オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

争いを好まない日本人

2007年03月22日 | Weblog

日本人は本質的に争うことを好まないようである。

 争うと言うことは、意見が分かれることであり、お互いの立場でお互いの意見を主張して争うことになる。ところが、日本人の場合は争う前にお互いに譲歩してなあなあで決着してしまう。立場上どうしても譲れないようなことでも「まあそんなに意固地にならないで・・・」というような懐柔策で済し崩し的に争点をなくしてしまう努力をする。徹底的に争って結果を有利にしようというのではなく、お互いに歩み寄って妥協点を見つけようと言うやり方である。政治の世界では「玉虫色の決着」といっているが、対立案が入り乱れた妥協案は、正しいか正しくないか、是か非か、良いか悪いか、等の明確な結論が出ないため、何となくわかりにくくスッキリしないのが常態である。

争うことを好まないと言うことは、争いに弱いことでもある。

 現に日本人は暴力に対してはきわめて軟弱である。国内的にはこの弱点を食い物にする暴力団が跋扈し、暴力に泣き寝入りする人は数知れず、暴力的な行動や暴力的な発言に屈して不本意な結果に甘んじている事例は後を絶たない。国外的にも第二次世界大戦の後遺症もあるかも知れないが、軍事力などによる恫喝に対しては毅然とした態度を取ることができないでいる。暴力に対峙する時には是か非か善か悪かという毅然とした態度が必要であり、どんなことでも暴力に屈したという事実を作り出してはいけない。暴力は一ヶ所を許してしまうとこれを既成事実として怒濤のごとく押し寄せてくる。日本人が最も不得手とするものであり、なあなあの玉虫色の決着で暴力の言いなりになってきた過去がある。

争うことを好まないと言うことは、変革を避けることでもある。

 変革しようとすれば、摩擦が生じてあちこちで争いが起こる。その争いの結果によって進むべき方向が決まり、方向変換をすることによって変革がなされる。ところが、日本人は伝統的に争いを避ける方向に力が働く傾向にある。まずは、問題点をなかったことにして埋没させてしまう。次に問題点を解決する段階で済し崩し的に実質の中身がない形だけのものに置き換えて全員で納得してしまう。全員が納得した所に異を唱える者は団結を乱すものとして排除される。結局良いものは良いものとして残るが、悪いものも悪いままに残ってしまう。時間が経つとともに悪いものが山積し蔓延って最終的には良いものも駆逐されてしまう。

争うことを好まないと言うことは、農耕民族の定めだろうと思う。

 民族間、国家間の戦いの経験は日本には少ないと思う。あえて言えば日本人が戦う相手は「大自然」であるが、自然を相手に勝つことも変革することもできない。自然の脅威は一方的に受け入れるしかなく、人間が一致団結して対策を講じるしかない。その気質が延々と生き続けているために、民族間、国家間における問題も自然災害と同じような感覚で対応しているのではないかという気がする。その判断には自分の意志も善悪の判断も正義もなく、とにかくうまく納めてしまう方法を模索している気がする。大陸民族は戦う相手は民族であり国家である。そして大自然をも戦う相手として扱い、自然を克服し監理することを目標としている。

暴力に対抗できるのは基本的には暴力である。

 力には力で対抗するしかない。悪の力に対して正義の力で戦うしかない。力とは、まず意志力であり、次に物理的な戦力である。物理的な戦力を加える前に、自分の意志をはっきりさせる必要がある。自分の意志さえはっきりさせることができれば、物理的な戦力に負けても問題ないし、相手の物理的な戦力に屈することなく自分の意志を変えなければ最終的な勝利を失うことはない。

民主主義は与えられるものではなく自ら作り出すものである。

 日本人の場合は、民主主義が与えられたものとして機能し、民主主義の制度が権威として機能している。よってこの権威を悪用すればどんな悪いこともできてしまう。民主主義以前であればお互いの平等な話し合いの中で最良のみんなの納得する方策がとられていたが、民主主義の権威から出発すると何故かしら日本人はこの権威を一方的に認めてしまう。権威の主体は自分達だと言うことを忘れてしまっている。誰かしら善からぬ連中がでっち上げた民主主義の権威を胡散臭いと思いつつも追認してしまう。追認することが民主主義だと思って諦めている。おかしなことである。

民主主義以前または民主主義の初期には、日本人は柔軟に対応していた。

 外部から取り入れたものを日本独特のものに作りかえてさらにすばらしいものへと発展させるのは日本人のお家芸であったはずである。何故柔軟な対応ができなくなったのだろう。理由のひとつは、自主性を失っていることだと思う。外部からの一方的な押しつけの権威として取り込まれたものは自主的な選択の余地がない。良くても悪くても何とか対応しなければならない意識を生み出す。そのような状態では柔軟性を発揮することは困難である。二つ目は、理不尽ながら取り込まれた異質なものを土台として全てが機能していることである。異質なものを日本人と同質なものへと変えるには相当の時間を必要とするだろうが、日本人そのものが同質なものへと変えようとすることを諦め断念している傾向にある。

日本を変えるには、本来の民主主義を活用するしかない。

 民主主義の良いところを取り込んで、悪いところは英断をもって断固として改善して行かなければならない。最初からありきの権威として存在した得体の知れない民主主義は全て見直さなければならないと思う。それは民主主義によってしか実現できない。民主主義以前の日本人の考え方に民主主義の思想を取り込まなければならない。それは何かというと、個人個人が周囲の意見に流されず堂々と自分の意見を主張する気概を持つことである。そして、その主張の中で正しいものは勇気を持って取り込み、悪い部分を改善して善いものへ変えて行く努力を継続することである。たとえ摩擦が生じて争いがあろうと貫き通す意志を持つことである。

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