オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

外国の企業VS日本の企業

2009年07月11日 | Weblog

テレビのコマーシャルでカタカナの企業名の宣伝があふれている。

 何も気にとめていないがよく考えてみると、カタカナ名の企業のすばらしいところをしきりに宣伝しているのを聞けば聞くほど本来の日本の企業が頼りなくて信用が置けなくて弱小であると言っているようにも聞こえる。そうでなくても国内では老舗の伝統ある大企業が次々に業績悪化で傾いている。しかもその悪化の原因はどう考えても放漫経営で、先の見通しを欠いたその場限りの失策を繰り返した結果の救いようのない致命傷であり、その終末も恥ずかしいくらいに見っとも無いドタバタ劇を演じている。これでは日本の企業を見捨ててしまう風潮が生まれるのも仕方ないのであろうか。

それでもしかし、もう少し突っ込んで考えてみると、

 外国の企業と日本の企業はどちらが信用できるのだろうか?少なくても外国の企業は最終的には外国を本拠地とし、日本と自国を比較すれば当然のごとく自国を優先するし、危機に遭遇したらまずは日本を手放して本拠地の自国を守りに走るのは自明の理である。その点においては日本の企業のほうが日本人にとっては確実に信用できるはずである。また、日本人が外国の企業ばかりしか信用できなくなったら日本の企業は消滅してしまう。日本という国土と国民は存在するが国の経済活動は全て海外に依存し、日本人は海外の企業のお客さんに過ぎず、海外の企業に雇われた労働者として存在することになる。こんな日本に「国家」を築くことができるのだろうか。どう考えてもおかしい。

外国企業と日本のお客さんの関係は、日本企業と外国のお客さんの関係と同じである。

 双方ともに相手は外国人であり対等の関係である。外国人同士と日本人同士の場合もその関係は対等である。しかし、お互いが外国人の関係とお互いが同国人の関係はちょっと違ってくる。当然同国人同士のほうがその結びつきは強いことになる。海外に進出すると言うことはその同国人同士の強い結束の中に入り込むことでもある。相当な実力がなければできることではない。日本に進出しつつある外国企業もたぶん相当な実力を持っていると思う。日本企業はそのハンディキャップを使い果たしても負けてしまっていることになる。そんな日本企業は当然のごとく海外へ進出できるはずもない。目の前に大きく広がる可能性を自らの実力のなさを前にして見捨ててしまっていることになる。

外国の企業が跋扈しはじめたということは、

 反対に考えると、現在の日本の国家がしっかりしていないことでもある。日本の国家のアイデンティティーが明確でないので、優先すべき「自国」が判らなくなっているのではないかと思う。「自国」を優先して死守し、「自国」の権限を主張してゆく努力も足りないのではないかと思う。海外の企業が日本に押し寄せるということは、海外の権限が日本国内にも確実に及んでいることであり、たとえば日本国内の海外の企業が万一危険にさらされたときには本拠地である本国はしっかりと守ってやれる「力」を持っていることでもある。この権限と力を国家として保持していないと安心して海外に企業が進出することはできないのではないだろうか。別に海外の企業を排斥しようというわけではない。大いに進出してもらって結構であるし、日本も海外に進出すればいいと思う。しかし、最終的には自国が本拠地であることには変わりないし、最終的な砦はやはり自国である。そしてアイデンティティーの発祥地はやはり自国である。自国があっての海外であって、国籍不明の企業は得体が知れないし信用もできないであろう。

国レベルで考えるからわからなくなるが、

 家族レベルで考えてみるとよくわかると思う。自分の家族よりもどこかほかの家族のほうが信用できるからといってその家に入り浸りというのはちょっと考えるだけでおかしいと思う。信用できてもできなくても家族は家族であり、信用できない状況であれば信用できるように努力するのが本筋である。どうであろうと家族を守り、しっかりとした家を築いてゆくのが個人のアイデンティーであり個人の存在意義でもある。 家族関係がうまくいかないから、家族の運営がうまくいかないから、家族が崩壊してしまったから、といって家族を捨ててしまうのは個人としての自分を捨てることでもある。そんな人は、個人そのものも捨ててしまうかもしれない。当然そんな個人を他人が信用するはずもない。日本の国自体がそんな状況に陥っていないことを願っている。

「信用」という言葉を考えて見ると、

 「確かだと信じて疑わないこと、まちがいを起こさないだろうと思われること」とある。世の中に「まちがい」はたくさんあるし、「まちがい」が完璧に一切ないと言ったらうそになる。この「まちがい」に注目して「信用」という言葉を考えて見ると、「まちがいが少ないこと、万一まちがった場合でも責任をもって対策をしっかり取れること」ということになるであろうか。日本の企業が信用できないのは、まずまちがいが多すぎてしかも繰り返すこと、そして間違った場合の責任をとる姿勢がなく対策もいい加減であること、なのではないだろうか。日本人としては日本の企業を信用したいし、日本の企業がしっかりと発展していってもらいたいと思っているはずである。そんな期待を担っているにもかかわらず前述のような体たらくである。困ったものである。

この原因を考えて見るに、

 「三代目は身上をつぶす」と言われる。一代目は起業の人である。二代目は一代目の苦労している姿を見て育ち家督を継ぐ。三代目は苦労を知らないで二代目の順風満帆の姿を見てそのまま家督を継ぐ。そして三代目は身上をつぶす。こういうことである。どうも日本の企業の代表を見ていると、この「三代目」に見えてしまう。起業家精神、フロンティア精神を忘れてしまっている。現状を維持するということは過去をそのまま踏襲することではない。周囲の環境は常に変わっており、その中で現状を維持しなければならない。部分部分においては起業家精神、フロンティア精神を発揮しないと、とても現状を維持できるものではない。継続的な部分部分の地道な改善が現状維持を可能にしているのである。その心を忘れてしまっているのではないかと思う。一代目、二代目がコツコツと積み上げてきたものは、三代目以降もまたコツコツと積み上げ直していかなければならない。やらなければならないことは基本的には一緒なのである。

先人の積み上げたものの上にあぐらをかいて手抜きをした罰が中っているのかもしれない。

 もっと悪い場合は、先人の功績を投げ打って博打を打つような人もいる。博打が悪いとは言わないし、現実社会で物事を決心するとき最終的には博打の要素が少なからず必要である。しかしその博打は成功の確率が高く、万一失敗した場合も被害を最小限に抑えることができるものでなければならないと思う。全てを投げ打ってイチかバチかの勝負をするのは、とても周囲から信用を獲得できる行為ではないと思うし、そんな企業がいつまでも長続きするはずがないと思う。「信用」とはそんなものではないし、信用を獲得しようとすればそんなことをしないことである。信用は過去にも未来にも営々と築かれるものだと思う。その信用が日本で失われつつある。

日本で信用を回復するためにはどうしたらいいのか・・・。

 たぶんそれは、起業家精神、フロンティア精神を掘り起こすことだと思う。フロンティア精神というと、ひところアメリカでもてはやされたが、今でもアメリカ人の精神のよりどころになっているようである。起業家精神、フロンティア精神といっても何もない状態に戻して最初から作り直せと言っているわけではない。目の前にある一つ一つの問題を起業家精神、フロンティア精神を発揮して取り組めと言っているのである。日本の場合は何かと言うと白紙に戻して最初から考え直すことばかりを推奨したり、誰も今までやらなかったようなことに挑戦することを奨励するけれども、それは全体の一部としては存在するけれども、その一部だけで済ませてしまうことは間違いの元になる。目の前にあるたくさんころがっている問題を一つ一つ片付けてゆくしか方策はない。何度も繰り返しているが画期的な特効薬はないのである。画期的な特効薬があると思わせ大衆に夢を抱かせるような施策はこれまでこごとく失敗している。特効薬は副作用が怖いし、夢を追求したツケはいつか自分たちに降りかかってくる。


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