オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

金儲けの方法

2007年05月09日 | Weblog

金儲けの方法についてよく考えて見ると、

 金を儲けるためには、金を払う人と金をもらう人の関係を考えればいい。金を払う人は対価として商品やサービスを受け取ることになる。金をもらう人は商品やサービスを用意してこれを提供することにより金を受け取る。通常であれば受け渡しされる商品やサービスとお金は等価であるはずである。等価でなければ商談は成立しないであろう。より効率的に金儲けするためには質の悪い商品やサービスをより高く売りつけることであるが、そのためには相手の弱みに付け込んだり、相手を騙したり、誤魔化したりしないと商談は成立しないはずである。そう考えると、金儲けはいかにしてお客を不利な状況に陥れるかということを追求することでもあるようだ。

もらう金以上の商品やサービスを提供すればお客は喜ぶが赤字になってしまう。

 お客の弱みに付け込んだり、騙したり、誤魔化したりしないでお金を儲けるには、お客がお金と等価だと思うような商品やサービスをいかに安く実現するかが金儲けのポイントである。しかし、安く実現できるのであれば、その商品やサービスの値段を下げるのが良心的な商売である。安く実現できるにもかかわらずそのことを企業秘密として隠して高い値段で売りつけることは客観的に見れば許されない。安く提供できることはシェア獲得競争には貢献できても利潤の比率は一定であるべきである。いや販売数が増加した分かえって薄利多売の方向に走ることになる。

本来の商売は、

 商品やサービスにつぎ込んだ労力と等価の価格であることが基本であろう。これ以外に引き続き商売を続けるために必要な分(利潤)がちょっと上乗せされるのではなかろうか。こう考えてくると、常識に外れてガッポガッポ儲かっている企業は何かおかしい気がする。なぜ儲かっているのだろう。お客と売り手の関係で、どう考えてもお客に損をさせないとそんなに儲かるはずがない。長い目で見て見ると法外に常識に外れて儲かった分だけ周囲に対して害毒を振り撒いていることでもある。そういう観点からも急成長で金儲けする企業は一発屋で長続きがしないのが納得がゆく。長続きするはずがないのである。堅実な企業は堅実な儲けを維持していつまでも堅実な商売を継続することに専念している。

他の商売人の儲けを独り占めするのも金儲けの方法である。

 しかし、この行為は公明正大な競争原理を欠くと殴り込みであり略奪にもなりかねない。そしてこのことは市場全体に害こそ及ぼすが、長期的に見れば推奨されるべきものではない。公明正大な競争原理はお客に対して有利であるが、単なる殴り込みや略奪で市場を荒らすことは多様性と選択の余地を奪いお客に対しても不利な結果になる。共存共栄を図ることと金儲けは相反することであり、二者の調和を図るつもりなら、常識はずれの金儲けはできないはずである。他者に対する一方的な破壊は推奨されるべきでなく実績に基づいた評価でもって徐々に変化してゆくものであろう。

世の中に、金儲けに躍起になっている人がたくさんいる。

 昔から言われていることだが、「カネ!カネ!カネ!」の考え方は世の中を悪くするだけで欺瞞や中傷や破壊や略奪や強奪の世界を繰り広げ、ギスギスしたゆとりのない社会を実現するだけである。常識外れた法外の金儲けを目指す必要はない。人のため社会のため貢献できることが最終目的であり、貢献した分のお金をいただければ十分である。それ以上ふんだくるのは暴利でありいわゆるボッタクリに近い行為である。また、周囲を圧倒して荒稼ぎをする必要もさらさらない。皆で仲良く社会のために貢献できればいいのである。隙あらば他人を蹴落とそうと虎視眈々として生きることはどう考えても平和的でないし、油断すれば自分が蹴落とされることになる。

市場競争というものがある。

 これは、相手の弱みに付け込んだり、騙したり、誤魔化したりすることでもないし、市場を独占することでもない。需要と供給を一致させるための競争である。市場の動向をいかに正確に把握し迅速に対応できるかの競争でもある。この競争は万人に平等の立場で平等の機会が与えられる。資本力の大きいものは数多くの機会に挑戦できるが、資本力の少ないものの挑戦する機会を奪うものではない。そして、より多くのリスクを負うものがより多くの利潤を得ることになる。その競争価格は基本的には生産価格を中心に決められるのが原則である。我々お客としても妥当な生産価格を吟味できる目を育てることが健全な市場を育てることにつながると思う。お客が健全でなければ市場も健全性を保てない。

結局、金儲けはあまり考えないほうがよさそうである。

 人のため社会のためにいかに貢献するか、そしていかにして引き続き貢献しつづけるかを考えなければならない。需要に応えるのも、効率化合理化を図るのも、収支決算をあわせるのも金儲けのためではなくて、いかに貢献しいかに貢献しつづけるかのために努力しているのである。その貢献度に応じて信頼と信用が獲得でき社会に定着してゆくのだと思う。もし予想に反して望外な金儲けをしてしまったらその儲けは社会に還元するのが本来のあるべき姿ではなかろうか。

商売に貴賎はないが、金儲けのためには形振り構わないというのは如何なものかと思う。

 まず最初には、人のため社会のため何をもって貢献するかをしっかりと考え、その貢献を通じて自分の生活を確保するため、また継続的な貢献を可能にするために必要な資金を得ているのだと思う。金が儲かれば何をやってもいいというのは、社会に対して害毒を振り撒いているのと同じ事だと思う。自分を騙しているか、社会を騙しているかであると思う。騙しの行為がないと需要と供給の間に法外な利益が生まれるはずがないし、たとえ生まれたにしても長続きがするはずがないと思う。

 


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