オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

高齢者医療

2022年08月22日 | Weblog

高齢者の健康管理が騒がれている。

 その主体となるのが医療であるが、その医療の在り方に何となく不満を抱く者である。医療の話題に上るものがみんな後ろ向きの言い方ばかりなのではないかと思っている。言い方を変えると、引き算の医療ばかりのような気がする。健康を維持するために禁止したり、控えたり、安静にしたり、安全な環境にしたり、無理をさせなかったり、新たな挑戦をさせなかったり、過激なことを避けさせたり、などなどである。うまく言えないが、本来あるべき全体から引き算をすることばかりのような気がする。

運動不足だから運動しなさいと言われる。

 健康のために運動しても何も楽しいことはない。運動すれば健康になるわけではない。運動能力を向上させることによって生きる力を獲得しているのである。歩くことができれば歩く能力に伴う生存能力が向上するのである。歩ける力が生きる力になるのである。適当に運動するのではなく、例えば歩く能力の向上に努めるのである。今日よりも明日、明日よりも明後日と能力が向上することに意味がある。高齢者には無理だと思ったところから後退するばかりである。

高齢者は高齢者なりに日々向上の喜びを与えるべきである。

 引き算ではなく足し算にする必要がある。本来あるべき全体に不足しているものを足してゆくのである。今までなかったものを新たに足してゆくのである。新たなものを何にするのかは高齢者自身が考え出さなければならない。その考えだす力そのものが生きる力でもある。もっとおおらかで包容力のある高齢者医療を考えてもらいたいものである。単なる医療技術からの延命のための健康管理をされても本来の生命力ともいえる生きる力は萎えるばかりである。

基本的には自覚症状がない限り医療に頼る必要はない。

 高齢になれば、身体のあちこちで老化のための機能低下が生じるし、検査をすればあちこちで異常が見つかるだろうが、通常でないから異常と思われても困ってしまう。高齢者には高齢者の通常状態があるはずであり、少々異常であっても深刻な病状でなく自覚症状がなければ放置していてもいいはずである。深刻な病状に発展する可能性のあるものはあらかじめ対処しなければならないだろうが、それ以外は不具合のままでいいではないか。

病気と共存するのである。

 人間は高齢による老化は免れない。老化を遅らせるのは創造的挑戦的な行動を維持することである。この心意気をなくしたら生きる活力はなくなる。その部分の健康管理は医学的な高齢者医療で語られることはない。高齢者の周囲の人達もどうやら医学的な高齢者医療の礼賛者らしい。何とかしなければならないと思う。大は小を兼ねるという。大きいことはいいことだ。大きすぎるから小さくしなさいと言う前に、もっと別のところを大きくしなさいの方が前向きである。少々大きすぎてもそれほど問題はないし、問題があればその部分だけ対処すればいいのである。

人間の身体は、良くできているもので、少々の凸凹があってもうまく調整する機能を持っている。

 血圧が高いからと引き算の医療で血圧を低くする治療を施す前に、身体の調整機能の結果として、必要な血圧を維持しているのである。その高血圧が血管や心臓に障害を及ぼしているのであれば、血管や心臓を強くする努力をすべきではないか。これが足し算の医療である。血管や心臓が丈夫であれば少々血圧が高くても問題ないし、何故身体が血圧を高くする必要があるのかを考えなければならないと思う。対処療法だけで解決する問題ではない。

血圧の話を続ければ、

 血管や心臓を丈夫にするために何をしなければならないか?運動能力を向上させることである。ただ、漫然と運動すればいいわけではない。歩く距離を延ばす、速度を上げる、力強く歩く、その延長線上で走る、飛ぶ、であり、泳ぐ、登る、持ち上げる、などである。それらの能力を得ることそのものが生きる力を得ることでもある。それでも病気になって死ぬのであれば、それは天寿である。医者はその病後の最後のお手伝いをするのみである。そんなことを考えながら日々過ごしている。


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