オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

「内部告発」の世相

2009年04月12日 | Weblog

あちこちで不詳事件が起きている。

 警察あり、中央省庁あり、地方公共団体あり、金融関係あり、会社関係あり、政治家あり、有名人あり、その他云々である。そして、事の発端は「内部告発」であることが多い。内部告発でなければ外部に露呈することはないであろうと思われる不祥事が多いことに気がつく。悪いことは悪いのであり、内部告発であろうとなかろうと悪いことが発覚したら取り締まるのは当然であるが、内部告発した人の顔が見えなく非公開の匿名であるところが何となく合点がいかない。

内部告発は大きく2種類に分類できると思う。

 ひとつは、正義感から発するところの内部告発であり、もう一つは相手を陥れるための内部告発である。当然この2種類は玉石混交してその混交比率はピンからキリまであると思う。しかし、純粋に正義感から発する内部告発であれば、正々堂々と顔と名前と素性、経歴と告発する目的・主旨などを明らかにすることはやぶさかではない。何にも臆することはないはずである。だからこその正義感であり、これがなければ内部告発が正義感から為されたとは思えない。何らかの他の思惑が含まれていると思うのが普通である。

純粋に相手を陥れるための内部告発はやり方としては卑怯である。

 しかも、闇に隠れたままでの告発はたとえ告発内容が真実であってもその行為自体は別の意味を持つ。「チクリ」とか「告げ口」とか言う類で、何となく裏切り行為の意味合いが強くなってくる。しかもそのことによって相手を不利な状況に追い込もうという意図があったらこの内部告発は慎重に対応しなければならない。この内部告発した人の思うままに動かされたのでは、この人の思う壺である。このようなことがないように対応するためには、どうしても内部告発した人の身元を明らかにして公開の場に登場してもらわなければならない。そうでなければ内部告発の内容を安心して諒解することはできない。少なくとも告発する人と告発される人は対等の立場に立つのが原則であろう。

告発される人が公開の場に曝され告発する人が匿名のままであるのは許されない。

 よくテレビ番組で、内部告発をそのまま放映している。磨りガラスの裏とかモザイクがかかったり、顔を見せずに下半身を映したりである。本人の希望で匿名で報道しているのだろうが、冷静に考えると匿名で報道されること自体は信憑性にも疑問を持たなければならないことでもある。参考にはするが、その主張が全面的に認められることはない。いや全面的に認めるべきではないのである。認めてしまったら内部告発された人が不利になる。内部告発された人は公衆の面前に曝されて告発された内容に懸命に反論しなければならないのである。

匿名性の内部告発は本来許されるものではない。

 内部告発の本質は裏切り行為である。正義のために内部告発が必要な場合もあるが、本来は自らこの悪と戦うべきなのである。そのことを最初から諦めて安易に外部に対する告発で目的を達成しようとすることは最善ではない。当然、匿名性の内部告発があったからとこれだけを根拠に暴き立てるのも間違っている。匿名性の内部告発は調査段階の端緒にしか過ぎない。本当に告発するのは内部告発の信憑性を事実として確かめてからである。そして告発する根拠は調査で得た事実であり、内部告発の内容ではない。

内部告発が盛んに行われることはある意味では良いことである。

 組織としての一枚岩が崩れつつあることを示している。古い時代の封建主義から民主主義へ変貌しつつあると言うこともできる。しかし、これは「悪」を改善するための内部告発であって「悪意」をもった内部告発であってはならない。そして、これが組織の団結を乱すものであってはならないと思う。「善」については一致団結して「一枚岩」で取り組まなければならない。古い時代の封建主義は「善」も「悪」も含めて「一枚岩」で対応していたようだ。これに風穴をあける「内部告発」であるかも知れない。

ただ、民主主義の観点から言うと、

 内部告発は正々堂々と公開の場でなされなければならない。告発する人とされる人が対等の立場に立って堂々と討論できる場を設けなければならない。「チクリ」や「告げ口」であってはならない。「チクリ」や「告げ口」は体制や権力者に依存し迎合したものであり、本来の民主主義は個人対個人で堂々と戦うのが原則である。これは「裏切り」や「卑怯」や「背任」ではない。当然の民主主義的行為である。反対に「チクリ」や「告げ口」は組織の団結を乱す主要な原因にもなる。また、「チクリ」や「告げ口」に頼らなければ組織が改善されないと言うことは組織の自浄作用が機能していないことでもある。本来は組織の監督・検査機能で改善されるべきなのである。

内部告発と同じようなものに犯罪捜査のための通信傍受がある。

 匿名の他人から告発されるのではなく、匿名の他人(捜査員)からプライバシーを覗かれるのである。1999年6月1日に通信傍受法(通称盗聴法)が衆議院を通過した。本人の承諾なしに通信傍受をする事は本来許されるべきことではない。本質は卑怯な手段である。しかし、あらゆる手段を使い組織化、複雑化、広域化している凶悪な犯罪を取り締まるためには仕方ないことかも知れない。盗聴に当たっては犯罪撲滅の目的のみに限定して実施すべきであって、主客が転倒し市民のプライバシー保護がおろそかになってはいけないと思う。主客の転倒とは、犯罪の事実のないところに盗聴によって一般市民の犯罪を暴き出そうというような試みである。盗聴が許されるのはあくまでも犯罪を立証するための証拠のひとつとしてであろうと思う。目的の限定と厳格な許可条件と収集資料の適切な管理・使用が重要ではないかと思う。

内部告発や盗聴が世の中に蔓延することは望ましいことではない。

 内部告発や盗聴の風潮は、世の中に相互不信の種をふり蒔く。いつ告発されるかわからない、いつ盗聴されているかわからないような環境は自由闊達な行動を規制する。悪い行動は規制されていいかも知れないが、いい行動も揚げ足取りの恰好の餌食にされる。そして、得体の知れない匿名の内部告発や盗聴行為となると対策のしようもない。また、悪意を持った人がこの匿名の内部告発や盗聴を有効利用して暗躍することになる。何度も言うが、内部告発は正々堂々と顔と名前と素性と告発の目的・主旨を明確にして公開の場で行われるべきであり、盗聴も盗聴した事実と内容は本人に通知されるべきで、収集資料も少なくとも本人には公開すべきであると思う。密室で秘密裏に行われることは許されない。

過去の歴史を振り返ると、不況の時に内部告発が蔓延する。

 金の切れ目が縁の切れ目と言うことであろうか?このことをひっくり返すと、定常状態でいかに金の呪縛から逃れられない体質にあるかが読み取れる。金が潤沢に回らなくなると内部告発が日常茶飯事となる。「お前だけいい思いをさせるのは許さない」「分け前をよこさないのは裏切りだ」「口止め料をもらえないなら告発するぞ」ということであろう。何とも恐ろしいことである。しかし、反対にこの体質を改善するいい機会でもある。おおいに告発される側も告発する側も改善してもらいたい。告発する側も告発される側も問題点を孕んでいるのである。是非有耶無耶にすることなくこの際だから膿を出しきってもらいたいものである。


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