オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

検察や警察の民主化について

2008年09月07日 | Weblog


戦後日本は大改革を強いられたが、検察や警察は例外であった。

 大改革の目玉は新日本憲法であろうが、この中に記述されていることは、天皇、戦争の放棄、国民の権利及び義務、国会、内閣、司法、財政、地方自治などであり、どういう訳か検察や警察については直接は記述されていない。国民を取り調べ取り締まる側の過去の横暴は特高や公安などと言われいろいろな記録からも事実として伺い知ることができるが、特高こそ廃止されたもののこれらを直接的に改革することは新日本憲法に記述されていないのである。新憲法の意図を汲んで検察も警察も民主主義や自由平等や平和主義に反することは許されなくなっただろうが、検察や警察の組織や体質は改善されないまま現在に至っているという感覚は拭いきれない。

私の知人に容疑者として取り調べを受けた貴重な経験を持つ人がいる。

 その話を聞くと、極端に言うと人生観が変わったというし、こんな世界があるのかという貴重な体験をさせてもらったというし、生まれて初めての経験であったというのである。知人の名誉のために言うが、当然ながら知人は無罪であり事情聴取を受けただけである。本人も無罪であることに自信を持ち堂々と取り調べを受けたつもりであった。

まず、出頭すると、建物の構造が独特である。

 両側に部屋があり、中央が廊下になっているが、窓がないために昼間であっても薄暗いし、蛍光灯の明かりがあるだけである。そして廊下はくねくねと複雑な迷路のようになっているそうである。自分の現在地を見失ってしまうような感じがして、それだけでも不安になってくるという。壁はコンクリートの打ちっ放しであり、質素で何もない。あちこち尋ねて、やっとのことで目的の場所についたそうである。そこには両側に取調室がずらっと並んでいる。

待合室は暗い廊下の片隅である。

 質素な長椅子があり、そこに2.3人が座っている。多分同様の件で取り調べを受ける人達であろうが、もしかしたら凶悪犯かも知れない。挨拶を交わす雰囲気でも会話をする雰囲気でもない。お互いに視線を落として肩をすぼめて神妙に呼ばれるまで待つことになる。何気なく上目遣いで周りの人の様子をうかがいながら、お互いに無言で観察し合うこと数十分。長い時間待たされるのである。周りは窓もないコンクリートの壁だけで廊下は迷路のごとく入り組んでいる。独特の雰囲気である。

時たま、手錠をかけられた人がエレベータから降りて係員に護送されていく。

 日常茶飯事の当たり前のように廊下を移動して行く。一般市民としては異常な体験であり、もしかしたら自分もこうされるのではないかという不安が頭の中をよぎる。ますます押しつぶされそうな暗い気分になる。本人はその時、このままこの場所から出られなくなるのではないかと本気でそう思ったそうである。また、これは自白を促すために被疑者をびびらせるための取り調べ前の演出ではないかと、本気で思い「まさか冗談だろう」と心の中でつぶやいたそうである。

取調室にはいると、不思議なことにそこにも窓がない。

 ドアを閉めるとコンクリートに囲まれた密室である。ドアのところに記録係の人がいて正面に取調官がいる。周囲からは完全に隔絶されており何をされても助けを求めようもない。そして、神妙に座らされて威圧的で横柄な質問が続く。主導権は全て握られている。取り調べであるので、挨拶や社交辞令やおべんちゃらがあるはずもないが、とにかく、人を人として扱うことは皆無であったそうである。よく言って事務的、官僚的、無機質であり、悪く言うとまるで罪人を扱うような接し方であったという本人の弁である。「自分は悪くない正々堂々としよう」と言う思いは吹っ飛んで、思わず「申し訳ありませんでした、何でもお話しします。だから早く開放してください」と卑屈に頭を下げてお願いしたくなるような独特の雰囲気であったそうである。

効率的な取り調べを追求するとこのようになるのであろう。

 しかし、相手は一般市民であり、罪人でもない。たとえ罪人であっても最低限「人」としては取り扱わなければならないと思う。あまりにも世間から隔絶した異質な世界であったという。本人は決して二度と行きたくないし近づきたくもないと強調して叫んでいた。ある意味では効果をあげているのであろうか。また、「あの雰囲気で懇々と長時間にわたってやられたらどんな極悪非道の凶悪犯でも思わず自供してしまうであろう。さすが取り調べのベテランだ」と変な意味で感心していた。

過去に報道された警察内部のもろもろの不祥事の顛末を見ていると、

 どう考えても民主的な警察とは言えない。少なくとも開かれた警察というイメージはない。密室の中で秘密裏に国民の伺い知れないところで勝手な行動をしている感覚は拭い去りきれない。少なくとも警察は善良な市民の味方である。国民の意志に反して勝手な行動や行いをすることは許されない。ただでさえ秘密の多い組織であるので、基本的態度は可能な限り情報公開につとめるのが本旨であろう。それが、積極的に意図的に自ら情報の隠滅を図っている。これでは国民の信頼は得られないし、国民は警察権を任せ委ねることができない。

行財政改革や情報公開を切り札に警察機能の画期的な改革を期待する。

 戦後の改革から取り残されている警察を早い時期に見直す必要があると思う。警察の組織も解りづらい。総理府国家公安委員会の警察庁があり、これとは別に都道府県警察がありその本部として東京都に警視庁がある。その長は片や警察庁長官であり、片や警視総監である。広域組織犯罪に対する対処も混乱を招いている。どうあるべきかは私の知るところではないが、現状を見直す必要があることは確かである。

確かに警察法は1954年に改正されている。

 以前の警察は、人口5000人以上の市町村に自治体警察を置き、国家・地方ともに併せた組織になっていたが、1954年にこれを廃止し、現在の組織になっている。敗戦直後に、特高(特別高等警察)が廃止され、警察の政治的中立は一応確保されたものの、その後警察の改革は組織の見直しが主体であり戦後の民主化の嵐を通過したとは言えないと思う。検察庁法も1947年に改正されているが、私の知るところでは大改革がなされたという印象はない。

検察や警察が国民に開かれた民主的な組織となることを期待する。

 検察官や警察官は国民の人権をもある程度踏み越えられる警察権を持っており、社会公共の秩序維持のため国民に命令強制を加える公権力を持っている。「警察」とは「社会公共の秩序を維持し、その障害を除くために国の統治権に基づき国民に命令強制を加え、その自然の自由を制限する行政上の作用、組織」とある。検察や警察は国民に関する全ての情報を収集することも可能である。この情報を悪用されたのではたまらない。だからこそ開かれた民主的な警察が必要なのである。

2001年から1府12省庁制度が始まっている。

 この内閣の組織をよく見てみると、そのまま名前が残るのは法務省と外務省とそして、防衛庁と国家公安委員会である。ちょっと乱暴だが、この4つは大規模な中央省庁改革からはずれていると言うこともできる。特に防衛庁と国家公安委員会は置き去りにされたまま昔のままで残されたことになる。ほかがほとんど「省」になって、防衛庁こそその後省に格上げになったが、この二つは例外的にポツンと残されたままである。改革するつもりがないのか、改革したくないのか、改革する必要がないのか知らないが、難題が多すぎて誰も手を着けようとしない。国防と警察は統治国家にとって必要不可欠の重要な機能である。問題を先送りしないで早い時期に見直す必要があると思う。効率化・合理化だけが行政改革の目標ではない。

ちなみに、「警察権」に関して次の4原則があることを発見したので紹介する。

1 警察公共の原則
  私生活・私住所・民事上の法律関係に関与しないこと

2 警察責任の原則
  故意・過失・自然人・法人の別は問わないが、社会公共の秩序に対する障害の発生に ついて責任ある者のみに発動する。

3 警察比例の原則
  警察権の発動は社会公共に対する障害の大きさに比例しなければならず、常に必要最小限でなければならない。

4 警察消極の原則
  公共の安全と秩序に対する侵害の具体的危険性がある時にそれを除去するためにのみ警察権は発動される。

注:この4条件を満たさない限り警察権は発動されない。すなわち、警察権が発動される以外は検察官や警察官は一般市民と同等の立場を保持しなければならないのが原則である。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 死ぬことの自由 | トップ | 国民に対する謝罪の方法 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事