オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

より良く生きる

2007年01月05日 | Weblog


「人は何のために生きるのか」と時々疑問に思える時がある。

 少年の時からの大疑問であり、未だに解決しているとは思えない。この頃のひとつの解答は「より良く生きる」と言うことである。「生きる目的はこれだ」と断言するのは無謀であり困難である。断言した途端に人生の広がりが固定されてしまう。人の人生は無限の広がりを持っており、毎日無限の広がりに向かって何某かの努力をしているのが現実であろう。努力のないところに目的はないし、努力がなくなれば何もなくなってしまう。それでは何のために努力するかと言うと「より良く生きる」ためである。今の自分よりもより良い次元を目指して努力するのである。その努力が集大成し集約したところにひとつの目的・目標が見えてくる。最初に目的・目標があるわけではない。

今日一日をより良く生きるために活用しなければならない。

 そんなことを言うと何をしたらいいのか悩んでしまうが、掃除でも洗濯でも料理でも散歩でもいいのである。そんな日常生活の行いでも立派な「より良く生きる」ための行動なのである。「より良く生きる」ためには掃除も洗濯も料理も散歩も必要であり、衣食住、健康は最も重要な要素でもある。望ましいのはその上に「文化」があれば申し分ない。その「より良く生きる」ために仕事をし日常の雑事をし食事をし睡眠をしているのである。昨日の自分よりも今日の自分がより良く生きた結果で明日の自分はもっとより良い次元に到達しているはずである。この毎日が一生続くのである。

常に「より良く生きる」を念頭において生活しなければならない。

 そう考えると日常生活に改善・向上すべき事項は山ほどある。それをひとつひとつ見つけ出して可能な限り改善・向上して行くのである。何も贅沢で高級で高価な物に指向する必要はないし、どちらかというと実質的な心の内面、創造性もしくは自分の身体を駆使した技術の改善・向上である。「物」はそのための道具にしか過ぎないし「物」に固執する必要もない。贅沢をしたから「より良く生きる」ことと等価ではない。贅沢な旅行も貧乏旅行も自然を愛でる意味では同じであり、どちらかというと貧乏旅行のほうがより自然に近いところで行動しているかも知れないし、贅沢な料理よりも質素な料理により自然の恵みを感じる(栄養も豊富)。ちなみに私は魚のあらや肉の内臓系が大好きであるし、自然の海草類や野菜が大好きである。これらは高級である必要はない。

「より良く生きる」とは長生きをすることでもある。

 昨日の自分より今日の自分がより良い存在であることは、長生きすればするほど価値は高まって行く。長生きするために努力することも立派な「より良く生きる」ためのひとつの方策であり、自分を毎日どれだけ向上させられるか知らないが、少なくともゼロではないし、ゼロでないように努力しなければならない。ゼロであるとは今日が無駄であったと言うことである。そして、長生きするためにも努力が必要なのである。「もうどうでもいい」と思った瞬間から努力をする意欲が失われ生きる目的が喪失し日常生活は乱れ何もする気にならなくなってしまう。まずは気持ちのいい快適で健康な生活を目指して、その上で毎日自分を向上させるようなことをひとつでもふたつでもやっていけば立派な「より良く生きる」生活である。

「より良く生きる」ことは、外見の形式ではなく内面の実質である。

 どんなに一流のブランド品やオートクチュールで身を包んでも、内面の人間性が乏しくては意味がないし、人間性に乏しい人ほど外見や見栄を飾ろうとする。自分の価値観と嗜好がしっかりしていて、これに合った物であれば何もブランドにこだわる必要はない。自分があっての道具としての物である。他人との比較において他人の持ち物を横目で見ながら見栄を張りつつ高級品をあさるのは、それだけで心が貧しい。テレビで一流品の宣伝をすればするほど私は買いたくなくなる。そんな宣伝に乗せられる人と同様に扱われることが気に入らないのである。そして自分で選んだ自分だけの使いやすい自分の価値観と嗜好にあった物を買い求める。場合によっては百円ショップでも構わない。

テレビを見ていると、一流ブランド品や骨董品の持ち主と物件を紹介をしている。

 それ自体に文句をつけるつもりはないが、全てを値踏みの金額に換算して、金額の多寡で価値判断しているのを見るとそのさもしさにうんざりしてしまう。最終的には「金額」という価値判断しかないのである。反対に自分の価値観とその金額の乖離に馬鹿馬鹿しくなってしまうし、そんな馬鹿馬鹿しい「物」をしたり顔で自慢している人がアホ面に見えてくる。ウン十億円の価値だけを自慢するのなら、ウン十億円の小切手でもそのまま貼り付けて飾っておけばいい。どんなに高価であっても価値観が合わなければゴミ同然であり、普段使う物に何百万もかける人の気が知れない。

単に物が存在して、その物をそばに置いておくだけでは意味がない。

 文化財としてあるいは骨董としての価値はあるかも知れないが、何も博物館や骨董屋を目指すわけではない。これを使いこなさなければならない。使いこなすためには知識と技能とセンスを必要とする。その知識と技能とセンスを磨くことが「より良く生きる」ことである。場合によっては手に入れた物を自分なりに手を加えてアレンジし直さなければならない。そして自分の物として使い込む必要がある。新品のピンピンをただ飾っているだけでは何も芸がないし、何年後かの使い込んだ雰囲気が本当のその人なりの価値となる。そして、その物は世界にひとつの自分だけの物になるが、商品としての価値は中古の改造品以下になってしまう。それでもいいではないか、物の価値を完全に使い切った正しい使用法である。


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