら、「私にはそんな必要はない、それより勝手にそんなことをしないでくれ」と言われてしまった。後でわかったが、その人にとっては、容積を小さくするより、ゴキブリなどが寄らないように、きれいに水で洗って捨てることの方が大事だったようである。

私は、二の句が継げなくて、あっさりと引き下がった。

 そして、潰した缶を元通りに戻して、水で洗って指定されたゴミ箱に捨てた。それだけのことである。しかし、この人はいろんなところで損をしているのだろうなと他人事ながら思ってしまった。たぶん、この人はこのアルミ缶の効率的な潰し方はこの先習得できないだろう。目の前でやっては見せたが、やり方とコツは教えていなかったのである。私としてはそこの部分に興味を持ってくれるのかと期待していたのである。

この潰し方を私が教わったのは、ホームレスの方からだった。

 ホームレスの方がアルミ缶を集めて、公園の広場でこれを潰して容量を少なくしてビニール袋に入れているのである。それをたまたま見ていて、うまいもんだなぁと感心して声を掛けたら、やり方を丁寧に教えてくれた。彼らにすればいかに容量を少なくしてコンパクトにして大量の缶を詰め込んで運ぶかが生活の質にかかっている。350mlの缶が10mlくらいに小さくなるのである。缶の直径の大きさでせんべいみたいになるので、かさばらなくて済む。

たぶん、くだんのホストの方は私が力づくで潰していると思ったのかもしれない。

 そんなことはない、女の人でも子供でもできるし、最後は足で踏みつければもっと小さくなる。もし、知っていればなんかの時に役に立つと思うし、私はとっても役に立っている。同じように段ボール箱の畳み方も教えてもらった。これは、見ていただけだが、自動販売機に缶を補充しているところを見ていたら、取り出した箱を手際よくコンパクトに片付けている。これにも感心して自宅でも段ボール箱を捨てる時に活用し重宝している。

私はベレー帽をよく被っているが、

 この被り方を教えてくれたのは、ある時空港で出会った国連軍の軍人さんだった。あまりにカッコ好かったので声をかけたら丁寧に被り方のコツを教えてくれた。たぶん軍の伝統に基づいた貴重な教えだったと思う。私は日本国内であれほどベレー帽をカッコよく決めて着こなしている人を見たことがない。私もあやかっているつもりだが、果たしてどうだろう。

人生の大問題に遭遇している人に対して、

 不用意に解決法を教えてやることは愚の骨頂だと言う。これは論理的にも正しいそうである。相手が自分より能力の高い人であれば、自分よりも解決能力は高いはずであり、いずれは本人で解決できるはずである。反対に能力の低い人からの解決策を採用するのは自尊心を捨てることでもある。能力が同等であれば、自分の解決策も相手の解決策も同等の価値しかないし、これで解決が進展するとは思えない。相手が自分より能力が低ければ、提示した解決策を理解できないし、たとえ採用しても実行不可能になるだけである。

それでは、どうすればいいのか?

 じっと見守ってやることである。そして、どうしようもなくなって相手が救いを求めてきた時に相手に応じて対処するのである。それまでは無駄なおせっかいはしないことである。ただし、見守ってやることは非常に大切である。神様、仏様の気持ちになって、平常心で見守ってやることが大切なのである。能力は関係ないし、教えてやろう、解決してやろう、助けてやろうと言う思い上がりが状況を悪くしてしまうのである。

知っていることを知識として教えるのは簡単である。

 知っているか、知らないかの違いであって、知ってしまえば問題は解決する。しかし、世の中のほとんどの問題はただ単なる知識だけで解決できるものではない。人類に課せられた哲学的な難問は未来永劫解決するものではない。宇宙の真理なんて誰にも分らないだろう。ただ、自分の中にも宇宙がある。その宇宙に問いかければ自分なりの答えが出てくる。それを現実世界で実践してみるのである。そして試行錯誤を続けるのである。

人生はそんなことの繰り返しである。

 知識は単なる手段にしか過ぎない。目標を達成するために必要な知識である。目標を達成すればその知識は必要なくなるが、次の目標に向かってまた知識の習得が必要になる。ただし、知識の習得が目標ではないのである。とは言え、乱雑な知識の習得は無駄にはならない。目標達成のためのすそ野を支えているのがほとんど乱雑な知識であり、その知識の中に求めるべき真理が包含されているのだろうと思う。

そんなことを考えると、

 その乱雑な知識を得る機会を粗末にすることに異議がある。何でもないことの中に新しい発想や新しいやり方や考え方が包含されており、そんなことに感心したり興味を持ったり自分でやってみたりすることが大事だと思う。いずれにしても欲を持たず自分に正直に生きることが大切で、そうであれば神様、仏様の人生が待ち受けている。世の中に迷いはなく、なるようにしかならない素晴らしい人生が開けるのだろう。

 


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