オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

完全に不正のない人間はいない。

2011年03月09日 | Weblog

気づかない間に、もしくは知らない間に不正らしきことに身を染めている。

 自分の一日を考えてみればいい。常に正しいことをやっているわけではないし、完璧に常に正しいことを心がけることは病的な潔癖症に近いし、世の中はなかなかそのような行為を許容してくれない。その辺はある程度妥協して生きているのが普通の人間であり、そうでなければ生きてゆけない。それなのに、完璧に100%不正のない人間になれと言われても困ってしまう。少しでも不正があると絶対許さないと言われても困ってしまう。善も悪も併せ持つのが人間であり、総体として善を追及するのが人間でもある。全てが善であれと言われてもこれまた困ってしまう。これは神に近い。普通の人間には無理だ。いや人間である限り100%実現不可能である。

私なんかは、

 自分の心の中を見透かされたらたぶん存在することすら許されないだろう。常に邪悪なことやみだらなことを心の中に思い描いている。とんでもないことでも自由に妄想している。こんな邪悪な人間はいないと自分でも思う。ただし、これを現実に行動に移すかどうかは別のことであり、通常は理性で規制されている。しかし、善悪の判断をする時、善だけを考えているわけではない。善と悪の大きな振幅の中で正当な判断を導く。振幅は大きければ大きいほど正常な判断が可能になる。そして、時には正常な判断がブレてちょっと悪の傾向になることもままある。そんな試行錯誤を行いながら人生を生きているのが人間であろう。

この頃の日本はちょっとヒステリックである。

 過剰すぎる法令順守志向はちょっといただけない。ちょっとでも不正の事実があるとその人物の存在さえを徹底的に抹殺しようとする。1%でも不正があれば99%の存在を否定してしまう勢いである。これでは平常心を失ってしまう。残りの99%にも光を当てて冷静な評価をすべきである。不正の事実さえあればその程度や重要度に関わらず全てを悪と決め付けてしまうのはどう考えても間違っている。反対にひとつの必要性から派生したものを何にでも徹底的に適用してしまう短絡志向も是正すべきである。確かにある面からは必要性があり正しいことかもしれないが、全てに適用すべきと考えたり、過度に徹底しすぎるのは害悪を及ぼすばかりである。

相撲の八百長も、大学入試のカンニングも、政治献金問題も、

 あまりにも神経質になって本質を見失っている。問題のひとつはマスコミにあるようだ。事実をそのまま伝えるのは簡単である。その事実が果たしてどんな意味があり、どんな重要性を持ち、将来にどんな影響を与えるのか、問題があるのならその問題を解決するためには何をしどういう方向に進むべきかを明確にすることこそが追求すべきものである。確かに悪いことは悪いのであり許されるべきことではないが、それがどういう重大性を持つのか、解決できない大問題なのか、将来への影響力が大きいのか、世界的に影響力があるのか、などと考えてみると、騒ぐほどのものではないし、ちゃんと自分で是正してくれれば済む程度のものである。もっと思いやりが必要だと思う。

マスコミに乗りやすい話題は必要以上に騒がれる。

 まずは、珍しいこと、変わっていること、であり、その次にすでに「悪」であることが世間的に認められていること、そして「悪」が明白で解りやすいことであろうか・・・。特に、警察がすでに捜査している事件は、被疑者を徹底的につるし上げても問題にならないと思っている傾向にある。被疑者の人権はないに等しいし、あることないことを書きたてても、名誉毀損で訴えられることはない。名誉毀損の筆頭は被疑者として捜査している「警察」ということになる。少しはマスコミの理性で記事の内容にフィルターをかける考えはないんだろうか、事実を歪曲しろとか抹消しろと言うわけではない。事件の重要度に応じた報道に徹してもらいたいし、必要以上にセンセーショナルに騒ぎ立てるのは百害あって一利もない。それほど騒ぐのなら最後まで責任もって徹底的に報道してもらいたいが、話題性がなくなると即座に次の話題に飛びつく感覚にはあきれてものも言えない。

世界の側から日本を見るとちょっと変わっている。

 たとえば、どこどこの誰かさんが交通事故で怪我をした、とか、どこどこの住宅で火事があって誰々が負傷した、とかの報道が全国津々浦々に報道されている。ローカル放送ならまだわかるが、全国放送で流されているのは何だろうと思ってしまう。確かに事実には違いないし人命に関わる重大事だと言えばその通りだが、日本全体からすれば、「それで何ナノ?」という感じである。日本国民全体に問題提起すべき事故の教訓があって報道するなら別だが、冷たいようだが、必要な関係者だけに報じればいいと思ってしまう。こんな報道をしている国も珍しいと思う。当然受け取る国民側も聞き流すだけになっている。このような現象が社会問題にも政治にも外交にも経済にも蔓延しているし、得体の知れない不安感や疑心や思い込みや幻想に惑わされ続けている。

何故、このように間違った見識がそのまままかり通っているんだろうと不思議に思う。

 例えば、日米安全保障条約も、武器輸出三原則も、沖縄問題も、個人情報保護も、著作権も、年金問題も、表面的な評論しかなくて実態を捉えた現実的な議論はほとんどされていない。反対にこれをできれば避けて通りたいと思っているし、現実にこれまで目を瞑って問題にすることを避けてきた傾向にある。ここら辺で腰をすえていいことも悪いことも含めて議論すべきである。いろんな意見があって当然なのに、正直な意見を述べると周囲から袋叩きにされるような雰囲気の中では議論は一向に進まない。事実を述べるだけでは議論にならない。その事実に対して「あなたは」どのように感じどのように思い考えているのかが議論の主体であり、お互いの自由な意見を戦わせるのが議論であるが、誰も自由な意見を述べようとしないで事実の羅列に終始している。たぶん自分の意見に責任を持とうとしていないんだろうし、周囲から責められないように自分の欠点を隠すことに汲々としているのだろう。





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